過去は、血に染まりゆく(過去編)

68話 六千年の時を経て、少女は何を想うか。(過去編)

◇◆◇ 


 小雨が上がった松林から緑葉の香りが鼻孔をくすぐり、その濃厚な緑の匂いに季節が深まっていることを実感する。少女は武家屋敷から道場に続く長い廊下を走っていた。


「もう雨が上がったようです。夏も近づいていますね」


 少女は湯気を立てている御櫃おひつを抱えて楽しそうに笑う。そろそろお昼時の鐘がなる頃だ。みんな稽古してお腹を鳴らしているはず。「ふふ。みんな絶対に驚くに違いありません」廊下の床板がユリの気持ちに合わせて軽快な音を立てるなか、遠くから正午を知らせる鐘が響き始めていた。



「駄目だ。それでは一撃を入れる前に敵に斬られてしまうぞ。……よし、その気迫だ。そのまま俺に撃ち込んで来い!」

「はい! お願いします」


 道場で稽古を付けている青年の力強い声が聞こえてきている。すらりとした長身に鍛えられた筋肉がつき、鋭い目つきが剣士であることを物語っていた。年のころは18才前後の青年が木刀を握り、年少の門下生を相手に稽古をつけている。年少の女の子が大きな声を張り、一所懸命に木刀を振るっていた。が、勢いが空回りして滑って転んでしまった。


「大丈夫か? ……よし、良い子だ。どうだ? もう少し頑張れそうか?」


 青年が女の子の頭を撫でながら問うている。それに少女は大きく返事をして木刀を構え直した。再び剣術の稽古が始まっていくのだ。

 その姿を、壮年の男性が一段上の座敷から腕組みをしながら眺めている。その男性の視線は穏やかであったが、鋭い眼光が道場全体を見据えている。と、その近くに同じく木刀を持つ女性が何かに気付いたように男性に声を掛けた。


「カジハ様。昼どきのようです」

「昼時か。ではナズナよ、昼飯の準備をしようぞ」


 そう言って、カジハと呼ばれた男は立ち上がり声を張る。


「ノベザ! 昼時ぞ。皆の者も午前の練習はここまでだ。昼飯にする」


 緊張感が支配していた道場はその掛け声に一気に弛緩していく。道場には年若い少年少女が門下生として100人はいるだろうか。

 時代は戦争のさなか。長く続く大国同士の戦争が多くの孤児を生んでいたのだった。カジハ家はその孤児たちを可能な限り庇護し、時代を生き抜く力として剣を教えていた。



 道場の入口に御櫃おひつの蓋を鳴らした少女が飛び込んでくる。


父様ととさま、お昼をお持ち致しました!」


 御櫃を両手で持った少女がカジハの元に走ってきている。その姿を見るなりカジハは口元を緩ませた。「おー、ユリではないか。怪我の具合はもう良いのか?」ぱたぱたと父のもとに駆けるユリの手から突然に御櫃が消える。


「ユリ、あまり無理はするな。お前はいつも無理ばかりをする」

「ノベザですか。私の料理を涎を垂らして独り占めにしたくなる気持ちは分かります。ですが、貴方の手にある御櫃。それは私の初めての料理、皆で存分に食べるべきです」

「ユリ様。お体の具合はもうよろしいのでしょうか?」


 ユリとノベザの間に割って入ってきたのはナズナ。ナズナはユリを優しく抱きしめてその髪を撫でる。ユリの髪は5彩色であり、道場にいる者達とは明らかに違っていた。それはユリが『天憑あまつき』であることを悠然と物語っている。


「大丈夫です。ナズナには心配をかけてしまいました」

「ユリ様は私たちの宝です。どうかご無理をなさらずに、ゆっくりとご自愛して頂きとうございます。それに天憑き―――麒麟の聖霊を宿す身であっても拙速な剣技の修得は怪我の元となってしまいます……」


 ナズナはもう一度ユリを優しく抱きしめた。一般的に聖霊を身に宿すためには3才以上の年齢と特別な儀式が必要になりる。しかし、ユリは生まれながらにして身体に聖霊を宿す者―――天憑き。100年に一人の頻度で天憑きは世に現れる存在。このカジハ達が属するツェルグ王国においても人びとから敬愛され、尊ばれる存在だった。

 ナズナはユリの瞳を見つめる。15才のナズナにとって11才のユリは幼い存在で、天憑きでなかったとしても守らなくてはならないと強く思う。

 ナズナの視界を湯気が横切っていく。彼女はその湯気の出所を目線で探っていくとノベザがユリに微笑んでいた。


「ユリ、ずいぶん頑張ったんだな。皆の為に昼飯を作ってくれたのか。ありがとな、良い子、良い子」


 そう言ってノベザはユリの頭を撫でるのだ。


「ふふ、ありがとうございます。私が作った御握りです、どうぞご賞味ください!」


 ユリは御櫃の蓋を開けて、その中身を取るように促していた。横で見守っていたカジハはその中身を見ながら、頭に手を当てて唸った。「ユリよ、料理のいろはを学ぶべきだったのかもしれぬな」とユリの頭をがしがし撫でた。


 カジハが見つめる御握りは、その原形すらなくどろっとした液状のものが御櫃の中を波打っていた。その液体はとっても熱々だ。手で掴もうとするには無理があるというもの。その中身を覗いて道場の門下生も目が点となって、言葉を失っていた。


「皆さん驚かれたようですね。ですが、ちゃんと順番を守って食べて下さいね」


 腕まくりした片腕を上げてユリは気合入れのポーズを見せている。どこかでふぅと大きなため息が漏れていた。そして再び静まる道場。だが、その静寂を破ったのはナズナの声だった。


「みなさん、ユリ様の手料理です。私たちの為を想ってくれての御握り、どんな味がするか楽しみですね。さあ、みんなで食べましょう!」


 ユリがゼリー状の波打つ液体をじっと見つめる。熱々の液体を両手で掬おうとしたとき、隣からノベザが杓子で切り分け始めた。


「良い匂いがするな。俺が先に味を見てもいいか?」


 返事を待つことなくノベザが切り分けた御握りゼリーを、一欠けら口にする。


「ん。美味しいよ、ユリ」そう言って、ユリに笑いかけた。「当然です!」腕組みをして胸を張るユリがそこにはいた。


「では、私も一口頂きますね」


 ナズナも御握りゼリーを食べて、頷く。「ええ。ユリ様の味がいたしますね」そう言って、ユリを自分の胸に優しく抱き寄せた。それを見ていた門下生たちも我先≪われさき》にと御握りゼリーを食べて、それからユリの頭を撫でたり、笑いかけたりしている。


「ユリは人気者じゃな。がはははっ!」


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