崇敬なる
”頭痛が痛い”という言葉はよく聞くような重言だが、徹夜して遊び倒した物理的ダメージと、上司にずる休みの電話を入れる精神的ダメージが合わされば、それはもう頭痛が痛くても仕方がないのではないだろうか。
「ええ、母が死んで」
妙な徹夜テンションで内側から笑いがこみあげてきたが、ここで吹き出したら数日の休みどころか、永遠のおやすみを頂いてしまうので努めて真顔を保つ。
『まあいいけど、君、やる気はあるのかね? 今後に響くとは思わないのかね』
たかが身内が死んだくらいで。と上司は言外に言っているらしい。
今回ばかりは俺が100%悪いけれど、本気で言っているのかと疑いたくなるような対応だ。だって部下の母が死んでるんだ。実際は死んでないけれど……多分。
別にチャットをブロックしたわけではないのに、向こうから連絡が来ることはないしこっちからすることもない。
「……あぁ。それは……」
ガンガンと頭を殴る痛みに耐えながらなんとかお茶を濁していると、上司は耐えかねたように言う。
「ともかく。居場所がなくなっても知らないからね。君の代わりはいくらでもいるのだから」
そう言って怒鳴り気味に通話を切られた。
朝から高血圧な奴だ。代わりがいるなら誰か代わってくれよ。
ベッドの上でスヤスヤと安らぎを享受するペルさんの寝顔を見て、カーテンの隙間から差し込む光を腫れた瞼が遮り、俺は崩れ落ちるように床に突っ伏した。
**********
「あれぇぇ!?」
二日酔い並みの疲労しきった脳を甲高い悲鳴がつんざいたのは、もうお天道様もてっぺんを回り切った午後2時過ぎのことであった。
いつもの癖で右上にあるはずの目覚まし時計の位置を思いきり叩くと、それは砂か埃かでざらついた床だった。
「いでぇ。……なんなんだ一体」
こめかみを抑えながら起き上がると部屋には、興奮した獣のように洗濯物をひっくり返すペルさんが喚いていた。
「ないの! なんで!?」
「まあとにかく落ち着けって」
このマンションは夜ほどではないにしろ声が響く。真昼間から女性を──しかも彼女だと言い張るには若すぎる女の子を、連れ込んでいるという評判が張られるのはまずい。ここは大人の男として余裕を見せるべき。
寝ぼけまなこで顔を洗いに行こうとしたら「暢気なことをしているんじゃない」とシャツの裾を引っ張られる。
一体何を探してるっていうんだ。
「──ボクのiPadとスマホがどこにもない!」
**********
──ブロロロロ。
「ふぁーあ」
大きな欠伸をかまして車を走らせるのは昨日来た道と逆方向。
しかし後部座席ではなく助手席にペルさんを乗せて──彼女はずっとグローブボックスだとか窓ガラスを弄っていて鬱陶しいことこの上ない。
「あのさ、気が散るんだけど」
半覚醒から叩き起こされた(文字通り叩き起こされた)恨み節をぶつける。
「煙草、一本貰うよ」
ガサゴソとボックスを漁っていたペルさんがライターを取り出して言った。
お前にはまだ早い、という顔をすると彼女は不機嫌そうに顔をしかめる。
「大丈夫、ボクもう23だって」
「世間はそう思わねぇよ」
俺もまだ成人済みだということを半ば信じ切れていないのだから。
ペルさん身分証明書すら持ってないだろうし。
「……煙草っておいしいの?」
「なんだ吸ったことなかったのか」
「そんなに吸ってる人と会ったことないし」
やはり世界に禁煙勢力のプロバガンダが浸透しているらしい。
俺は右手でハンドルを握りながら、ひょいとペルさんのライターを取り上げる。
「じゃあ吸わないのが正解だ」
「なにをする」
「どーしても吸いたいなら止めないけどな。ニコチンって怖いぞ」
禁煙に15回成功している俺が言うんだから間違いない。
説得するとペルさんは諦めたのか背もたれに体を預けて訊く。
「じゃあどうして吸ったのさ」
「最初はドラマの役者に憧れて。……今となっては依存してるだけ」
パイプを吹かすニヒルな笑みを浮かべた二枚目が、浮世離れした──無常的な儚い視線を煙に向けて、自分も白煙を吐き出せばそれが見えると期待した。
「ふーん」
でもそんなものは見えなかった。
結局いつまで経っても俺は平凡以下の『いらない人』である。
「ま、あと5年は待つんだな」
「だからボクは23歳──」
「──絶対見えないって」
そう言うとペルさんは憤慨してそっぽを向いてしまった。
女性には『若く見える』と言うのがいいらしいと聞いたのだが。
「音楽かけていいか?」
「急に歌いださないならいいよ」
「う……ありがと」
切れ味の鋭い返しをされて赤面するが、平静を保って謝辞を述べる。
ベースの重低音と共に車はあの公園へ向かっていく。
リズムに合わせてハンドルを指で叩きながら、全ての物に目を輝かせるペルさんをチラリと伺う。……全く、”憧れ”など適当なものだ。
どうして人生をこうも楽しめるのか。昨日会ったばかりの少女が俺にとってはとても眩しく、羨ましい。
そういうふうに生きたいと、そう思ってしまったのだ。
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