1-2 森の中で
「あー、死にそう……」
のどかな空間に、男の掠れ声が響く。
天気、晴天。湿度、50%前後。湿っぽいがまだ快適な方だ。
これだけの条件なら、この日は健やかな一日となっただろう。
子供は野を駆け回り、洗濯物が早く乾いて母親も機嫌がよくなり、気持ちのいい朝日を浴びた父親は絶好調の仕事振りが期待出来る。
まさしく、家族揃って皆笑顔の最高の日だ。
だがここに飢えという条件が加わればどうなるだろう。
子供は部屋の隅で身動きが取れず、母は洗濯物どころではなく、父は無断欠勤で解雇され、一家全員曇り空だ。
「まあ、つまり何が言いたいかというと」
絶食三日目を迎えるこの黒髪の青年クラウドの心の中は、THE・絶賛曇り空だということだ。
もう動く力すら残っておらず、仰向けに倒れる体制からぴくりともしない。弱り切った肉体には、木の隙間から漏れる微かな日光さえも水分を余計に奪う害でしかなかった。
雨でも降ってくれれば、喉の渇きを潤す程度のことが出来ただけまだマシだっただろう。
「あー、五日前に『山育ちなんだからこんな森へっちゃらだぜ☆』とかほざいていた自分を全力でぶん殴りてえ。そして川に沈めてえ……」
五日前、クラウドは『畑を荒らすエンギツネの駆除』の依頼を引き受け、巣を張っているとされるこの森を訪れた。
エンギツネは、魔獣の強さをランク分けした、第一階位から第四階位の中でもぶっち切りの第四階位。つまりは雑魚だ。
『そんな雑魚相手に大層な準備なんざ必要あるか! 速攻でケリつけてやらぁ!』と息巻いて、相棒に相談もせずに向かった結果がこれである。
駆除対象のエンギツネは問題なく始末出来たのだが、この樹海と言っても差し支えない深い森の中に完全に遭難してしまったのだ。
自前の携帯食料はビスケット一枚。それを二日で食べ切ってしまい、今の彼は食料と呼べるものを一切持ち合わせていない。今手元にある荷物と言えば、着ている服と最低限の道具一式のみ。結論を言おう。詰みだ。
しかし、ここは森だ。クラウドの知識と技術ならサバイバル生活を営めてもおかしくないのだが、彼は森に入ってからの五日間、それをしようとしなかった。
否、出来なかったと言う方が正しいだろうか。
試しにクラウドは周りに生えている植物を観察してみるのだが、
・ヘドロダケ(有毒)
・ゴモギ(有毒)
・ドクドクダミ(めっちゃ有毒)
「毒あるもんばっかじゃねえか!」
どういうことだオイ! と一人ツッコミが悲しく森の中を響いていく。
ここに限らず、クラウドが探索した限りこの森に生えている植物全てが有毒だった。ただ不味いだけなら我慢して食べればいいが、有毒となれば話は別だ。それも加熱だけでは消毒されないというのだからたちが悪い。
ちなみに、エンギツネは肝に大量の毒素を溜め込んでおり、うっかり肝を傷付けようものならあっという間に全身が劇物と化す。駆除の過程で肝をズタズタに引き裂いてしまったその肉を食う勇気はクラウドにはなかった。
「くっそー。完全にミスった。何で携帯食料持って来なかったんだ。せめてアレさえあれば森から脱出することくらいは出来たじゃんか、オレの馬鹿……!」
己がサバイバル技術を過信して、必要な準備を怠った過去の自分に殺意が沸く。
しかし、これはただクラウドが間抜けだったで済む簡単な話ではない。ここが普通の森であればクラウドもこんな目に遭うことはなかった。彼がここまで追い詰められているのは、ひとえにこの森の異常性にあった。
――この森、動くのだ。
そう、動く。そこいら中に生えている木々が、自分で地面から根っこを引き抜いて、自律して普通に歩き回っている。
この森にそびえる樹の全部が、それだ。
クラウドがそのことに勘付いたときにはもう手遅れだった。予め印をつけていた木の位置が変わっていることに気付いたときには、既に彼は森の中心部に誘われてしまっていた。
森の上空に魔法で何か目印となるものを飛ばして助けを求めようとしたのだが、この森から一番近い人里まで数kmも離れている。上空に目印を飛ばしたところで、見る者がいないのであればいかに目立とうと関係ない。
そもそもクラウドは魔法師としては平凡もいいとこだ。例え夜に上空に光る目印を打ち上げたところで、数秒も持たずに消えてしまう。光自体もそんなに強くないので、よっぽど森に近いところにいなければ誰も目視出来ない。
クラウドは知らないことだが、この森は『魔境』と呼ばれる、大陸に七つ点在する世界トップクラスで危険な領域の一つ。
今の『森』は他の魔境に比べて格段に難易度が下がるが、それでも人にとって過酷過ぎる環境。
そこにクラウドはロクな準備もせずに入っていったのだ。結果死に掛けている。
「……これかなり不味いな。このまま行くとこの糞ったれな樹の養分にされちまう」
因みに、クラウドは三日目に、『コレ食えるんじゃね?』と樹の枝を一本切り落としてみた。
結果、タコ殴りにされた。
誇張はしていない。怒り狂った数体の怪物大樹に囲まれ、滅多打ちにされたのだ。
別にその数本を全て伐採して切り刻むことも出来たが、そのせいで森全体が敵に回ったら笑えないと、クラウドは歯を食い縛って耐えていた。
結果、調子に乗った大樹共にボコボコにされまくった。勿論全身バッキバキだ。
「今に見てろクソ大樹共。全部伐採して我が家の薪にしてくれる……!」
そう意気込むが、まずはここを無事に出ることから――いや、まずはこの鳴き止まない腹の音を鎮める必要がある。
だが望みは薄い。何せこれまで一匹の虫にすら出会ってないのだ。探そうと思って見つかるなら、最初からこんな苦労していな――
「キュウ」
「……いた」
そう、いた。
寝返りを打ったその先に、この場所に来ることになった元凶のエンギツネが。
「……キュウ」
見たところまだ幼体だ。成獣のエンギツネは全長二mはあるが、この個体は精々三十cm程度。
ここでクラウドの口内に、今までどこに隠されていたのか大量の唾液が充満する。
本能が告げている。喰え、と。
『いや喰えって、それ魔獣なんすけど……』とかほざいていた理性は本能の手によって速攻で地平線の彼方まで飛ばされた。毒がなければそれは食べものです。
つまり、今のクラウドにブレーキをかける存在は何処にもいないというわけだ。
「……じゅるり」
「キュウウッ!?」
流石は魔獣。野生の勘で己の死を感じ取ったのだろう。
すぐさま回れ右をして、小さき獣は己を脅かす脅威からの逃走を図った。
「逃すか!」
しかし、このチャンスを逃す程クラウドも間抜けではない。
この機を逃せば文字通り未来はない。
その強迫観念に突き動かされ、脱兎の如く逃げ出す獲物を捕えんとこちらも全力で走り出した。
人は追い詰められて初めて真価を発揮する。
それを証明するかのように、青年はいつもの全力を大きく上回ったポテンシャルを発揮して、逃げ惑う幼獣を追い回していった。
「キュウ! キュウウッ!!」
「ハハハッ! 悲鳴を上げても無駄なんだよ! 潔くオレの腹に収まりなぁ!」
だが腐っても魔獣と言うべきか、周囲の環境を利用して、圧倒的な能力の差を補っている。
時に翻弄し、時に身を隠し、そうやって中々青年の間合いに入らせない。
「……何だ?」
そうやって鬼ごっこを繰り返していく内に、青年は奇妙な場所に出ていた。
太陽の恵みを独り占めする怪物大樹。それらが異様な程捻り曲がり、ドームのようなものを形成している。
その密集度は凄まじく、ドームの中は文字通り日光が一切通らない闇に覆われていた。
「キュウ!」
「あ、おい!」
僅かな間立ち止まった隙を突かれ、エンギツネがその暗闇の奥深くへと走り去っていく。
クラウドも急いでドームの中に入るが、その真っ暗な闇の中で一瞬で獲物の姿を見失ってしまった。
これは参った。こんなに広くては、手探りで探すにも限界が――
「あら、こんなところお客様ですか?」
「ッ!? 誰だ!」
不意に掛けられた声に、クラウドが警戒の構えを取る。
全く敵意を感じない声だったが、逆にそれが怪しい。
この場所が『魔境』だと青年はまだ気付いていないが、それでも人が生きていくにはあまりに過酷過ぎる環境だということだけは分かっていた。
だが声の主はこう言った。「お客様」と。
言葉の綾かも知れないが、警戒するに越したことはない。
「何者だ。姿を見せろ」
「え、姿を見せろも何も、目の前に普通に立っているのですが……。ああ、確かにこんなに暗くては、人間では見えにくいですよね」
パチンッと、指を鳴らす音が聞こえた。
「な……!?」
たったそれだけで、ドーム状だった怪物大樹が一斉に開け、陽の光が視界一杯に広がった。
だが彼が驚いたのはそのことにではない。
光が辺りを満たしたことによって、自分の目の前に絶世の美少女が立っていることに気付いたからだ。
「ご機嫌よう。こんな森の奥深くに彷徨いし人間の子。私はユキ。しがないただの吸血鬼です」
艶やかな銀髪に、宝石のような紅い瞳。そしてそれらをより引き立てる、美しい顔立ち。
その美貌を前に、クラウドは一瞬呼吸を忘れて魅入っていた。
「少年、あなたの名前は?」
「……クラウド。クラウド・ウラノアス……」
この日、一人の悲しき人間と、一人の吸血鬼が出会った。
そしてこの日から、二人の運命は、酷く惨く、捻じ曲がっていく――。
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