7.黒い獣

 

  鳴海雪姫乃ナルミユキノを攫おう、と提案したのは河村隆弘カワムラタカヒロだった。


 夕食を終えてすぐ、一室に集まってイシジマとハラに相談したのである。

 理由付けはいろいろと行った。まずユキノがかなり優秀な能力の持ち主で、三人が全く覚えていない回復魔法を複数覚えていたこと。


 それにシュウの妹であるユキノを誘拐すれば、またシュウを虐めやすくなるだろうということを中心に語って聞かせた。頭の良くない二人の脳にもよく伝わるよう、かなり言葉を駆使して努力したつもりである。


 そして努力の甲斐あって、イシジマはシュウへの嫌がらせになるならと承認した。ハラは二人に対して意見できるほど度胸がないので、最初から問題視していない。


 その後は、食事から戻ってきたユキノを人目につかぬよう取り囲み、明日の早朝、階段手前の二階の部屋まで誰にも見られずに来いと言った。


「オレは特別なスキルを持っている。やろうと思えば今すぐにシュウを殺すことだってできるんだからな」


 最後に、そう耳元に低い声でねっとりと囁いてやると、ユキノは震えながら従順に頷いた。


 カワムラはユキノのことが好きだった。中学一年生のときからだ。


 冴えない男の双子の妹だというユキノは、テレビの中ですらお目にかかれないほどの美貌の持ち主だった。黒髪は驚くほど艶めいていて、長い睫毛に縁取られた青い瞳は神秘的な煌めきを放っている。肌のきめ細やかさも、整った鼻梁も、さくらんぼ色の唇も、いつもカワムラを誘惑して止まない。


 三十人足らずの生徒が揃う狭い教室で、その華奢で儚げな少女だけが光り輝くようだった。他の女とは何もかも違う。豚小屋の中に一粒の真珠が落ちている。

 恐ろしいくらい綺麗だった。そして怖ろしいほどに遠かった。その少女はいつもシュウについて回った。カワムラのことなどまるで眼中にないように振る舞った。


 。その洗練された美しさ故か、下らないいじめの標的となった少女を、カワムラは庇わなかった。その代わりにユキノの兄を虐めることにした。それでイシジマやハラともつるむようになった。


 本当は虐めなど、生温い遊びに興じていたかったわけじゃない。

 コイツを殺せば、この美しい生き物が自分の物になるのに。

 頭の中はいつもそれだけだった。



 +     +     +



 イシジマたちを見つけたのは、その日の昼頃だった。


 たとえここが見知らぬ異世界だろうと、不良が屯する場所というのはいくつかの法則がある。

 人に知られていないところ。人があまり寄りつかないところ。それに助けを呼びにくいところ。

 ハルバニア城から城下街【ハルバン】に下り、まずは積極的に聞き込みを行い、めぼしいところをピックアップして一つずつ回っていった。


 イシジマが根城にしていたのは、ハルバニア城から距離にして五〇〇メートルほど離れた裏手の森、その更に奥まった場所にポツンとある廃屋だった。一階建てで、屋根も少し傾いている小さな小屋だ。


 話を聞いた喫茶店の店主によると、以前は森を切り開いて兵士の訓練場にするという案があったものの、傾斜が急な関係で没案となり、それからこの一帯が放置されているのだという。

 密かに観察していたところ、ちょうど中からハラが出てきて小便していた。三人の話し声もしたので間違いない。


 だがすぐさま無策で乗り込むわけにもいかなかった。

 俺は一度その場を離れ、準備を終えてから小屋の前に戻ってきた。


 ……それで時刻は夕方頃。

 昼間もかなり薄暗かったが、夜を前にして既に手元が見えにくい状態だ。ひっきりなしに鳴いているのは異世界の虫だろうか。夏の夜によく聴いていた鈴虫の声にちょっとだけ似ている。


 小屋の入口は一つしかないので、まずそこを見張っていれば間違いはない。俺は木々の影に隠れつつ根気強くチャンスを待った。

 そしてそのときは唐突に訪れた。


「……ッ!?」


 背にした森の方角から、獣の咆哮のような声が響き渡った。

 何より驚くべきはその音量だ。ぐわんぐわんと、直接脳を揺さぶるような凄まじい声。

 反射的に叫びそうになる口を慌てて片手で覆う。ここでバレては元も子もない。


 息を殺して様子を窺っていると、小屋からはイシジマが出てきた。おっかなびっくりのハラも続く。

 二人は声のした方に首を回すと、そちらに向かって歩き出す。何か言い合いをしているようだ。身を隠す俺には気づかず、そのまま行ってしまった。


 二人の姿が闇に紛れたところで、俺は音を立てず身体を起こした。

 低い姿勢を保ったまま進み、廃屋の裏手に回る。建物の裏面に窓枠とは名ばかりの大きな穴が開いているのは確認済だ。


 茂みに隠しておいた木箱を持ってきて両足を慎重に乗せる。今さら鼓動が騒がしい。足が震えそうになる。少しでも物音を立てれば直ぐさま露見する距離だというのに。


 頭上の穴から、そっと中の様子を覗く。


 小屋の中は雑然としていたが、ユキノを見つけるのに一秒と時間は掛からなかった。

 窓枠のすぐ下、埃っぽい床に仰向けの格好で転がっている。そんなユキノに覆い被さるようにして――カワムラが荒い息を吐いている。


「――!」


 怒りのまま飛び出さなかったのは、自分でも奇跡に近い。


「ナルミ……いや、ユキノ。なあ、オレの機転も大したもんだろ? あいつら、ホイホイと騙されやがった。変な声がするから様子を見てきてくれ、なんて言ってさ……演技の才能があるかもしれない」


 ぼそぼそと小声で囁きながら、ユキノの髪を撫でている。

 むくんだ手で頬に触れ、唇のラインを辿る。そのカワムラの頭と肩の間から、彼女と目が合っていたから。


「…………」


 ユキノは蒼白な顔をしていた。

 これ以上ないほど見開かれた大きな瞳の中心には、俺の姿が映っている。

 瞬きも忘れたように俺のことだけを一心に見つめる双眸から、涙だけが音もなく零れ落ちていた。


「なあ、おい。どこ見てるんだよユキノぉ……」

「っ……!」


 熱に浮かされたように呟きながら、カワムラがユキノの髪ごと頭を引っ張る。ユキノは声にならない悲鳴を上げた。

 口に猿ぐつわを噛まされ、両手と両足を縛られて身動きが取れないようだ。何度も必死にもがいているが、カワムラはお構いなしにそんな少女に顔を近づける。


「ずっとこうしたかった。二年前に出会ったときから、お前に……」


 隙だらけだった。仕掛けるなら今しかない。

 窓枠の上部分を両腕で掴んで、両足を一息に窓の縁まで持ち上げる。


「――――壁に寄れユキノッ!」


 叫ぶと同時、窓枠を思いきり蹴った。


 一瞬、腕力だけで空中に下半身を浮かせ。

 せーの! と心の中で唱えながら全身の勢いをつけて室内に飛び込む。

 異変に気づき、カワムラが顔を上げたときには――その鼻先は、俺の靴裏にくっついていただろう。


「ふっ――」


 僅か二秒足らずの出来事。

 狙い澄ました全身フルに使っての突撃アタックは、見事顔面に直撃。


「――ぬ、あああッ?!」


 モロに食らったカワムラの悲鳴ごと、吸い込むように室内に着地する。

 ドガ! と痛そうな音を立ててカワムラは後ろに向かってゆっくりと倒れていった。

 俺のほうは一応、途中で床めがけて着地したので骨とかは折ってない。……はずだ。たぶん。にしては白目剥いてるけど。


「はーっ……、はーっ……」


 大きく息を吐く。目眩がしそうなほど呼吸が乱れている。

 人を蹴ったのは生まれて初めてだ。それにこんなに思いきって。


 もう一度恐る恐る見てみると、カワムラは目をひん剥いたまま昏倒している。この様子じゃすぐには起きないはずだ。

 俺は息を整えながら後ろを振り返った。ユキノは壁にぺたりと背中をつけた格好で倒れている。


「遅れてごめん」


 ユキノは首を左右に振った。

 俺はベルトに括りつけていたナイフを取り出すと、すぐに手足の縄を切ってやった。白い肌に残る鬱血の跡が痛々しい。

 が、ユキノは自由になった両手でぱぱっと素早く猿ぐつわを外すと、涙を拭っていの一番にこう叫んだ。


「兄さんすぐにここを離れましょうカワムラのスキルは危険ですそれはそれとして大好きです!」


 俺は妹の頭を一度だけ撫で、頷いた。ちゃんと笑顔で応じられたかは分からない。

 気丈に立ち上がったユキノだが、黒いタイツに包まれた足は小刻みに震えている。ずっと怖い思いをしていたのだろう。すぐにでも安全な場所に逃がさなければ。


「分かった。イシジマたちが森に入ったから、そっちは鉢合わせる可能性がある。かなり暗いけど脇道を通って街のほうに出よう」


 小屋のドアを内側から開けた。

 外の様子を窺う。少し心配だったがまだイシジマたちは戻っていないようだ。後ろのユキノに頷き、二人で外に飛び出した。


「兄さんっ……」


 その直後だった。

 小さく叫ぶユキノの両肩を抱いて後ろに下がらせる。

 黒く蠢く木々の隙間から――風に乗って異臭がする。明らかな異常を、俺の感覚も確実に感じ取っていた。


 今さら、カワムラの言葉を思い出す。そうだ、あいつはユキノと二人きりになるためにイシジマたちを誘い出したようなことを言っていた。つまり――


「っ何だ、……あれ」


 どしん、どしん、と大きく地面を震わせながら、それは俺たちの目の前に姿を現した。


「グルル、ルル……」


 森から現れたそれは、四足歩行の獣の姿をしていた。

 敢えて例えるなら、猫やライオンに近いだろうか。

 猫科の動物によく似た、耳と尻尾のようなものが生えていたからだ。しかし確証はない。


 何故かといえば、その獣は全身の皮膚が黒く染まっていた。

 そして全身のシルエットが、ぞわぞわと触手のような動きをして休むことなく逆立っているのだ。

 獣というよりも、得体の知れないが立体を形作ろうと、獣を真似ているかのような……感じたのは、そんなおぞましさだった。


「ははは、はぁ――……逃がさねえぞ」

「……ッ! カワムラ……」


 小屋のドアから、ふらふらと覚束ない足取りでカワムラが姿を現す。もう目を覚ましたのか……。

 カワムラは顎に垂れていた涎を拭き取ると、闇色の獣の傍に寄っていった。

 普通に考えれば自殺行為だ。だが、森から降りてきた獣は動かない。カワムラは大仰に両手を広げてみせた。


「俺が女神から授かった、特別な力――リミテッドスキルは、“魔物玩具ペット”。そこらの獣使いテイマーと違って、俺の《魔物捕獲テイム》は自分よりレベルが高い魔物でも服従できる可能性が高いんだってよ」


 その言葉に俺は少なからず驚いた。

 カワムラもリミテッドスキルを持っているのか。どうりで、ユキノがあのメモを残したわけだ。

 だがまだ疑問の余地がある。そしてカワムラは何を訊いても鼻高々と答えてくれそうだ。俺は意識して声を震わせた。


「そんな危険な魔物を、どこから連れてきたんだ」

「簡単だろ。ちょっくらダンジョンだかに潜り込んで、入り口に居たコイツだけ持って帰ってきたんだよ」


 カワムラは自信満々にそう述べ、にやにやと笑う。

 自分のスキルに絶対の自信があるような様子だが、おそらく違う。


 何故ならカワムラは「可能性」と口にした。つまりこの獣を操れる確率は絶対ではなかったはずだ。だとしたら、そこに勝機があるかもしれない――


「魔物の力でもないと兄さんに勝てないと認めているのですね。殊勝な心がけです」

「…………あ?」


 カワムラがゆっくりと首を左に傾けた。何を言われたのかわからないという表情だ。

 ユキノは続けてハッキリと言い放つ。


「不様で愚かな卑怯者。あなたなんて兄さんの足元にも及びません」

「………………は、あ?」


 状況は変わらず絶体絶命。

 それなのに俺は思わず笑ってしまった。ユキノはいつだってそうだ。俺みたいな駄目な兄を慕ってくれる。どんなときも、真っ直ぐに信じてくれる……。


「あまり持ち上げないでくれ」


 いつの間にか足の震えは止まっていた。

 だってここまで妹に啖呵を切ってもらったら、兄貴が逃げ出すわけにいかないじゃないか。


「ユキノ逃げろ。こいつらは俺が何とかするから」


 ユキノが背中に隠れるように動きながら、カワムラと――その先の獣を鋭く睨む。

 幽鬼のように人外じみた顔つきのカワムラが、憎らしげに俺の顔に人差し指を突きつける。


「ユキノはオレの物だ。お前にだけは渡さない。お前はここで、殺す……」

「ユキノはお前のものじゃない。それに、もちろん俺のものでもないよ」


 それから、俺と黒い獣の命がけの鬼ごっこが始まった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る