1. 結びの的

 切菜が帰ってきた。


 帰ってきた、ということはつまりこれまで家をあけていたということだ。もちろん元々ここに住んでいるわけではなかったけれど、この家につどってからほとんど毎日姿を見せていた彼女が、冬の半ばからぱたりとこなくなった。三日で心配になったけど、俺や姉ちゃんはもちろん、他の二人も彼女がクロオオアリの生を亨けたその場所を知るわけではない。探すに探せなくて悶々としたまま一週間が経ったころに、「名残を辿ってみよう」と提案をしたのは果楽さんだったか、夏羅サンだったか。


「なごり?」

「……ああ、君、見えないんだっけ」


 何故だか含みのある表情でそう言って俺を見返した夏羅は、次いで果楽に視線を遣った。彼もそれを物憂げな様子でうけてから、やさしい微笑みをくれる。「桜がみえた、と言ってくれましたよね」

「ああ、スズムシのときの……」果楽さんは第二生のいのちが尽きてからそのまま、幽霊になって彷徨っていた。俺はその果楽さんと出会っている。あのときの鈴の音は彼自身の声で、みえていた桜の花びらは死んだ場所によるものだろうと、一度話を聞いていた。


「あれを、名残というそうです。本当は今でも僕には桜が名残っているんですけど」

「えっ、そうなの?」

「みえないでしょう? 前世はたぶん、幽体のときに会ったのではっきりとしていたんだと思います」


 理由と事実の関係はいまいちわからないけど、虫は紫外線とかで雌雄を見分けたりするっていうから、彼らもそんなふうになにかとくべつな視界を持っているんだろう。……ちょっと信じ難いけど。でも妙な懐かしさがまとわって、俺にとっての非現実のはじまりを思う。「……じゃあ、切菜にも何かなごってるんだ」

 白詰草がね、と夏羅が教えた。続けて、君にも憑いてるものがあるんだけど、聞きたい?って嫌な笑みを浮かべるからすぐ断った。予想できたわけじゃないけど、最初の意味ありげな言い方といい、絶対に聞かない方がいいやつだ。果楽さんもなんか止めたそうな表情してたし。

 とにかくその、名残というものをしるべにして探すことが全然出来ないわけではないらしい。どうもふつうはかなり難しいみたいだけど、彼らが七花を捜していたときに頼っていた伝手があるそうで、それを当たってくれることになった。……ということは多分、姉ちゃんにも何か名残があるんだ。


(だめだ物凄くファンタジック……)


 俺はこの「名残」という現象については、あんまり考えないことにしようと決めた。現実感がなくなりそうなので。

 ―――そうしてしばらくの間ふたりが切菜を探しに出かけ、家に来るのも度々になった。果楽さんは結構頻繁に、短い時間でも七花に会いに来てくれたけど、夏羅は以前のように、もしくはそれ以上に顔を出さなくなった。ずっと心配だったんだと思う。いつかに切菜のことをきょうだいみたいなものだって形容していたことがあったのを俺は覚えていた。

 進展があったのは案外すぐで、その結論は「彼女は第二生を終えている」というものだった。


「しんで、しまったの、?」

「そういうこと。まあ、すぐ戻ってくるんじゃないの」


 七花の深刻なといかけに素っ気なく返した夏羅の物言いはひどかった。「実際ありえないよね。あの切菜がここに来ない理由なんて、『来れない』以外にさ」あーあ、ほんと人騒がせなんだから。

 ……人騒がせって、いくら転生のしくみがあってまた会えると分かっているからって、そんな言い方。俺も七花も戸惑っているのに気づいてか名を呼び嗜めた果楽さんにも、嫌な含み笑いをしてこう言う。


「君も気をつけてよ? 切菜と違って、あとがないんだから」

「夏羅サン!」


 す、と口をひき結んだ彼は不機嫌そうに眉を顰めた。そんな顔すんな。今のは絶対お前が悪いだろ。

 だけど次に落ちた「……すぐ来るよ、」という呟きがはらんだ苛立ちがなんなのか、擬人を掻き消してしまった跡を眺めながら気づいてしまう。

 不安なんだ。

 クロオオアリの、しかも女王。うまくいけば十年は生きるいのちだった。一番おわりから遠かったようにみえたのは切菜なのに、それが破られてしまった。

 当然、それはただそう見えただけであって、若いコロニーが立ち行かなくなることもままある。結婚飛行に失敗する個体だっている。その前に死を迎えることもあるだろう。

 知識の上ではちゃんと知ってたはずのことだ。―――ほんとうは、経験の上でも。


(………永遠じゃない)


 この日々が永遠じゃないことの証左だった。

 俯く七花の手を取った果楽がそっと、彼女と額を合わせる。祈るように。

「戻るのを待ちましょう」とささやいた彼の声がその夜の俺たちの救いになった。



 切菜が帰ってきた。

 それは穏やかな春の日で、新生活が始まる一歩手前のまどろみの雰囲気のある時期のことで。

 インターホンが鳴って出て行くと灰を塗した白髪はくはつの少女が瞳の碧を和ませて「ただいま」と言った。


 学名、Pieris rapae。小学生たちには生活科でも馴染みのある飼育しやすい白い蝶。その親しみやすさと清廉な愛らしさは確かに、彼女にぴったりの種だった。

 第三生の切菜―――モンシロチョウの寿命はおよそ、一ヶ月。

 

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