9. 秋虚すくう小径

 季節は秋に入っていた。紅葉はまだないけれど、少しずつ色を喪くしてゆく葉々は温度の低い風に揺れて、空の高さを嘆くようにも見える。

 ナナと再会を果たしてから……いや、夏羅とかの店で出会ってから、こうしてひとがたでひとり外を歩くことがなかったのだと知る。それは——再び生まれてきたことのわけも、ひとの姿をとるわけも、あの家だけにあるからなのだろう。

(だけどそれは、夏羅もきっと……、)

 何故あの日まで、あまり顔を見せなかったのだろう。ぐうぜん会わないだけだと思っていた。好かれていなかったのだと知って、だから会わない時間を選んでいるのだろうかと考えたりもしたけれど。ナナも「あんまり来てくれない」と言ってたのだから、やっぱり来ていなかったんだろう。

 さいきん、夏羅はよく姿をみせる。あの宵の言葉の通りに。そしてあの日のようにナナと言葉を交わして、ときどき笑いもした。きっと、喜ばしいことだった。


 みつけた、と声がひとつくうを伝う。

 振り返ればそこには、僕とよく似た姿。


「夏羅……」


 彼は僕の呼んだのに返事はしなかったけれど、ただ受け止めるような表情をした。それからため息をつくように俯いて、ゆっくりと歩みを寄せる。


「いま、出ていったでしょ。僕が家にいるって気づいて」

「………」


 僕は彼の言葉にどきりとして、受け流すように視線を逸らした。夏羅は聡い。僕なら気づけなかっただろうと思うから、いっそうどんな顔でいたらいいのか分からなかった。

 なんで、という疑問詞に間をおいて続く、きもちわるいんだけど、と言った声の携えるものの正体もしらない。けれどどうしてか、いつもよりもしんに接してくれているような気もしてしまうのは……自惚れだろうか。


「僕がいると……気を遣わせてしまうんじゃないかと思って、」

「は?」

「あなたがよく来るようになって、ナナも喜んでました」


 彼は一度口を引きむすんだ。沈黙の重みは鉛と同じいろをしている。「……なにそれ」やがて口をひらいては、その色をひらめかせる言葉。「譲ってあげてるって、言いたいの」


「そんな、つもりは…」

「だってそうでしょ。君か僕のどっちかしか居られないから自分は身を引いたんだって、そう言ったんだよ、今」


 余計なお世話なんだけど。夏羅のひとことひとこと、輪郭のなくなりそうな季節の空気に現実的な線を与えてゆくよう。けれどそれは、切菜のささやいたことを真実として浮き彫りにするいたましさも持ち併せている。「そういうことじゃないんだよ、」冷静さを欠いたようにふるえた独り言はきっと、秋風に晒されて傷んだ怒りで、だから彼はひとつ彼の中の正しさに素直でいるのだと理解することができた。

 僕には判らない。こんなときどう振る舞うのが正しいのか……。“ヒト”として。

 ヒトのように振る舞うべきだと、思っているわけではないけれど。だけどそれが、ナナをとりまく僕らの、ぐうぜんに生まれたひとがたとしての感情の、つまりは彼の、こころを掬うのに必要なのではないかと……そんなふうに感じて。


「だいたい、ナナが喜んでるとか言ったけど。君が来なくなって、僕がいるだけで、嬉しいわけないんだよ」

「……そう、でしょうか……」

「はあもう苛々する。君ってさ、奪ってでも自分のものにしていたいとか、ないわけ?」

「………、」これまでの感情をひとつひとつあらためて、想像の及ばないものだということを確かめる。「それは、僕には、わかりません」そうして決定的な違いを前に、やっぱり彼の方がひとの感情を理解しているように思えてならなかった。


「僕はきっと……彼女が幸せでいてくれさえすれば、いいんです」


 思い返す、アサギマダラの生。種の使命を捨ててまで彼女の許へ帰ったのは、あなたが寂しくないように。

 だったらなおさらと言い募る夏羅に顔を向ける。「ナナがいちばん会いたいのは君なんだから」なんて、ああ、また。

「………すみません、」謝ることだって、きっと惨めだろう。彼自身を疵つけながらも僕をただそうとする言葉に、多分甘えているのだと気付いて。思わず俯いていたのにまた視線を交わす勇気がなくて、僕は空を見上げる。

 空の白。

 そこに走る木々の枝。

 澄み渡った空気の孤独を、彼の方が先に知っていたんだろう。


「僕があの家に居ても、貴方も留まってくれますか?」


 問いかけるとまた、空気が震えた。先程よりも幾分か、感傷的に。


「………くだらないこと聞かないで」


 その意図を掴み損ねた僕を置いていきそうに踵を返しながらひとつ言葉を投げかける。

 帰るよ、と。

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