ナナシ 神様の規約本 その7

 駐車場まで戻ってくる。身体状態の変化に気付く。息が切れている。俺は、走って来たのか。サンタが俺の隣りで呆然としている。ハチが、いない。あわてて振り返ると、ハチがよろよろとこちらに向かって来ていた。近づいて、倒れそうになっているハチを受け止める。

「おい、大丈夫か。」

 ハチは息も絶え絶えのようだが、怪我などをしているわけではない。ただ、信じられないものを見たように、目を見開いて体を震わせている。

「何があったんだ?」

「…覚えて、…ない。」

 覚えてないなら、何にそんなに怯えているのか、と考えて、気が付いた。ハチにとって、思い出せない、という事はかなり深刻な問題なのだろう。…そうだ、異常だ。やけに自分が冷静な事、直前の出来事を思い出せないのに、少しずつ違和感が無くなりつつあるのが、一番の異常である。

「サンタ、ついさっき俺達はカルマ能力を受けた。」

「信じるよ。」

「復唱してくれ。」

「ハチとナナシは、ついさっき何らかのカルマ能力を受けた。」

 これで違和感は無くならない。

「お前は何か覚えていないか?」

「商店街に入ってからの事を覚えていない。」

 俺はどこから思い出せない?俺達は買い出しに来て、買い食いして、買い物をして、そうだ、買った商品が無い。渡した一番小さい袋がハチの手元にあるが、俺とサンタの分が無い。盗られた?確かめなくては。

「ハチは、どこまで覚えている?」

「う…、あ…。」

「頼む、しっかりしてくれ。」

 ハチが目を閉じる。集中している。口元から小さく、呪文、が漏れている。

「…状況把握。物資を調達後、帰投途中、ナナシが、到達路を、変更、以降の、記憶が、ない、です。」

「そうだった。俺が近道だと言い出したんだ。場所は分かるか?」

 ハチが説明する。たどたどしくて、分かり辛かったが、覚えている限りの自分の記憶とも照らし合わせて、その位置を把握する。

「何が起こったのか、確かめてくる。」

「自分も一緒に行こう、と思う。」

「いや、サンタはハチと一緒にもう帰った方がいい。これが能力なら、ハチと相性が最悪だ。連れて行かない方がいいけど、ハチを一人にもできないだろ。先に戻ってくれ。俺はタクシーでも拾って帰るから。」

「分かった。」

 サンタはすんなりと聞き入れる。信じてくれているのか、命令を無理やり聞かせているのか、いずれにしても、俺も信頼には応えなければいけないのだろう。

 二人と別れて、一人で商店街まで戻ってくる。入った、のであろう、路地の入口に着く。ここに何者かがまだいるとしても、タネが分かっているなら、俺にとって恐れるに足りない。『人の記憶を消してはならない』と『本』を頭の中に思い浮かべながら踏み入っていく。人の気配が全くしない道をしばらく進んでいくと、買い物袋と中身の商品が地面に散らばっているのを発見した。俺達が買ったものに違いない。そして、少し奥におびただしい量の血痕も散らばっていた。目で追っていくと、

「え?」

 道の傍らに、壁に叩きつけられたのであろう、死体が横たわっていた。死体と断定したのは、首のあたりからの外傷が酷かったから、悲鳴を上げないで済んだのは、曲がりなりに警戒はしていたからだろうか。体は硬直して、動かない。いっそ忘れていた方がよかった、無残な光景である。これを見て、俺達は走って逃げた?あまりのショックに、全員が見なかった事にしたとか。いや、その凶行の現場を目撃してしまったと考える方が自然か。能力者である殺人犯が俺たちの記憶を消した、という方がしっくりとくるか。いや、というか、俺はこれをどうすればいいんだ。救急車、を呼んだ方がいいのか。いや、どう考えても、手遅れだろ、これは。突然、ヒュウっと喉が鳴ったのが聞こえた。

「え?」

 呼吸をしている。生きている?それなら、やっぱり救急車か。いや、呼吸をしているのはおかしくないか、だって、首が、

「あー、もう。やっと動けるヨ。もう少しで、ゲームオーバーだったナ。」

 色々な部位が、特に首が、外れそうになりながら、死体、だと思っていたもの、が立ち上がった。悲鳴を上げないで済んだのは、驚きのあまり声が出なかったからだ。

「おやぁ?」

 向こうもこちらに気付いたらしい。どうする?何をできなくする?そもそも、こいつ、人間か?

「やっぱり。さっき助けてくれた人だよネ。いやぁ、危ない所だったヨ。助けてくれて、ありがとう。」

「助かってるように見えないんだが。」

「ごめんネ。全部、治すにはもう少しかかりそう。」

 妙な抑揚をつけて喋るサラリーマン風の小男のゾンビ、は馴れ馴れしく俺に話しかけてきた。

「あの後、どうなったのかナ?」

「おそらくそれを確かめるために戻って来たんだが。」

「あれぇ、もしかして、なんにも覚えてない?」

「覚えてたら絶対に戻ってこなかったと思うぞ。」

「そりゃ、言えてるナ。」

 そう言って、にかっと笑った顔は、自然で人間臭かった。首元の傷が目に見えて修復していく事に目を瞑れば、だが。

「君、一人だけど、あの熱血漢のお兄さんはどうしたのかナ?」

「熱血漢?」

「金髪の。」

 サンタの事だろうか。余計な事を喋らないサンタを、熱血漢というには、印象のズレがある。

「あの人、ただ者じゃないよネ。あいつとまともにやり合ってる人を初めて見たヨ。って、そっか、覚えてないんだよネ。ちゃんと説明した方がいいかナ?」

「そうだな、まずお前が何者なのかは、不本意だけど、すごく知りたい。」

「私はナオエ企業の、って、あ、これ言っちゃまずいナ。…偶然通りかかった一般人ですヨ。」

「無理があるだろ。」

「君の方こそ、どうしてここに戻ってこれたのかナ?かなり記憶力のいい人か、何かの能力者でもなければ、気付くのさえ難しいのに。」

「両方だ。」

「それじゃあ、ひょっとして、君もカルマ付きなのかナ?」

 どうしたものか。こいつもあからさまに正体を隠している訳だし、正直に答える必要はないか。少し苦しいが、適当に嘘を言ってみる。

「俺には写真記憶能力があるんだ。今まで物を忘れた事なんてなかったけど、記憶に欠落ができていて、興味深いから覚えている所まで戻ってきたんだ。カルマ付きっていうのは、知らないな。」

「なるほどネ。」

 あっさり納得している。

「そんな君が覚えていないって事は、やっぱりあいつには逃げられたんだろうネ。君もよく無事だったヨ。他の人は怪我とかしてなかったのかナ?」

「とにかく覚えてないんだから、はっきりとは言えないけど、無事だったみたいだ。」

「ふむふむ。」

 ここで相手が何か考え込む。「たしか…」と呟くと、自身の衣服を探って、上着のポケットから財布を取り出す。それを俺に差し出した。…とりあえず、金を握らせて、丸め込もうとするのが流行っているのだろうか。

「私を見て恐ろしいと思ったのなら、無理かもしれないけど、今日の出来事は全部見なかった事にした方がいいと思うヨ。けれど、一層、君の好奇心が強くなって、私の話を聞きたいと思ったのなら、このお金で着替えを買ってきてくれないかナ?」

「着替え?」

「もう少し、落ち着ける場所で話そうヨ。」

「俺が財布を持って、逃げたらどうするんだ?」

「それも悪くない選択だヨ、きっと。」

 ここは普通、関わり合いになりたくないと思う所だろうか。相手のこの行為は、俺に関わらないように忠告しているようだった。それなら俺は信条として、その逆を行うべきだし、何よりすでに心情として、こいつの言った通り、好奇心が疼いてしまっている。

「待ってろ。すぐに買ってくるからな。」

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