どういった類の異変なのかはわからない。実際に異変に遭った人物が特定できないせいだ。だからこそ信憑性などないに等しいはずなのに、まことしとやかに囁かれている。それは王城内の兵舎に居を移したことで知った。


 莉央のことが気になったのは、初恋の少女と似ているからだった。容姿や性格がではない。そこまで莉央のことを知りはしない。ただ、恥じらう様が、見せる気遣いが、まだ互いに異性を知らなかった頃の面影とだぶっただけだ。


(俺はまあ、アオイほどウブでもなかったけどな)


 もうずっとまともに話せてもいないくせに、葵は莉央を意識しすぎなくらいに意識している。だが本人は全く気づいていない。気づいていないどころか否定までする始末だ。


(次にリオに会ったとき、こいつはどんな反応をするんだかな)


 ほぼ間違いなく恋愛下手であろう同僚の皿からビーンズを摘みとると、チャロは口の中に放り投げた。そして他愛ない話に興じ、料理に舌鼓を打つ。


 一時間も過ぎたころ、軽く飲んだ果実酒と数種類の皿を空け腹が満たされた葵は疲れの為か徐々に船をこぎ始めた。


「おい、寝るなよ。ガキじゃないんだから」


 チャロの呆れ声も遠く聞こえる。


「アオイ、大丈夫かしら。帰れそう?」


 ちょうど仕事上がりのミンナの声に我に返り葵は何とか席を立った。


「うん、大丈夫。ちょっと疲れただけ」


「本当か? 俺、男を背負って歩くの嫌なんだけど」


 夏の熱に加え同性の熱を感じるのは確かに嫌だろう。「俺も背負われたくない」と減らず口は叩いてみたものの、久しぶりのテニスで夢中になったつけが足にきたらしく、ふらりとよろけ、ミンナにぶつかった。


「店の裏でちょっと休んでいったら? 従業員用の休憩室があるから仮眠できるよ。時間はまだ早いし、一時間も寝たら楽になるでしょ」


「そっちの方がいいか。だったら俺が肉屋で品物受け取ってくるから一眠りさせてもらえ。適当に時間つぶしてまた迎えにくるから」


 チャロはそう言うと会計を済ませ店を出ていった。


「アオイ弱いのね」


 未成年だから今までろくに飲んだことがない。飲みなれていないので仕方がないと言えば仕方がないのだが、この地で男たちは水のように酒を飲む。全く飲まないと馬鹿にされるので普段から多少は飲むようにしていた。だが運動した後に飲むのは初めてだった。兵舎での飲酒は禁じられている。


「うん、そうみたいだな。ミンナさん、ごめん」


 何とか自力で歩こうとする葵の腕を取るが頭一つ分低いミンナにはよろける男を支え切れはしない。それでも少しでも体重を預けられれば歩くのは格段に楽になる。素直に甘えて寄りかかった葵にミンナは笑った。


「いいわよ。そんなアオイも新鮮でなかなか可愛いし」


「やめてよ」


 少し霞がかる意識の中目を移すと長い髪を横で一つに束ねているミンナの華奢なうなじが目に入る。そこに無意識に腕を回した。


 ーー痛い。葵くん、痛いよ。


「アオイ?」


「あ、ごめん」


 間違えた、と手を解こうとしたがミンナがそれを遮る。腕に添えられた手は水仕事で荒れてカサカサとざらついていて、莉央との違いを感じる。


「よっぽど疲れたのね」


 訂正することでもないかと葵は頷いた。


 店の厨房の脇の扉を抜けると細い路地に出た。外からは罵声が聞こえる。


「あら、酔っぱらいの喧嘩かしら。人が集まってるわ。ちょっと回るけど大通り側から行こうか。歩ける?」


「大丈夫、ごめん」


 外気に触れ、少し酔いがさめた気がしてミンナから体を離す。が、再び腕を取られ、簡単に距離は無になった。


「堅い! アオイは堅すぎるよ! せっかく色仕掛けで行こうと思ってんだからもっと寄ってきなさい」


「何言ってんだよ」


 再びのあからさまな誘いに照れて辟易したように視線を巡らせた葵は、目に入った大通りに見知った髪色を見つけた。


「り……」


 名を呼びかけて留まる。王子の元にいるはずの幼なじみがこんな城下の下町など歩いているはずがない。だが、連れ添う男にも見覚えがある。来賓室で莉央の隣にいた大法官府長補佐である。


「知り合いなの? あら、随分な年の差の連れね」


「知り合いじゃないよ。行こう」


 王子に仕えているはずの莉央が別の男と二人だけで歩いていることが他の人間に知れていいはずがない。速やかにミンナとその場を離れようと促すが、ミンナの方は興味津々で目を離さない。互いの距離は二メートルも離れていないが、大通りからは路地が見にくく、逆にこちらからは丸見えで、おかげで興味を引かれたらしいミンナは遠慮なく視線を送る。


「ミンナさん」


「あ、やだ。あの子……!」


「は?」


 腕を引かれた莉央が男の腕の中に飛び込んだように見えた。その拍子に肩に纏っていたストールが解けて落ち、胸元の大きく開いた衣装も目に入る。白い、と思った。莉央のデコルテは葵の知るどの女性よりも白く艶やかだった。隣のミンナと同じような服装であるのに、莉央の隆起した胸には目が吸い寄せられた。


 男が莉央の耳元に何か話しかけてもその腕から動こうとはしない。そのまま抱き上げられ、向かいの建物の中に入っていく。何が起こっていたのか、葵にはわからなかった。


 一部始終を一緒に見ていたミンナがぽつりとこぼした。


「貴族様のお忍びかしらね、城内じゃ火遊びもできないだろうし。それにしてもあんなところに入らなくったってねぇ」


「あんなところって?」


「あんなの庶民の使う場所よ。貴族のくせにセコいったら。ま、あたしはアオイとだったら入っても構わないけど?」


「じゃあ、行こう」


 結局あんなところというのがどんな場所なのかわからないままだったが、おそらく飲食店か何かだろうとあたりをつける。せっかく会えた機会を逃すことはできなかった。ネルとは話せず、ヤンナに何度も頼んだが通らなかった莉央との面会がここで叶うのならばそれに越したことはない。正規の手段を踏んでいたらいつまでたっても動き出せない。


 眠気はすっかり消えていた。ミンナが密着するように体を寄せてくるので「もう大丈夫だよ」と離れようとすると、意固地になったように、逆に力一杯捕まえられた。


「こうしてなきゃ入れないわ」


 少し怒ったような言い方だった。


「そっか。ごめん」


 わからないなりに謝って足を出す。気が急いて早足になった。それにつれミンナは小走りになっていたが葵は気づきもしない。


 あの二人がなぜここにいたのかはわからない。しかし莉央の様子が気になった。他人の腕に倒れ込むなど、よほど具合が悪かったのだろうか。先ほどは町中にいるはずのない莉央の姿を目にして驚きに動けなくなってしまったが、こうなれば早く確認をしなければと使命感にも似たものが沸き上がる。


 さほど大きくもない扉を開く。建物の中は入り口の扉と同じ幅の廊下が伸びていた。その両脇にずらりと扉が並んでいる。そしてそこから漏れ聞こえる声に耳を疑った。


「ミンナさん、ここって……!」


 ミンナは何も言わず葵の腕を引いて奥に進み、扉にかかるプレートをひっくり返して室内に入る。内装を見れば葵にもはっきりとわかった。ここがどんな目的で使われる部屋なのか。この建物がどういった意味を持つものなのか。


「さっきのあの子がどんな知り合いかは知らないけど、どう見たってあのおじさんに色目使ってたよね。自分から抱きついちゃったりして」


「あいつはそんな奴じゃ……!」


「アオイにわかるの? あの子おじさんに抱かれたままここに入ったのよ。どう考えたって誘ってたわ。可愛い子だったけど、アオイが尽くすような相手じゃない」


 部屋の八割は占めようかという大きなベッドに腰掛けたミンナは入り口に立ったまま動かない葵の腕を引いた。まだ驚きの中にいた葵はあっけなくミンナの上に倒れ込んだ。かろうじて重心をずらして体重をかけることだけは避けたがそこから動く気にはなれなくて、触れあう部分を意識しながら二人は並んで横になった。


「ねえ、アオイ。あたし、すぐわかっちゃった。チャロが言ってた好きな女ってあの子なんでしょう」


「……あいつはそんなんじゃ……」


「自分の顔、見てみたらいいわ」


 仰向けに天井を見上げるミンナの横顔を至近距離から見つめる。


「他の奴にも言われた」


「え?」


 こちらに目を向けたミンナと目が合った。


「自分の顔、見てみろって」


「そう」


「うん」


 シーツは程良くくたびれていたが触れる肌には心地よかった。


「俺、本当にあいつのこと好きなのかな」


「それあたしに聞くの?」


「だよな」


 自嘲する葵を眺めるミンナは小さくため息をついた。体を起こし、動かない葵の髪をなでる。その感触を逃さないように葵は目を閉じて仰向けに寝返りをした。


「子供の頃は何にも考えなかった。あいつ年下だし女だし、守ってやるのが当たり前だって思っててさ。でも考えてみたら他のやつに同じことしなきゃとか考えもしなかった。あいつの同級生突き飛ばしたことがあってさ、考えてみたらそれだって年下の女だったんだよな。だけど俺、躊躇しなかった」


「うん」


「もう一人の幼なじみに彼女ができたんだよ。そうしたらあいつ、あからさまに落ち込んじゃってさ。俺、それが腹立って。だけどどうしたらいいのかわからなかった。わからなくてイライラして莉央のこと無視して」


「馬鹿ね」


 葵が目を開くと、ミンナが困ったように笑っている。


「それって完全にヤキモチじゃない」


「そうかな」


「そうよ」


 ぼすんと音を立ててミンナが体を後ろに投げ出す。


「聞かせてよ、アオイのこと、それからそのリオって子のこと」


「聞いてくれんの」


「チャロが迎えに来るまでじゃ、アオイのこと襲うほどの時間もないからね」


「俺襲われるところだったんだ」


 はは、と笑う葵の頬に手を添えて、ミンナはそこに自分の唇を寄せた。驚きと戸惑いに目を見開いた葵は動けないままそれを受け入れていた。不快には感じなかった。


「それで?」


「……莉央を避けて、顔も見ないようにしてた。あいつの顔さえ見なきゃ、そんな感情なくなるんじゃないかって思ってた。でもあいつ有名人だから学校にいれば噂を聞くし、テレビに出てりゃ親が録画したのを見せてきて。頭から追い出すことなんかできなかった」


 美術室の窓枠に切り取られたその風景は画面に焼き付けられた絵画のようだった。キャンバスに向かう莉央は凛と佇む美しい花のように見えた。失うことで知る。自分がどのような感情で莉央を見ていたのかを。


「俺、何もかも独りよがりだったんだなって今になって思ったよ。だからこんな状況になっても距離を置かれて頼られもしない。自業自得だよな」


それきり押し黙った葵にミンナは何も言わなかった。ゆっくりと顔を寄せ、今度は葵の唇に自分のそれを押し当てる。


「ミンナさ……」


「アオイ、泣かないで」


「泣いてない」


 驚いて体を起こし目元を確かめる。自覚はなかったが濡れていた。


「うわ、俺かっこ悪……」


 言い終わる前にまた唇が触れた。勢いで二人ベッドに倒れ込む。抵抗しようとして、しかし葵の手は宙を切ったまままたベッドに落ちた。初めての口づけに味などなかった。ただ自分より少しだけ高い体温が口の中で動くのを感じる。胸に当たる膨らみ。当然だが橙基と取っ組み合って喧嘩したときとは違う柔らかさが触れる。


「やばい、気持ちいいんだな」


 素直な感想を口にした葵にミンナは吹き出す。どれだけ照れくさいものかと思ったが、実際にしてみればさほどでもないのが葵には意外に思えた。


「そんなにまじめな顔で言われると雰囲気出ないけど、まあアオイらしいわね。落ち込んでるとき、誰かにこうしてもらえるのっていいでしょ」


「うん」


 とんとんと優しく背中を叩かれる。そのゆったりとしたリズムで落ち着くのは子供のようで情けなくも思える。しかし自分を偽ってもしょうがないと葵は素直にそのリズムに身を委ねた。どんなに情けなくても相手が受け入れてくれている。それを直に感じることは今の葵にとっては心強い。


 莉央はあの男とどんな関係なのだろう。自分ではなく、また王子でもない教育係のあの男に自身を委ねるという選択をしたのだろうか。今この建物の中で二人はどんな時間を過ごしているのか。それを考えることは莉央への恋情をはっきりと自覚した今苦痛以外の何者にもならなかったが、再び寄せられた唇がそれを紛らわせてくれる。


「アオイ、あたしのことリオだと思ったらいい。おいでよ」


 腕を広げ迎え入れようとするミンナの大きく開いたデコルテに体が動いた。先ほどはさほどの感動もなく見ていたものが突然存在感を放ち出す。膨らみも、肌の色も違うのに、葵には莉央のそれと重なって見えた。

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