7. 浮宵の隅、彩心

 曇った夜の赤鼠あかねずを照らし出すように、仄温かい光が灯っている。提灯と電飾と、どちらも優しい。さまざまな屋台の暖簾がいっそう鮮やかで、道は彩りに満たされていた。


「ちいさなお店やさんが沢山あるわ!」


 感動を表すように切菜ちゃんが広げた両手を、勇が危ないからって下ろさせる。「頼むから、はぐれないでよ」「大丈夫よ」このお祭りは一日限りのひっそりとした規模のものだけど、大勢で賑わっていて人と人とのあいだが密だった。昔は外に出ることも人が近くにいることも苦手だったから、私もこういう催し物ははじめてで物珍しい。「それ、屋台って言うんだよ」呟くようにしてさりげなく教える夏羅の声を彼女はきちんと聞いている。「夏羅はお祭りをみたことがあるのね」「そうなの? ここへ来る前?」意外に思って聞くけれど、もっと前、といつもみたいに気のない返事。もっと前。というと、第一生のころかしら。聞いてみたらわずかな沈黙の後、「そう。」と短い肯定があった。それからふと、思いついたようにこちらに微笑む。


「君が僕と過ごしてた夏だよ。夜はいつも忙しそうにしてたでしょ? 暇だったから、外に遊びに出てたの」

「気づかなかった…。面白いものはあった?」

「全然。ナナと話してるのが一番楽しかった」


 とても久しぶりに彼が笑むのを見た気がする。きっと気のせいじゃない。再会してから今まで、夏羅は誰と話していてもつまらなそうにしていて、家にもあまり来てはくれなかった。前世宿主だった切菜ちゃんは慣れているのか懐こく声をかけるけれど、それなら夏羅は本来こういうひとがらだったんだろうか、とも考えて、だけど違和感が拭えなくて。だから、なんだかとても嬉しい。お祭りの明かりが夢を描くように景色を温めていて、私はその温度に浮かされていくような気持ちだった。「それならもっと話そう? なかなか会いに来てくれないでしょう」空いていた距離を埋めるように言葉を継いだのを、彼は一度考えに耽るようにすっと前を見つめて、それから、「そうだね」と。


「ナナがそう言うなら、そうしようかな。」


 勇が夏羅を呼ぶから、私たち二人、前にいる彼らを確かめる。目が合うのに何も言わない勇を不思議に思っているうちに、その隣の切菜ちゃんがお腹が空いたから何か食べたいと勇に強請ねだり、夏羅に向かってどの屋台が一番美味しいのか、と問いかけた。「どこも大して美味しそうじゃなくない?」「どこもぜんぶ美味しそうに見えるの! あれはなあに?」「……たこやき?」彼女に連れられて行ってしまうのを見送りながら、これからはずっとこんなふうに、みんなで過ごすことができるんだって、安心していた。

 不意に、視界の端にあかいろを見つけて振り返る。すぐそこの屋台の大きな水盆の中、鮮やかな鰭を靡かせて金魚が泳いでいた。狭い水間みなあいをひらひらと、まるで、籠に囚われた蝶のように。






 今のフォローされたんだなって気づいたら、咄嗟の感情に押し出されるようにして彼を呼ぶことしかできなかった自分がちっぽけに思えた。少し後ろに立つ果楽さんの口が引き結ばれているのをぬすみ見てしまったことも、なんか意地が悪い。うすくため息をつく。

 機嫌よく話し始める直前と、俺が呼び止めたとき、夏羅は間違いなく果楽を見ていた。さっきの言葉たちは果楽への当てつけだったと、切菜はわかったんだろうか。風鈴の話をした日にもその場にいたし、二人の関係があまり上手くいってないことは感じているのかもしれない。

 ――余計なお世話かな。俺が果楽さんの心配するのって。しようって、思うのは。さっきのだって本当に果楽のために止めたのか自分を疑っていた。知らないところで七花と夏羅が出会って一緒に過ごしていたこと、七花が嬉しそうに夏羅に歩調を合わせたこと、夏羅が七花を……奪ってしまいそうな言葉を。俺自身が見過ごせなかっただけじゃないのかといえば、きっとそうだった。

 見失いそうになりながら切菜たちを追って歩くあいだ、俺は周囲の喧騒もどこか遠くにやっていた。どのくらい歩いたのかわからないけど、ようやく切菜が一つの屋台にとまっているのを見つけて歩調を緩める。「ユウ、私、チョコバナナが食べたい!」「だってさ」だってさ、じゃないだろもう。夏羅の気紛れな様子に腹を立てながらポケットから財布を引っ張り出す。そこで彼が表情を変えた。「あれ、」


「ナナは?」


 はっとして振り返ったとき、俺の後ろに付いていた果楽も同じタイミングで背後を探していた。姿が見えない。てっきり果楽の隣にいるものだと思っていたのに。


「…まさかナナのほうがはぐれちゃうなんてね」

「…想像は、ついたんだけど……」

「すみません、僕も目を離していて……」

「俺も……」


 それふつう子供相手に言わない?という夏羅の言葉も最もなんだけど。

 探しに行きましょう、と提案する切菜だってどこかへ行っちゃいそうだから、皆でまとまって行くか、集合場所を決めて二人ずつに分かれるか、どっちかにしたい。果楽と夏羅。夏羅と切菜。切菜と果楽。(……どの組み合わせになっても心配だな……)正直三人ともあんまり目を離したくないし。


「……皆でまとまって行こう」


 一人で勝手に出した結論を口に出すと、果楽が「これ以上はぐれたら大変ですしね」と頷いて、「はぐれるわけないでしょ」と夏羅が言い、切菜が「大丈夫よ!」と自信満々に先頭を歩き始めた。本当に大丈夫だろうか、と不安に思いながら、俺はまた切菜の棚引く黒髪を追いかける。






 大丈夫だと思ったのだけど、と眉根を下げる切菜に、なんて返したらいいのか迷った。気がつくとユウと夏羅がいなくなってしまって、僕らは道の真ん中で途方に暮れていた。

 一番はじめ、「最悪、家に戻ればいいからね」とユウが念を押していたのを思い出したけれど、一度からだに還ってしまえばあの家にひとがたを取れる僕らはともかく、ナナは歩いて帰らなければいけない。せめてユウとナナが合流できたのを確認しなければ、初めて来た場所だと言っていたし、道順をしっかり覚えているかどうかも心配だった。


「おまつりって、難しいのね」

「そう……ですね」僕はこの催し物自体がはぐれる原因なのか疑問に思いながら答えた。

「ユウと夏羅は一緒かしら?」

「多分、そうだと思うんですけど」


 過ぎ行く人波の間を一つ一つ探しながら、もし先に夏羅を見つけたらなんて声をかけたらいいのだろう、と考える。名前を呼んで気づいたとして、応じてくれるだろうか。(……どうして、あんな、)そのまま意識は絡め取られてゆく。(なぜ?)目が合った瞬間、夏羅は何か思いついたように笑った。それから、今まで見せたことのない表情でナナと話し出した。僕のいない、彼と彼女の夏の話を。


 それはきっと、悪意だった。


(どうしてそんな風に嗤う。なぜ、僕にはそうやって話してくれない。貴方だってこんなことを繰り返していたら、心穏やかではないだろうに)胸の内で死を招く太陽があった。黒々と燃えるその太陽を抑えつけるように、そっと手をあてる。ヒトの心臓はここにひとつにまとまっているのだというけれど、ヒトの姿を借りている僕の心臓が、どろどろと廻らせているものはなんだろう。

「果楽、」切菜に呼ばれて顔を上げる。少し前で見上げるようにしてこちらを覗く瞳は、いつもよりうんと静かだけれど、この思考を現実に引き戻すには充分。


「あのね、夏羅の話をしてもいい?」

「、なんでしょう…?」


 彼女は珍しく、躊躇うように地面を見つめていた。そのまま促すようにゆっくりと歩き出すので、僕もそれに続く。行くあてはない。

 夏羅はね、と呟くような声音は、喧騒の中でも妙にはっきりとした輪郭を描いて耳に届いた。続く言葉も、本当に囁くようだったけれど。


「ナナのことが好きだったのだと思うわ。」


 それは秋風に似ていた。鮮明に届いて浸透して……、

 すき、という感情の意味合いが重なることの、不幸を、僕はここで初めて知る。






 ことばにしてから、私の胸がとてもきずつくのを感じた。やっぱり、言ってはいけなかったのかしら。足下の白詰草に問いかけるけれど、一歩進む先にいつもある彼らは避けても潰れて消えていく。すぐ横で果楽が息を詰めた気配がした。私はまた少し悩んでから「内証よ、」と続ける。


「だけど、果楽がナナを愛していることを…いいえ、ナナが果楽を愛していることをあの子が知っているように、果楽もこのことを知っているほうがいいような気がしたの」


 それで誰かが報われると、信じていたから話したはずなのに、こころは不吉にどきどきとする。夏羅のひみつを勝手に明かしたから? 果楽には知らなくていいことだったから? それとも―――それとも。

 報われるのは誰かしら。夏羅がどうして冷たいのかを知ったら、果楽は少し悲しいのがなくなると思うわ。果楽が知っていてくれたら、夏羅もちょっとだけ苦しいのがなくなるんじゃないかしら。


「いいえ、もしかしたら………」


 もしかしたら、私のため?


「……いいえ、なんでもない。」


 顔を上げると色とりどりの人々が、ひとつの家族コロニーのように上手に道をみつけていた。その行列はずっと続いているようで、私はどこへも行けないような気持ちがしてくる。たどった先にあなたがいないかもしれない不安は歩みを阻むから、合わせて立ち止まった果楽を見上げて微笑んだ。「…戻ってみましょう。こっちにいるような気がするの」戸惑ったひとみを置き去りにして踵を返す。ほんとうはどこへでも行けたはずだった。なのに、ねえ、いつからかあなたがいないとさみしいわ。(内証よ、ずっと、内証……)楠の景色。白詰草の呼気。知らないでいられたら幸福なままのことだってたくさんあるに違いないのに、明かしてしまったのはどうして。


「あっ、切菜!」


 いつか知ってほしいだなんて、ねえ、願わないでいたいはずなの。

 いちど挟んだ瞬きにすべての想いを流して、この次は綺麗に笑おう。


「ユウ!」






 人波を厭うみたいに屋台の裏の石垣、夜の帳に色づいて、彼女はとまっていた。声をかけると頭をもたげる、そのしぐさ。朝日に目覚める花に似ているなんてこと、あの日の僕は知らなかった。頰に祭りのあかりを写して夢見がちに微笑む。ああ、嫌いだな。嫌い。


「夏羅」

「みんな探してるんだけど」

「そうなの?」


 はぐれないでって話聞いてなかったのかな。まあ、僕も思いつくように歩いて来たからおんなじだ。ナナの隣に腰掛けて足を休める。

 屋台のある道は明るくて賑やかなのに、すこし外れただけでこんなに静かになっちゃって。もっと話そうなんて言った君がひとつも口をきかないのは、僕が果楽じゃないから。何度たしかめた事実なんだろう。ずるいって思っても、でも、しょうがないのは……ずっと前から知ってる。


「さっきの、嘘だよ」


 ならせめて僕と一緒に傷ついてほしい。そう考えるのは意地悪なんだろうか。ナナが振り向いた気配がするのがこんなにうれしいなんて、そんなもの、なかったらって言えないのはみっともないのかな。無様だなとは思うけど。さっき?とか細い声が首を傾げるから、「君と話すのが楽しいってやつ」なんて、うそ。

 沈黙が音楽みたいに僕らを包んでいるのがちょっと心地いいような気がした。変なの。ナナは返事を躊躇ってるに違いないのに。


「……じゃあどうして、会いに来てくれたの?」

 冷静な眼差しが、していた。好意のことばを疑いもしないのはいっそ横暴。「…わかんないよ、そんなの」


 目が覚めたら真っ白な世界にいて、そこに切菜と優雅がいて、しばらく転生を迷っていたことは覚えているけれど、そもそもどうしてそんなこと迷っていたのか分からない。やめとけばよかったってもう散々思った。思うだろうなとも、考えていたはずなのに。

 ナナが視線を落としてやがて、どうして私を見つけられたの、と繰り返すような問い。果楽が見つけただけだと答えれば、「違う」って。「今日、どうして夏羅は私を見つけてくれたの?」「ああ、今日…」景色を辿る。切菜たちの輪から外れるように歩いて。ユウが追いかけてくるからわざと人混みに紛れて。それから、それから―――。


「………金魚」

「金魚?」

「いたでしょ。すぐそこの屋台に。……こんな蒸し暑いとこにあんな沢山さ、詰め込まれて…可哀想だなって思って立ち止まったんだけど」

「うん」

「……好きそうだなって、思って。ナナ」


 身を屈める。ほんとに、馬鹿みたいじゃない、僕。


「ひらひらして、尻尾とかちょっと透き通ってて、……行き場がなくて可哀想で。ねぇ、誰かさんみたいだね」


 きっと心をどこかに連れ去られたみたいな瞳で見詰めるんだって想像していた。そのときのナナがいちばん綺麗で、……綺麗で。こっちを見てほしい僕らには残酷なのに、だけどでも、愛しくてしょうがない。

 果楽を選んだナナの瞳が愛しくて仕方ない。ねぇ、そんなことずっと気づかないでいたかった。

 ナナが俯く。砂の地面の先になにかを思い描くみたいに遠い瞳。「私も見てた」

 ふいに声が聞こえて、それは僕らの時間を切り裂くようだった。切菜がこっちに走ってきて、その肩越しに安心したみたいな情けない溜息をつくユウと、可哀想な目で遠慮がちにこっちを見ている果楽。ナナの眼差しは彼らに注がれて、でもどこか遠いままだった。

 ああ、綺麗だな。

 彼らがここに辿り着く前に続いた「私たちみんなそうなのかもしれない」の言葉の意味を満足に捉えられないまま、僕のこころは落ちていく。深く深く、君の下へ。

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