中ーコーヒーの熱が逃げていく
僕の指先は、ズボンのポケットに入っていた携帯電話へと
男に気付かれないように、110へとプッシュする。
みすぼらしい男はただ力なく笑うと、動揺する僕へ話しはじめた。
「まぁ、どうせお
男の話に興味を持った風に、僕は
「
つまり哀れな僕は、殺人犯の自己満足な告白に付き合わされる、
「でも、それなら教会に行けばよかったのでは」
「そうかもしれねぇ。でも、最後にここへ来たかったんだ」
「どうして」
問いかけると、男は唐突に視線を躍らせた。
カップの乗る木製のテーブル、丸形にかたどられた窓、
内装の一つ一つを宝物でも眺めるように、男は潤んだ眼球で凝視していた。
「妹が、働いてたんだよ。
「ミヨさん、ですか」
「あぁ。『美』しい『世』界と書いて美世。俺とは十歳以上離れててよ、全てが俺と正反対だった。気立てがいい、誰にでも優しい、モデルや女優みたいな顔立ち。
俺とは全く血が繋がってないんじゃないかって、今でも考えるほどさ」
男は微笑む。漏れ出す息は
「昔から親がいなくてよ。俺は妹のために中学を出てすぐに働いたんだ。俺はどうでもいいから、美世に苦労はさせられねぇ。そして高校生になったら、俺の元を離れるよう言ったんだ」
「一人立ちですか」
「あぁ。美世みたいな絶世の美女が、俺と血を分けた兄妹だって知られたら、あいつに何が起こるか分かんねぇ。美世には俺のこと何か忘れて、俺の知らない遠い場所で幸せになってほしかった」
男のしわがれた声が、乱れ始める。
「ある日、俺の口座に見覚えのない数万円が振り込まれてたんだ」
「まさか」
「すぐ分かったさ、美世だって。あいつはこのカフェでバイトして、ただでさえひもじい一人暮らしの合間を縫って、給料の一部を俺に寄越していたんだ!」
〇
ウェイターはアイスコーヒーを差し出すと、そそくさとその場から去って行った。
男は出されたコーヒーを
〇
「なぁ、
「
「俺は今、兼業してるんだよ。昼は町工場で製鉄をして、夜は配達の仕事をしてるんだ。お世辞にもいい仕事だなんていえないだろ」
「いや……職に
僕は男の真意を測りかねていた。牢屋に収監される前に妹の職場に来店したいというのならば、本人に会いにいけばいいではないか。なぜ見ず知らずの青年に話しかけたのだ。
「それに比べて妹は、どうだ。こんな
ここら一帯は都心部に近いが、都会と形容できるほど発展してはいない。だが男にとっては、妹が華やかな場所で健気に働いていることが
然れども、女性店員とは。
僕は店内に目を向ける。今の時間、裏方での作業や清掃を行っている店員は、全員が男性だ。数日前にはウェイトレスの姿もあったが、今はいない。
「あの、妹さんとやらはどちらに」
僕がおずおずと質問すると、男は目尻のしわをきつく結びながら呟く。
「死んだ」
男の声色は、徐々に震えを帯びていく。
「三日前だったか、俺が配達の仕事を終えて帰路についていた夜中、美世が玄関先で寝ていた。久しぶりに美世が帰ってきたことは嬉しかったが、体を悪くしないように、そっと美世の体を持ち上げたんだ」
男はおもむろに両腕を上げ、人を抱えるような素振りをする。
「……軽かった。美世の体を持った途端、あいつの腹から、見たこともない量の血が、血が、止まらない血が……」
いつの間にか男の枯れた目からは、水晶にも似た
「どうして……どうしてあいつが死ななきゃいけなかったんだ! あいつは、優しくて、美人で、愛されるはずだったのに! 死ぬなら、俺であるべきだっだのに! なんで、なんでだよぉぉぉ…………」
悲鳴にも似た慟哭を、閑散としたカフェへ叩きつけるように、男はしばらく嘆いき続けていた。
〇
「……なぁ
「海老原ですって。節足動物である以外の共通点なくないですか」
「俺、どうすりゃよかったんだろうなぁ。踏み込んじゃいけない領域だとは分かっていても、俺にはやはり、ああするしか思いつかなかったんだ」
僕は考え込んでしまう。
見た目は
だからこそ気になった。妹の死を知った男は、なぜ殺人という凶行に走ったのか。
「警察の方が教えてくれたんだ。犯人は大学生ぐらいの男だって。それから色々丁寧に教えてくださるうちに、俺は合点がいったんだ」
「犯人像のですか」
「あぁそうだ。
今から半年前、美世からハガキが届いたんだ。俺はバカだからよ。
そういえば、男が来店してから今まで、一回も携帯電話を操作する場面を見ていない。
「ハガキには、美世に初めての彼氏ができたことが、具体的なエピソードと一緒に書かれていた。年上で、大学生なんだと。手塩に掛けて育てた妹に彼氏ができるのは複雑だったが、それ以上に俺は嬉しかったさ。あの美世が都会の子と同じように、恋愛を経験できたんだからな」
顔を
「しばらく経って、一週間前。美世からまたハガキが届いた。
会話内容は微笑ましいものだが、語り部の表情は険しい。
「俺は考えた。
「だが三日前、美世は冷たくなったまま帰ってきた。俺は許せなかった。誰が美世を殺したのだ。何故、美世でなければいけなかったのか」
男は両手を固く握りしめる。何者かに
「警察さんから話を聞いた俺は、そこで合点がいったんだ。美世を殺した犯人は、美世の言っていた大学生だとな」
「それで、あなたは……」
「そう。今朝、始発電車を使ってこの街に来た。警察さんからいただいた犯人の写真つき資料を携えて」
男はおもむろに上着の内ポケットをまさぐり、紙屑のようになったA4の資料を僕に見せてきた。
そこに映る男は、いたって一般的な青年の肖像だった。遊ばせた黒髪、
「何度も何度も、この憎ったらしい写真を目を合わせながら、俺は美世の働いていたカフェ近辺を歩いた。電車内、横断歩道、ロータリー、行き交うすべての男が犯人に見えた」
「確かに、郊外でもこの顔と合致する男性を探すのは苦労しそうですね」
「でもな」
男は笑う。もし殺し屋の笑顔というものがあれば、今の彼を指すのだろう。
「見つけたんだよ。二時間か三時間経った後だ。気が遠くなるほど探し回ったのち、そいつはふらりと現れた」
男は笑う。目はどこにも向いていない。
〈続く〉
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