Magia IV

 春の足音は、近付いたと思ったらいつの間にか駆け足になったみたいだ。学園の敷地内では梅の花がもう散り始めている。

 また新しい春の息吹を感じて、私は朝早くに起きてしまった。寮の中はまだ誰も起きていないのか、自室の外の廊下からは何の音もしない。

 私の目を覚ましたを確かめに、寝巻きから着替えて編み上げブーツに足を突っ込み、立ち込める朝靄の中を園庭へ急いだ。


 ——やっぱり。


 ついこの間まで裸だった桜の枝に、点々と濃い桃色の珠が見えた。木をてっぺんまで見上げ、枝を端まで確かめる。蕾はまだまばらにしかない。


 ——大丈夫。もう少し、咲くのは先だわ。


 小走りになって上がった息を止め、ゆっくりと吐き出す。

 すると、背後から聴き慣れた声が私を呼んだ。


「桜子? どうしたの。こんな早くに」


 振り向いたら普段着にローブを羽織った葉太がそこに立っていた。急いで出てきたのか、ローブの下に見えるカーディガンのボタンがかけ違っている。


「ってか寒くないかカーディガンだけって。これほら」


 そして私が返事もしないうちにローブを脱いで私の肩に掛け、桜の木に近づいて頭上に伸びた枝を仰いだ。


「あ、思ったとおり、蕾ついてる」


 顔を綻ばせた葉太は、木に向かって小さく杖を一振りする。防護の魔法だ。虹色の粒子が木の周りを巡り、空へ立ち昇る。それを見ていた私の身体の中で、ふわりと綿わたに触れたみたいな感覚が起こった。


「そんな強いものじゃないけど、こうしておけば花もそうそう簡単には強風に持ってかれないだろ? 学園長も喜ぶだろうし」


 恥ずかしいのか、言い訳っぽく言うけれど、私は知ってる。いつもそうやって葉太は、バカロレアの時もマギスターの時も毎年毎年、枝が蕾を付けたら防護魔法をかけていたのを。

 きっと桜が美しいニホン生まれだから、懐かしくてそうしてるんだって思っていた。でも、気付いてしまった。葉太が優しいのは桜に対してだけじゃない。


「葉太って、話す時の仕草も、口調も、気持ちが柔らかい人間ひとにしかないものよね」

「なんだよ急に」

「だってローブこれ。ありがとう」


 御礼を言われて照れたみたいだ。葉太は顔を桜に向けたまま何も言わずに微笑んだ。

 だけど、ずっと見てれば分かる。私が学園に入ってからもそう。私は一年じゃなくて二年に、しかも学期の途中で編入したから、遠巻きに見る人たち学生がほとんどで、学園長の身内贔屓だと聞えよがしに言う人もいた。なのに葉太は違った。担当官アドヴァイザーになるよりも前から、私に話しかけてくれて。そうしたら他の学生も普通に接してくれるようになった。そうなるように、葉太が他のみんなともさりげなく引き合わせてくれたから。


 私の中の気持ちが昂らないように、なるべく葉太と深い話はしないように、注意したつもりだった。

 でも葉太の言葉は、たとえ短い会話でも嬉しかった。


 羽織った葉太のローブは私のより大きくて柔らかくて、あったかい。葉太みたいだ。

 気持ちが温かくて、優しくて、ずっと触れたくなる——どうしようもなく、欲が出る。


「ねえ」

「ん?」

「あの、あのね」


 聞いてどうするんだろう。傷付くかもしれないし、万が一に願った答えであっても、結局は無為に終わるだけなのに。

 頭の中で警鐘が鳴るのとは裏腹に、もう私の口はその問いを発していた。


「他のみんなは私を避けたのに、葉太は優しくしてくれたのは、故郷が同じだから……?」


 すると葉太の表情が一瞬固まった。次には俯きがちになって、「うん、えっと、その」と返事とも言えない歯切れの悪い言葉が続く。


「とりあえずまぁ座らないか」


 そう言って葉太は桜から少し離れた池端に並ぶ椅子を指し、私は池へ向かう葉太を追って、彼の隣に腰掛けた。


「んーと、悪い気持ちにさせたらごめんなんだけど」

「うん」


 水面に写る枝垂柳を見ながら、葉太は切り出した。心なしか頬が少し紅い気がする。


「桜子、似てたんだよ。僕がよくここで話してた女の子に」


 耳に入った言葉に、どくん、という衝撃を感じた。


「それは……恋……人……?」


 聞かなければいいのに。

 座った椅子の面がスカート越しでも冷たい。


「え、えーっと……その子と会ってたのはほんの短い間だけなんだけど。ちょうど去年の今頃かな? 僕が桜を見にくるといつもここにいてほんと他愛もない話しかしてないんだけど」


 私から目を背けたまま、葉太は途中から早口になって続ける。瞳にさっきはなかった光が灯る。


「それが楽しくて向こうも楽しそうで、だから僕も嬉しくなって毎日会いたくなって。でも、桜が終わる頃だったかな? ここには来なくなっちゃったんだよなぁ。きっと卒業しちゃったんだろうな」


 寒いのに、胸のところだけが燃えているみたいにどくどく音がしている。葉太の横顔から目を逸らしたいのに逸せない。


「その子のこと、葉太は、どう思ってたの……?」


 ——聞いちゃダメだ。


 なんで口なんてついているのか、耳もいらない。そう思うのに、勝手に唇が動く。

 お願い。答えないで。


「いや、うん。えと、気になってて。そうだな、惹かれてて、ってそうか。一応、恋してる相手って意味だと『恋人』になるのか。うん。正直、好きだったんだけど」


 その言葉が耳に入った途端、何かが喉元から込み上げて、瞳の周りが熱くなった。羽織った葉太のローブをきゅっと握りしめる。横を向いたままの葉太は、耳まで真っ赤になって急いで続けた。


「あ、ごめん、でも桜子につい話しかけたのはそうだけど、それは最初だけで! 桜子も一緒にいると楽しくていい奴で、桜子に僕はっ」


「私はっ……その子とは違うからっ!!」


 気付いたらそう叫んで、私はローブを椅子に投げ出して走り出していた。背中に投げられた葉太の声が聞こえないように耳を塞いだ。呼び止めるのを聞いたら立ち止まってしまうに決まってる。

 今このまま葉太の隣にいたら、葉太の優しさに抗えなくなる。どうにかしてしまう。


 ——これ以上、好きになるわけにはいかない——


 目元が熱くて、生温いものが頬を濡らした。こんなの初めてだ。顔に当たる風が気遣わしげに、火照った私の顔を冷やしてくれる。


 ——やっぱり、好きになっちゃいけないんだわ……!


 朝日は柔らかに私達を見下ろしている。その中を、私はひたすらに走った。

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