礎の樹

不可逆性FIG

礎の樹

「はて、どうして俺は支度してるんだったか」

「やめてよ父さん。今から東の森へ行くんでしょ」

「ああ、そうか思い出した」

 最近、父の物忘れが酷い。ついに今日は自分の職を忘れてしまっていた。我が国をぐるりと囲む深い森の管理を王から任された誉れある一族として、あんなに頑張っていたのに。民の誰よりも生と死に向き合い、ひたむきに葬儀屋として林業に従事していたのに。

 父から教わった通りなら、あと十日もすれば四肢は動かなくなり、この国を支え守る樹として生まれ変わるのだ。しかし、それは悲しい死ではない。礎として第二の生が始まる喜ばしい事なのである。


「なあ、この白いふわふわって皿に乗せるものなのか?」

「父さん、それはパン。食べ物よ」

 人間は森に生かされ、いずれ森へと還る。

 今日から父の代わりに、一人で仕事をする事になった。向かったのは送別の儀を執り行っていた家族のところ。晴れやかな顔で涙を浮かべる家族から託されたのは、樹木化が進み過ぎてもう動くことのできない母親の入った木製の美しい棺だった。

 花を撒いて見送られながら荷馬車を歩かせる。母親を惜しむ声々も遠のき、街道から森の果てへ。人の匂いのしない清閑で美しい緑だけが広がる地面に、あの家族から託された棺をそっと下ろす。ここから先は我が一族だけの真実である。特殊な工具を使い、棺を分解。柔らかな草の上へ仰向けに寝かせ、神聖な精霊樹の朝露を一振り。すると、一晩の後に人間の空気に触れる最も柔らかい部位――すなわち、眼窩の窪みから新たな幼樹が芽吹いてくるのだ。


「どうしたもんか……自分の名前が思い出せねえや」

「大丈夫、父さんは父さんだから」

 私達に宿る幼樹は人間でいる間、蓄えた記憶を糧として種子から発芽をする。賢者になるほど立派な樹となり、代々に渡って尊敬の眼差しを集めるのだ。国民は誰しも賢者を目指して、善行を積みながら勉学に励んでいる。

 いつの日にか、旅人に「不思議な宗教ですね」と関心された事がある。しかし、これは宗教ではない。何故なら、森の中に都市を築き、森に住まう獣を狩り、森を伐採した薪で料理をする。全ては森と共に生きて死ぬ為、特別ではない日々の営みのひとつに過ぎないのだから。


「ええと、あなたは誰だったか。すまねえ、顔は知ってるんだが……」

「いいのよ、私は父さんの娘。ちゃんと継いでいくわ」

 明くる日、父は動かなくなった。ちょうど十日経った日の朝だった。私と棺はいつものように森へ行く。見送る人は無く、道中にひっそりと咲いていた可憐な花を一輪だけ棺に供えた。

 森の果て、澄んだ青空からの良い風が吹く美しい緑の丘の上に棺を降ろす。小鳥のさえずりを聞きながら、教わった通りに弔うと、日を跨いでやがて父からも幼樹が芽吹いた。

 最期まで残った記憶が自分じゃなくて娘の名だなんて、本当に馬鹿な父だわ。そう笑いながら、私は一粒の涙を森に還したのだった。


〈了〉

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