15

 ぐずぐずと考え込み深みに嵌ろうとする莉央とは対照的に、葵は極端なほどに楽観的だった。


 莉央が自分の手を取り、満面の笑みを浮かべた。愛しさを感じるのは結局そんな些細なことの積み重ねに対してなのだ。昨日一方的にしてしまったキスについては恐らくなかったことにされている。高揚を引きずったままだったのでその反応には軽い落胆もあったが、ならばまた一から重ねていけばいい。


 もう莉央にキスをすることに抵抗も遠慮もなかった。拒絶がないのだから、少なくとも不快には思っていないはずだ。そんな希望的観測と、胸の奥から湧き上がり続ける気持ちが相まって抑えられなかったという方が正しい。


 だから今は晃流のことなど関係なかった。大切なのは自覚のなかったこの想いをいかにして莉央に伝えるか、それだけだ。好きだという言葉だけでは足りない、この体を満たす温かい何かをどう伝えたらいいのだろう。それを伝え尽くしたとき、それでもまだ莉央が晃流を選ぶというのであれば、すっぱりと思い切れる気がする。


 そんな独りよがりな考えを莉央に押し付けていることに、葵は全く気が付いていない。自分の気持ちだけに夢中だった。もちろん莉央の意思を全く無視しているつもりはない。昨日、自分のことを必死に求めて泣いていた姿をみているのだ。多少の自惚れはある。


 だがそれが今までの確執全てをなかったことにするほどのものだったかと言えば、そこはやはり葵の考えは楽観的だったと言わざるを得ない。莉央は葵の一言を噛みしめるにつれ、キスをされても無感動だった感情が揺れ動き出すのを感じた。


 キスは何度繰り返しても表面に触れるだけに留まった。手をつなぐのと変わらない。葵がミンナから受けたのは大人のキスだったので未経験ゆえにというわけではない。その感触は覚えているし、引き込まれるような気持ちのよさも知っている。ただ自分の中からあふれる思いが自然と形を成した結果がこれだっただけだ。


 何度か唇を合わせて、ようやく葵は体を離した。反応のない莉央を確認するために。だが莉央は顔が遠ざかると同時に下を向いた。


「莉央」


 この名をこんな穏やかな気持ちで呼ぶのはいつぶりだろう。その時もまだ葵はそんなことをのんきに考えていた。莉央は握られている手にもう一方の手を重ね柔らかく押しのける。気温の高さも相まって掌が湿っていたことに気付き、葵はさり気なく自分の服で汗をぬぐった。場を沈黙が支配する。


「葵くん、わたしね」


 先に口を開いたのは莉央だった。直前まで何をされていたのか理解していないのだろうかと訝しむほどに、ごく普通に話し出す。そして一度離した葵の手をまた取った。


「バロックの力、使えるようになったみたいなの」


 見て、と言われるままに視線を移せば、先ほどの訓練で皮が剥け血がにじんでいたはずの拳にその形跡がなくなっている。葵は息をのんだ。


 この世界が自分のいた場所と違うことは理解している。だが実際どれだけ違うのかといえば、実感として得られたものはない。莉央が黒い真珠の色を虹色だと言ったり、自分の理解できない言葉を話し出したりしたのは目にしている。だがどれも莉央の変化で葵自身の変化ではない。葵は生活環境こそ変わったものの、今までと何ら変わりのない日々を送っていた。鍛えれば鍛えただけ体の動きは良くなったし、普通に暮らしていたのではまず必要のない戦闘の際の体捌きを身につけることは出来たが、どれもやったことに対する当然の結果だ。体を鍛えたからと言って空を飛べるようになるわけではないし、並外れた怪力を得たわけでもない。だが莉央は今目の前で葵の傷を綺麗に消してみせた。


「インタージャーの力の話、聞いたでしょう? マベルの力で死地と化したのをインタージャーが再生させたって」


「ああ」


「私、まだこれくらいしか出来ないけど、きっとこれからもっと強い力を出せるようになると思うの。そうしたらもう別に元の世界に帰らなくてもいいんじゃないかな。だって、今までの何もなかった私と違って、ちゃんと求められたことに応えられるんだもの」


 前日とは全く正反対のことを言い始めた莉央を葵は見つめた。そして意図がわからないまま傷が消えた、すでに莉央から解放されている右手を眺める。


「葵くんはどうしたい? この世界にずっといる? それとも帰りたい? 私がバロックの力を使えるようになったことがエルヴィラ様に知られたら、多分もう私達こんなふうにすら会えなくなると思う」


「……他に誰が知ってるんだ」


「ヤンナさん」


「あの人なら、話せばきっと」


「無理だよ」


 莉央は下を見たまま微笑んだ。


「だって、ヤンナさんは私達をエルヴィラ様のところに連れてきた人なんだよ。晃流くんの事だって、肝心な事は誰もなにも教えてくれない。葵くんにだって面会申請出したって全然会わせてもらえなかったでしょ。それはきっとエルヴィラ様が必要だと言わないからだと思う」


 それを否定することは出来なかった。


「エルヴィラ様が求める力を使えるようになったって分かったら、私もう外に出してもらえないんじゃないかって気がする。わたし、前にエルヴィラ様に言われたの。私はただ側にいればいい、何をする必要もない。インタージャーだという証明さえ出来ればって」


「お前は帰りたいんじゃなかったのかよ」


「帰りたいよ。でも私、晃流くんのこと関係ないなんて思えないし。葵くんがそんな風に言うなら、葵くんと同じ選択はしたくない」


「そんな意味じゃない!」


「そんな意味だよ、葵くんがしてることは」


 言ったことはではなく、してることはという言葉に莉央の気持ちが込められているのを悟った。黙って受け入れていたのは前向きな理由ではなく、自分がされていることに対しどう反応すべきかが分からなかったからなのかもしれない。


「莉央、俺は」


「葵くん、わたしね」


 同時に口を開いて、同時に黙り込む。普段の莉央ならば葵の言葉を待つだろう。だが、今回ばかりはそれをしなかった。


「葵くんには小さい頃からいっぱい助けてもらってたと思う。頼もしかったし、嬉しかった。葵くんが突き飛ばした女の子、結衣ちゃんっていうんだけどね、結衣ちゃんも多分葵くんとおんなじタイプの子だったの。意思がはっきりしていて、主張できて、私と全く正反対。私のこと、いっぱい助けてくれた」


 葵くんからはそう見えなかったみたいだけど、と莉央は寂し気な笑顔で言った。社交的ではない莉央の友人、それを自分が奪ったと責められている。初めて自分が犯した失態を知った。だがその性格故に黙って聞くことができない。


「でもそんなの、誤解だってどうして言わなかったんだよ」


「離れていったのは葵くんからだったのにそんなこと言うの?」


 心当たりがあるだけにそれ以上は食い下がれない。


「結衣ちゃんにね、葵くんと結衣ちゃんどっちを選ぶのって言われて。私どっちも選べなかったの。それで結衣ちゃん呆れちゃったんだと思う。話しかけてくれなくなって、次の年にはクラスが分かれちゃったし、中学は私立に行っちゃったからそれきりになっちゃった。私ね、」


 莉央はそこで一度言葉を止めた。葵は今度こそ口をはさむことが出来ず黙って続きを待つ。


「葵くんが私を避けるようになって、すごく寂しくて、どうしたら元通りになってくれるか全然わからなくて。結衣ちゃんが一緒に考えてくれて。あの時ね、迷わず結衣ちゃんを選べば良かったって今でも思う。でも私、口先だけの嘘はつけなかった。そんな風になってもまだ葵くんと元通りになりたかったの」


 また強い風が吹いた。莉央は髪飾りが落ちないように片手で押さえ、葵に目を向ける。いつもおどおどしている莉央が真っすぐ見上げてくるので葵は気まずさに逸らしたい目を動かす事を我慢する。本当だったら逃げ出したい。先ほどまでのどこか浮かれていた自分をどうにかしたい。


「葵くん、部活の後輩とか友達に私の悪口みたいなこと言ってたんでしょ」


「そんな覚えは……」


「平川先輩のときなんか私に直接言ったじゃない。思わせぶりなことしたとかなんとか。私高校生になってからあんなこと頻繁にあって、いきなり馴れ馴れしく声かけられたりとか、本当はいつもすごく困ってたのに。葵くんなんか何にも分かってないのに私の事責めるみたいなこと言って」


 莉央に対して素直な気持ちを告げられる自分以外の男。自身は意味もなくいらつくばかりで莉央とまともに話すこともできなかった。今ならわかる。莉央に向かう鋭い感情、それは全て嫉妬だった。莉央に好意を持っていたことすら自覚がないからその刃の様にとがった先は向かう方向を決めあぐね、結局全てが莉央に刺さる。非など無いにも関わらず。


「晃流くんはね、私がつらい時に『つらかったね』って言ってくれたの。どうすれば良くなるか一緒に考えてくれたの。そして力を貸してくれたの。私にとって関係ない人なんかじゃないんだよ」


 しばし見つめあう。莉央の話は終わったのだ。葵が先ほど言いかけた言葉は二度と言えないものだと思われた。莉央のことが好きだなどと今更どんな顔をして言えるというのか。どうしようもなく、ただ黙って莉央を見つめた。


 と、ふいに莉央が顔を近づけた。先ほどまで自分がしていた行為を莉央からされる、そう思った。だが唇は触れ合わなかった。莉央の指が葵の唇を拭うように滑っただけだ。繋がっていた手は、いつの間にか莉央から放されていた。


「ヤンナさんに言われたの。体の一部を相手に預け、情熱的な瞳で見つめるというのは相手を惑わすって。異性の前で不用意に目を閉じれば相手は許されたと感じるでしょうって。葵くん、誤解させちゃったのならごめんね。でも私、こんなことをされるために目を閉じたわけじゃなかったの。昔の葵くんが戻ってきた気がして嬉しかっただけだったの」


 晃流を関係ないといったのは、あくまで莉央に対しての話だけで存在自体を軽んじたつもりはなかった。もちろん三人で元の世界に帰りたいに決まっている。自分たちの生きる場所はここではないと思っている。だが、何を言ってももう手遅れだということを葵はひしひしと感じていた。


 それでも何か言わなければと口を開く。莉央はそれを遮らない。言うべきことは言いつくしたのだろう。ただ静かに葵を見つめている。


 熱気が喉を炙っている気がした。粘膜が乾いて口が上手く動かない。頭の中を文字が躍るが一つも意味を成す言葉になりはせず、まるで話すという行為を体が忘れてしまったかのようだった。気だけが焦る。けれども何一つままならない。莉央がそんな性格ではないと分かっていながらも、その視線が葵を無言で責め立てているように思えてくる。


 いつも莉央が口をつぐむとき、それをもどかしく思い酷い言葉で突き放していた。ふがいない莉央に喝を入れているくらいの気持ちで、葵は自分が相手を追い詰めていたことになど一つも気が付いていなかった。


(そっか、莉央はいつもこんな気持ちで俺の言葉を聞いていたんだな)


 それが分かってもなお、葵は言葉を出せなかった。



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