5. 風音に沁む


「なにこれ」


 ふいに挟まった会話の終わりに載せて、ぽつり、声がとぶ。

 ダイニングのほうで話していた俺と切菜がいっしょにそちらを見ると、先の問いに答えるようにりん、と風に揺れて鳴るもの。ソファに一人で寛いでいた夏羅が多分窓のほうを眺めていた。ほとんど寝そべるようにしてるから、背もたれが邪魔で本人の姿は見えない。


「ふうりん、というの。それは私とナナとで選んだのよ」


 椅子から身を乗り出して、買ったばかりのガラス細工をどこか誇らしげに教える切菜。そう、ついこの間、出かけた時の買い物で、そういうときいつも夏羅はいなかったから知らないんだ。「風鈴はいいけどさ、」こんどはコロン、というかんじの硬質な音。「ありすぎ」

 ちりんちりん、と小さく鳴る音は少しの風でもよく揺れる。ころころ鳴るほうは、結構強い風がないと揺れないやつだった。りんと澄んだ音のやつは、静寂に合わせて鳴るような不思議なタイミングを選んで揺れる。その三つがさっきから、無音を与えない頻度で競うように、風の在り処を歌っている。「ほんとうはもう二つ欲しかったけど」と夏羅の煩わしそうな言葉を気にかける様子もなく切菜がいう。さすがに五つもいらないって。買うときと同じ台詞を繰り返す俺に続いて、大して変わんないし、とまた不満気に。


「涼しい気持ちになるでしょう?」

「そういうのなんていうか知ってる?」

「なあに?」

「きやすめ」


 切菜が踊るような軽やかな足取りで夏羅のいるソファのほうへ歩み寄っていく。いつも思うんだけど髪おろしてるのに全然暑そうにしてないのはなんでだろう。果楽もあんまり室温に険しい顔をしない。二人とも汗はかいてた気はするんだけど。

 それに比べて夏羅はほんとに夏の暑さにぐったりしてることが多い。水分がたりない? 塩分? 熱中症とかなるんだろうか、この人たち。

 そんなところに隣を陣取られてけだるげに身を起こす彼に少し同情する。人口密度があがるとそのぶん周囲の温度も上がってっちゃうんだよ、なんて説明したってわからないだろうし……いや、どうだろ、ミツバチはスズメバチを殺すとき寄り添いあって熱をつくるとか、それを知らなくても同じ社会性昆虫のアリが巣穴でひしめきあって暮らしていることを考えるとむしろすんなり納得してくれそうな気がする。そのまま、部屋が暑くても大して気にならない理由にもなっちゃうけど。

 麦茶でもいれてやろうかな。考えてるとふわりとやさしい香りの風がして、ころん、と一つ風鈴がないた。俺と切菜がその人を呼んだのはほぼ同時で、応えてはにかむような微笑みをうかべる彼は「こんにちは」とだけ言う。コップ四つ。自動的に頭数に加えて戸棚へ向かう。


「今日は重たいのがよく鳴るの」

「そうなんですね。南風だから…でしょうか」

「どうして南からくると、風がつよいの?」

「あちら側、たてものが多くて風の通り道が狭いんです。だから…」


 注ぐ液体の色のある透明の速さを眺めながらなんとなく二人の会話を聞いている。そっか、渡り蝶だったから果楽さんは風に詳しいんだ…。麦茶の水面にひかる太陽のかけらを数えるように、ちらちらと一番軽い風鈴が揺れる。それが、

 止まって、


「なに普通のかおしてるの」


 刺すような声。どきっとして顔を上げると、夏羅の視線がまっすぐ果楽に向いていた。好意的な雰囲気はまったくなくて、軽蔑するような、あるいは信頼を損なったときのような。緊張した空気のあいだ、切菜が事態を把握しきれていない様子で夏羅の顔と、果楽の顔をみあげていて。あ、まずいなって思った。注ぎ掛けた飲み物を机に置く。


「夏羅サン」彼を刺したそのままの瞳がこちらを見据えた。頭の中で繰り返される、この間聞こえてきた言葉。「ちょっといい」廊下に来い、という意味でドアを開けながら視線を寄越すと、面倒くさそうに、けれど体を起こす。歩いてくる夏羅の肩越しに同じような表情でそれを見送る二人が見えて、俺はなんとなく目線を逸らしたみたいになった。どうしてなのか、わからないけど。扉が閉まる直前、りんと風鈴の音がした。

 階段をあがりながら何を言うべきか考える。ついこの間あの二階の部屋で夏羅が果楽に言い放ったことを聞いてしまって、それからずっと考えていた。なんで果楽をきらっているのか、なんで七花を殺そうなんて言ったのか、どうして———転生したの、か。


「文句ある?」


 階段を登り切ろうとするその時、後ろから声が飛んできてはっとする。振り返ると低い位置からこちらを見上げる目。不機嫌なのは変わりないけど、その色が微かに澄んでいるのをみつけてしまって戸惑う。


「……夏羅サンさ、ちょっとあたりが強くない?」

「君こそ、随分やさしいじゃない」彼はすこし微笑んでみせた。「本当はあいつのこと嫌いなくせに」

「別に…………」


 別に、きらいじゃない。

 と言い切れるだろうか。現にこうやって言葉が曖昧に濁ってしまうのはなんだっていうんだ。「妬ましいんでしょ?」強引に思考が記憶を遡り始める。そんな感情持ってないような気持ちでいながら、何故忘れてたんだろうとはっとして。帰りを迎えてくれた蝉の笑み、夜の部屋で淋しく鳴く鈴虫のかげ、彼女の部屋にた、あの、青い髪の少年を、俺は。


「だって君もナナのこと、好きなんだもの」


 咄嗟に伸ばした手がどこに行くのか自分でも全然わからなかった。気がついたら相手の胸倉を掴んで壁に押し付けていて、なんてことしてるんだろうってどこか冷めた自分もいるのに、その力は全然抜けない。夏羅は落ち着いていた。腹が立つくらい。

「それ、言うなよ」言葉が震えるのは怒りによるものだろう。「言うなよ、絶対」それでも死ぬほど情けなく思う。ちょっとは大人になれたんだと自分を信頼していたからかもしれないし、この気持ちをまだ抱いていたいという本心が正しくないと知っているからかもしれない。その自己嫌悪はたぶんこのひとにもあるものだった。そうでなければこんなに一言一句、自嘲するような響きになるだろうか。こちらを見下ろす瞳が、こんなにかなしそうに光るだろうか。

 離してよ、と煩わしそうに目を閉じた彼に、応じる手がまた震えてる。俯く俺に「ばかだね。」と掛けた声はいやに優しかった。てのひらを握る。


「馬鹿野郎」


 ひとりごちるのを聞くか聞かないかのうちのこと、ずっと遠くでころころと風鈴の音がしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る