第1話 天界のテン

見渡す限りに続く一面の靄が、真っ白な高楼から聴こえるハープの音色に流されていく。


足下に漂うそれをテンは両手で一掬いし、ふっと息を吹き掛けた。


たちまち靄は薄紅色の花弁に変わり、扇ぎあげるとテンの回りをひらひらと舞った。


あたりを優しい香りが仄かに包む。


テンがごろんと寝そべるとその場に広がっていた靄も花弁に変わって舞い上がり、テンはその花吹雪をうっとりと眺めた。


(サクラって、こんな感じかなぁ?)


鼻先に降りてきたひとひらをもう一度吹き上げると、分裂してまた数枚の花弁になり、やがて靄に戻って消えた。


「可愛い遊びしてるわね」


突然の声にテンはパッと起き上がり振り向くと、レイが切れ長の整った目をやんわりと下げて微笑んでいる。


テンは少しはにかんで立ち上がり、レイのもとへ駆け寄った。


テンの仔犬のような懐っこさが可愛いとレイはいつも思っていた。


「なんかドキドキして落ち着かなくて」


へへっとテンが笑う。


「テンは人間になるの初めてだもんね」


テンの頭についた花弁を取り、少し乱れたふわふわの髪を撫でた。


「はい。道案内で数回行った程度で、御告げ係も憑依もしたことがなくて…」


その時、管理棟のドアが開いて、サカが中の人たちに「行ってまいります」とお辞儀をして出てきた。


コウも同じように、それから「コウさん!お気をつけて」「頑張ってくださいね!」という女の子たちの惜別の声と共に出てきた。



手続きが終わりました~。と一息つきながらサカは分厚いメガネを外し、靄を眼鏡拭きに変えてキュッキュッと念入りに磨く。


「本当はサカが今回転生する番だったのに」


とレイが肘で小突くと、サカはよろけながら「だってぼく怖いんですもん」と駄々っ子の表情を作った。


「コミさんは二度と人間になんか転生しないって言って、昆虫部に異動したんでしょ」


テンが引き受けてくれて良かった~。と今度はキラキラと拝むような目を見せた。


「ちょっと不安ですけど、人間として生活してみるの憧れだったので、楽しみです!」


朗らかなテンにつられて、サカも「楽しみだネー」と小さな子どもを相手にしているような同意を示したが、すぐに眉をひそめた顔をレイに向けた。


「けど日本任せるんでしょ?厳しくて陰湿で責任追求の激しいシャーロンフロイデの…」


しっ!と唇に指を当て、レイはテンが不安がるからそれ以上言うなと目で睨み訴えた。


「還ってきたらテンまで部署異動するとか言い出すかもなぁ」


サカはため息をついた。


テンの転生が決まる前、転生しなきゃならないなら減給でもいいので異動させてください、とサカは願い出た。しかし彼らの所属する人間調査課は人手不足に悩まされているので、転生は免除でいいしなんなら昇格もさせるからどうか課に残ってくださいと、人間総括部の部長から逆に懇願されたのだ。


「いっそしんどい地域は捨てて、いいとこばっかり行かせてあげたら、こんなに課の人数も減らずにすんだのに。ブータンとかカナダとか北欧とか」


「確かに初手が日本はきついかもしれないけど、諚には逆らえないからねぇ」


テンは、渋い顔をしたレイとサカのやり取りを少し離れてぼんやり見ている。


黙り込んでいるテンを見て、不安がっていると思ったコウが、


「まあ、…俺もついてるし。わかんないことがあれば教えるから」


と、長いまつげを伏せがちにして、持っている書類でテンの頭をポンと叩いた。


コウも同時に転生し、テンの実習の教育係として、15年は傍で生きることになっている。


叩かれたところをそっと手で触りながら、テンはコウを見上げた。


「はい!頼りにしてますね!」


麗らかな笑顔を真っ直ぐ見せるテンに「ああ」とすげない返事をして、コウはそっぽを向いた。


赤くなった顔と緩む口元を隠すためだったのだが、向いた先ではサカとレイがニヤニヤとコウを見ている。


コウが靄を蹴り上げると、ボールがサカの顔に、それから跳ねてレイの頭にぽよんと当たった。


「最初の10年20年ぐらいは長く感じるだろうけど、まあ慣れてきたらわりとあっという間だから、頑張ろうね!」


とレイが長い髪を整えながら励まし、


「僕らもサポートしますからね」


とサカが眼鏡を直しながら言った。


キーン、コーン


ベルが鳴ると同時に背丈の二倍ほどの銀色の柵が開き、足元の靄がふわりと吸い込まれていった。


「行こう」


コウが少しわかりにくい笑顔でテンに言った。


「はいっ!」


力一杯返事をして、テンはコウの後ろをついて歩き、その後ろをレイとサカが続いた。


光が差して、軋りながら柵が閉じた。

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