4-1. クローズド・メモリーズ
アオスジアゲハのころ、身を捩らせながら部屋の掃除を待っていた。
「すぐ終わるから、どっか行かないでね」
すぐ、と言うわりにユウの掃除はとても丁寧。ヒトのお部屋もそう。掃除機、という機械があるけどナナが苦手だから普段は箒と塵取り、コロコロ、フローリングワイパー。黙々と端から端まで掃いていくきまじめな様子はあのころの静けさの正体なのだとわかって、なんだかくすぐったかった。ふふふ、と笑うと不思議そうに顔を上げるから余計に面白くなってしまう。「何笑ってるの」「なんでも」
昔あおむしだったころ、掃除を始める前にユウは私をカゴから出してたくさんのティッシュの上に優しく下ろしてくれていた。あの清潔な真白がすきだった。ユウがケースを拭く音はするけど、それでも静かな雰囲気に包まれているのが不思議で、うずうずして、結局じっとしていられなくて真白の海を旅し始めてしまう。気がついたユウが慌てて探す様子がわかって、ここよ、と上体をあげるとかならず見つけてくれるのがすきだった。安心したような溜め息も。
「切菜って掃除見るのが好きなの? 掃除機かけてる時も笑ってるよね」
「おもしろいんだもの。鳴き声がして」
「鳴き声……?」
「うおーん!って」
ぽかんとして、遅れて笑い出すあなたの顔はいまでも少年だ。いまでも変わらずやさしい。お料理しているときもお洗濯しているときも優しさを感じるけれど、お掃除しているときのユウが一番優しく、そしていとけなく思うのはどうしてなのだろう。
「ねえ、かくれんぼしましょう」
「え、嘘なんで」
ふふ、と笑って誤魔化すのを様子を窺うようにしてまじまじと見つめてくるので、一瞬を突くようにしてぱっと身を翻す。あ、と彼が声を上げるのを背に聞きながら、たぶん急には追ってこないから私は心地よくそのこえを憶える。階段を上がって二階へ。
昨日が寒かったからか二階の窓は閉まっていて、薄曇りの朝の気温が大事にとざされていた。その空気にしんと身をなじませてみる。自由になったような心地も、孤独になったような心地もする。
足音で気づいたようで、ナナが部屋の扉を開けて私を呼んだ。どうしたの、と不思議そうにするのでまたくすぐったい気持ちになりながら「かくれんぼしているの」と笑う。
「かくれんぼ……じゃあ、切菜ちゃんに会ったことは、内緒にするね」
「ありがとう」
頑張ってね、と微笑む彼女にすぐそこなのに手を振って、向かいの星の見える部屋を覗いてみる。クローゼットはあるけれど、そんなところに入ったらきっと怒られてしまうのでここには隠れられなさそう。仕方ないのでもう一つ隣のユウの部屋へ。扉は開いている。
入ってすぐに私のカゴがあった。昨日設えたばかりのプラスチックケースに、もう赤い蝶が二、三憑いて、少し飛んだと思えば羽を休めている。私はゆっくりとそれ近づき、静かにカゴごと抱き寄せた。私の白詰草が徐々に周りに咲いて、やがて蝶の名残を忘れる。
忘れていていい。
(……でも、それはなぜ?)
モンシロチョウの生を得たのに、羽化する未来は早々にまた潰えてしまった。せめて名残だけでも纏わせておけば、歪なかたちにでも蝶に成れるかもしれない。
(……いいの)
いいの。何故かはわからないけれど、ここにいられるならそれが一番、私は蝶でいられるような気がする。
階段を上がってくるけはいがして、隠れるのを忘れていたのに気づく。はっとして、前屈みになっていた体を起こして、そうして改めて自分の腕の中にあったものを見つけて、頬がきゅっと上がるのを感じた。人間のかおはどうして楽しいと笑うのだろう。誰かに教えて貰ったような気もするけど、それならたぶん、私の笑みはユウに習ったものなのかもしれない。
じっと息をひそめて耳を澄ませる。くぐもった遠い音でユウがナナの部屋を訪れてなにか訊いているのがわかる。ナナは約束通り、みていない、と返事していた。
せつな。
呼び声にどきどきとしながら部屋に入ってきたあしおとに息を合わせる。それは、あなたが何を考えているのか知るために。
かつてもそうして遠い彼らの心の片鱗を想像していた。その時間も、すきだった。
ユウは少し部屋の中をさまよって、すぐにぴたりと足を止める。きっと何か思いついて、ゆっくりとこちらへ近づいた。
ケースの蓋がぱか、と開く。「みつけた」
あなたもそうして、私たちの片鱗を夢想してくれるのかしら。あおむしのすがたをしている私に、そのくすぐったさと幸福を伝える手立てはない。だけどわかってくれるような気がするから、上体を一生懸命持ち上げてみる。そしたら彼の指先がそっと私の前に置かれるので、前脚で抱きつくように触れた。
「ここもあとで掃除しよう」
呟く声にはあのやさしさが籠められている。
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