短編連作集

由岐

それは唐突な雨のように

「君は、死にたがりだね」

 止まない雨の中、確かにそう言ったんだ。


 彼女との出会いはほんの数年前。まだ真新しい制服は着る、というより着られる、といった方が正しいような気がして。

 新しい友達、新しい教科書、新しい生活。そんな全ての物に対して期待に胸を躍らせる中、彼女はいたんだ。

 そう、どこか浮足立った非現実な世界から無情な日常に強制的に引き戻されるような感覚。彼女は頬を濡らしていた。その眼差しは強く意思を持って何かをじっととらえていた。

 たったそれだけ。その横顔を見ていただけの僕と彼女には、接点なんかまったくなくて。ただ僕が一方的に彼女を知っていただけ。それでも、彼女はいつの間にか僕のことを知っていた。

 いつか彼女に聞いたことがある。どうして僕のことを知っていたのか、と。

 そうしたら、彼女はその力ある目をまあるくして、いかにも楽しそうに笑うんだ。

「だって、あなたみたいな人、知らないほうがどうかしてる」

 どうかしてる。僕は彼女のそんな言葉にどうかしそうだった。


 夏が過ぎ、秋になるまで、彼女がどこのだれなのかすら知らないまま僕は恋焦がれていた。友人たちと他愛ない話を交わし、時には同じ教室の女の子の話をし、人気のあるアイドルの話をし。

 僕はどうやら見た目は悪くないらしい。それを知ったのも、その友人たちとの会話の中でだった。そこそこに可愛いと評判のクラスメイトが、僕のことを気にかけているらしい、という噂が立った。その噂を聞いた友人たちは、どこか大げさに悲しみ、それでも納得をしたようなそぶりを見せていた。曰く、美男美女でお似合いだ、と。

 噂を否定することはしなかった。むきになって否定をすれば、それが逆効果となることを知っていたから。けれど、否定をしなかったことでその噂はいつの間にか真実となっていた。もちろん、僕から何か行動したわけじゃないし、女の子も特別僕に対して何かしたわけではなかった。ただ、僕の知らないところで色々と手を回していたのかもしれないけれど。

 いつの間にか、僕とその女の子の仲は先生でさえ知ることとなった。本来なら顔をしかめるであろう学生同士の恋愛ごっこでさえ、僕と彼女の成績からか、見逃されるようになった。そして、女の子の勧めるままに選挙に出て、生徒会に加入していたんだ。

 まさか彼女とそんなところで出会うとは、思ってもいなかった。

 見間違えるはずもない。初めて見た時から半年、ずっと恋焦がれていたんだから。そう、女の子には悪いけれど、僕はずっと彼女のことを思っていた。

 だけど、僕はずるいから、そのことをずっと黙っていた。女の子が僕の恋人であると、僕以外の全員が思っていたことを知りながらも。

 そうして、僕は彼女と知り合った。彼女は僕を見て、あの有名な、とつぶやいていた。彼女の一言一句、全て聞き逃したりしない。一挙手一投足、全てをこの目に焼き付けたい。

 これは恋ではなく、もはや執着だった。

 そして、だからこそ彼女と同じ匂いを感じたんだ。


「ねえ、君は」

 生徒会室で仕事をしていて、いつの間にか二人きりになったとき。女の子はたまたま風邪をひいて休んでいたんだっけ。偶然にも、会計の仕事が立て込んでいて、会長である彼女と僕だけが生徒会室に取り残されたあの日。僕は彼女に迫ったんだ。

 健全な男子学生である僕には、その衝動は抑えきれるものではなかった。

「蟲毒、って知っている?」

 唇を重ねた後、彼女はそう僕に問いかけたんだ。そう、その言葉は全て覚えている。悔しいほどに。

 窓から見える空は雨雲が覆っていて、まるで僕たちの今後を占っているようだった。

「蟲毒?」

「そう、蟲毒。私と君じゃあ、共食いをするようなものよ」

 ああ、僕は馬鹿だった。この時の彼女の言葉をもっと深く考えていればよかったのに。


 それから彼女と僕が深い関係になるまで、そう時間はかからなかった。

 彼女は一切拒むこともなく、僕に全てを明け渡してくれた。そのたおやかな手も、唇も、色白の身体でさえも。それでも、彼女はたった一つ、どうしても渡してくれないものもあった。すべての行為が終わった後、彼女はたまにぼうっと天井を見ていることがある。始めは、その行為の余韻があるのかと思っていた。けれども、違ったんだ。

 それがわかったのは、あの女の子から呼び出された時。

「ねえ、浮気してるでしょ」

「浮気?」

 とんでもない。僕は彼女としか恋人らしい行為は一切していない。僕の心も体も全て、彼女のために存在しているんだと思っているから。

「嘘。なんで会長とキスしてるのよ」

 そう言って、女の子はスマホの画面を見せてきた。そこには確かに、僕と彼女のキスしている写真。そうして、女の子の勘違いに気付いた僕は笑ってしまったんだ。

「浮気って、僕は誰とも付き合っていないけれど」

「嘘よ! あなたは私の彼氏でしょう!」

 感情的に怒鳴る女の子とおなかを抱えて笑う僕。だけど、これは紛れもない事実だ。だって、女の子は僕に対して何も行動していない。

「だって、君は、僕のことが好きだったの?」

 そんなこと、噂で人づてに聞いただけだ。隣にずっといたのだって、ただ近くにいた親しい友人の一人だと言えば、それでおしまい。

 ああ、なんて薄っぺらい『恋人』関係だ。

「僕は彼女を愛しているよ。そうやって、行動も示す。君は僕に対して何をした?」

「そんな、だって、あなたは否定しなかったじゃない!」

 そう、面倒だから否定しなかった。だけど、沈黙が肯定だなんて誰も言っていない。現に、クラスの友人にだって僕は恋人はいないと言っているんだから。

悔しかったのだろう。女の子は、目を潤ませながらも最後に一つ、僕に投げつけた。

「だいたい、あの人には恋人がいるのよ」


女の子が投げた爆弾は確かに僕の頭を焦土としたように見えた。だけれど、そのおかげで全てがクリアに見えるようにもなったんだ。

だから、僕は彼女の元へ向かった。

「あら、来たんだ」

彼女は生徒会室でにっこりと僕を迎え入れる。まるで僕が来ることを見越していたように。きっと、女の子は僕より先に彼女に詰め寄ったんだろう。感情的な女の子らしい、みっともない行為だ。

そうして、彼女の秘密を知ったんだろう。

「センパイ、あなた、先生と付き合ってたんですね」

「そこまで気付いたんだね」

初めて行為をしたとき、彼女が処女ではないことを知った。

入学式の時、若い先生が左手の薬指に指輪をしていたのだと、噂で聞いた。

そして、彼女があの時じっと見つめていたのは、確かに先生たちがいる席だったことを思い出した。

そうだ。彼女は確かに、先生に恋焦がれていたんだ。だから、僕との行為の後もそれを思い出していたんだ。

男として馬鹿にされている、とは思わなかった。ただ、彼女を哀れだと思う。

そしてそれは僕も一緒だ。

「思い人の心がとらわれていても、焦がれ続けてしまうのは一緒ね」

彼女はそう言って、目を伏せた。

僕はそれでもいいと、彼女の唇に僕のそれを重ねた。

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