斉藤さんは物書き。

久米坂律

第1話 全ての始まり、早坂創の場合

 窓側の一番後ろの席。

 サボるにはうってつけのこの席で、俺——早坂創はやさかそうは目の前に座る女子生徒の背中を凝視していた。


 四月の十一日。時刻は八時五十二分。

 県立清北高等学校の二年一組教室では、水曜一限の数Bの授業が展開されており、大方の生徒は先ほど配られた平面ベクトルのプリントに向かっている。

 しかし、俺は頬杖をついたまま、目の前の女子生徒を見つめていた。


 彼女の名前は、斉藤さつき。

 清北高校二年一組、出席番号十五番の女子生徒だ。背の中程まで伸ばした黒髪を、水色のリボンでハーフアップにしている。

 それから、……と言って何か情報を並べられたら、小説のようで様になったかもしれない。が、俺が彼女について知っているのは、この程度でしかなかった。

 しょうがない。昨日までは一ミリも興味が無かったのだから。


 *


 事の発端は、昨日の放課後。

 夕暮れが侵食していく一組教室で、俺はいつものように中学からの旧友、船出隼人ふなではやとの部活が終わるのを待っていた。


 そしてその時、俺は飢えていた。

「……何でもいいから読みたい」

 活字に。

 いつからかは忘れたが、俺は一定時間活字を読まないと、体がなんとなく落ち着かなくなるのだ。そんな俺のことを隼人は「活字中毒」と呼ぶが、それに関してはまだ納得していないとだけ言っておく。


 しかし、手元に小説はない。

 この間図書室で小説を借りてはいたが、持ってくるのをついうっかり忘れていたのだ。そして、そんな時に限って図書室は臨時閉鎖中だったりするわけだ。


 どうせだったら小説の方がいいが、この際もう何でもいい。

 そう思って、俺はロッカーの方へ向かった。あの中には世界史の資料集が入っている。現文の教科書には及ばないが、教科書の中ではそこそこ面白い読み物だ。


 そして、ここからが重要だ。

 ロッカーに近いた俺は、

「お?」

 あるものを発見した。

 ロッカーの隙間に何かが落ちている。形状からして、恐らくノートだ。


 新学期そうそう忘れ物とは随分と可哀想なことだ。

 落とし主の不幸に免じて、俺はそのノートを拾い上げた。のだが。

「……名前が、ない……」

 少し使い込まれた風情がある以外はごく普通の水色の大学ノート。それには、名前がなかった。


 というか名前どころか、教科名すらも書かれていない。

 俺はほんの無意識に、そのノートを開いた。もしかしたら、落とし主の痕跡があるかもしれないと踏んで。


 *


 それで、まあ、その後、その、いろいろとあって。俺はこのノートの持ち主を断定しなければならなくなった。何も、落としちゃって可哀想だから、なんて甘っちょろい理由ではない。

 そんなわけで、俺ができる最大限の推理(主に筆跡と落ちていた場所)による結果、落とし主を斉藤さつきだと断定した。

 だから俺はこうしてじっと見ているわけだ。


 頬杖をつく手を変える。

 今日の朝、斉藤さつきは随分落ち着かない様子で、教室内を物色し回っていた。普段がどうなのかを知らないから何とも言えないが、落とし物をした人としてごく妥当な行動だ。やはり、彼女で間違いない。


 だが。ここで一つ問題がある。

 俺としては、彼女にノートを落としたかを白昼堂々訊くのは、多少憚られるものがある。理由は、まあ、その、あれだ。もう、この際面倒くさいので言ってしまうが、あのノートの中には小説が綴られていたのだ。そして、まあ、俺はその中身を……全部読んでしまった。


 弁明させて欲しいのだが、何も悪気があって中身全部を読んだわけではない。ただ、その時の俺は何でも良いから読みたかったのだ。それと、まあ、面白かったというのもないわけではない。初心者らしいぎこちなさや誤用はあるものの、自分の手で言葉を伝えようとしている感じがした。とにかく、悪気はなかったのだ。

 俺が持ち主を断定しなければならなかった理由もそれだ。謝りたかったのだ。中を見てごめんなさい、と。


 それはさておき。

 内容がどうであれ、自分が物を書いているということを明かされるのは、多少なりとも恥いるものがあると思う。斉藤さつきがどうかは知らないが、俺だったらそうだ。それに、あのノートには名前がなかった。バレたくないという思いの現れにも見える。だから、他の生徒がいる前で訊くのは、彼女としても本意ではないだろう。


 考えに考えた末、俺は机に出されていた数Bのノートの一部をちぎり落とした。それから、シャーペンを持つ。


「よーし、みんなプリント解き終わったかー。今から、当てるぞー。当てられたやつは黒板に書いていってくれ」


 文面はどうしようか。小説について触れていいものだろうか。いや、やめておいた方がいいかもしれない。でも、結局謝るのなら、書いておいた方がいいか? いやいや、もし誰かにこのメモを見られた時のことも考えておいた方がいいだろう。


「えーと、じゃあ問一は早坂。おーい、早坂」


 とすると、『ロッカーの隙間に水色のノートが落ちてたんだけど、斉藤さんのじゃない?』とかが妥当か。シャーペンを動かす。


「おーい、早坂。聞いてんのかー」


 よし、これで完璧だ。

 後ろからプリントを回収する時に、机に置くことができたらいいのだが。今日の授業で、何か回収物がある授業はあったろうか。


「おい、早坂!」


 日本史がある。日本史は最後にノートを集めるから、この時だな。


「早坂‼︎」

 と、急に数B教師の高野の声が聞こえた。

「え?」


 この後、俺は高野にこんこんと説教をされた。

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