あくま
少女は自分の名も、親の顔も知らなかった。物心ついた時には薄暗い世界にいて、少ないリソースを奪い合うだけの醜い獣の世界にいた。誰も自分を助けてくれない。金などないからパンもリンゴも奪うしかない。
少女は唯一、恵まれた特技を持っていた。
「ちょーだい」
超人的な握力、であった。物心ついた時にはリンゴを捻り潰すなど造作もなく、この武器があるからこそどん底で、誰の庇護もなく彼女は生き延びた。
奪えば奪うほど、自分が豊かになっていく。少女はどん底の世界で世の摂理を学んだ。奪えば良いのだ、と。
遠くに白くてキラキラしたお城が見える。欲しいなあ、どうやったら奪えるかなあ、そんなことばかり考えていた。それが少女の原風景である。
欲の埋め方を、奪うことしか知らない。
だから、
「ちょーだい」
奪い続けた。力にモノを言わせて。
そうしていると次第に周りも放っておかなくなる。最初は誰かのお願いで人を殺した。命を奪った。そうしたら、パンを奪うよりもずっとたくさんのお金が手に入った。少女は知った。命は素晴らしい、と。高級だから。
だから彼女はたくさん人を殺した。彼女の隠れ家にはたくさんのキラキラした宝石や服がある。それを着ると自分もキラキラして見えるのだ。
キラキラしたいから、依頼を重ねた。
その結果、
「死ぬか降るか、選べ」
突然、奪えない相手が現れた。当時の暗殺ギルドにおいて最強の使い手。何も出来ずに一蹴された。奪える気が、しなかった。
選択肢は一つ、少女は暗殺ギルドに入った。やることは変わらない。依頼主が変わるだけ。たくさん殺して、たくさん奪って、キラキラを身に付ける。
「綺麗」
暗殺者は仮の姿。本当の自分はこんなにも輝いている。こんなにも魅力的で、あのお城に見合う存在なのだと、そう思っていた。
『握魔』、などと呼ばれながらも。
しかしある日――
暗殺ギルドに激震が走った。アルカディアの闇は深い。何しろ闇の王が健在で、道理に適わぬ闇の王国が地下に聳え立つのだ。今までネーデルクスの、オストベルグの、アクィタニアの、多くの間者を弾き返してきた歴史がある。
彼らは幾度も痛い目を見て、次第に手を引いて行った。もう敵は来ない。そう思って数十年、均衡を破る勢力が現れたのだ。
それはガリアス、サロモンが創り上げた組織、『蛇』であった。彼らは周到に準備し、アルカディアの急所を狙ってきたのだ。
『わしを働かせぬつもりか。くく、あの男の入れ知恵、じゃろうなァ』
何故かその日は闇の王がそれほど有効に働かず、結果として暗殺ギルド対『蛇』の総力戦と成った。これがこれより幾度も繰り広げられる世界の裏側での戦い、その始まりであった。何とか初戦は守り切れたが、多くの暗殺者を失い、最強の男も深手を負った。戦いに参加した少女も――
「……いたい」
傷だらけ、ボロボロになって、路上に倒れ伏す。キラキラとは程遠い状態である。何とか隠れ家に戻り、傷を癒し、綺麗な服を着なければならない。
こんなところで死にたくない。自分は奪う側なのだ。奪われて死ぬなど、許せない。生きる。生きる。絶対に、生き延びる。
それでも意識は遠のき、奪うことしか知らぬ少女はそこで散る、はずだった。
「大丈夫かね⁉」
馬車から飛び降り、駆け寄ってくる男が現れるまでは。少女は薄れゆく視界の中で、彼を見た。とてもキラキラしている眼である。服も綺麗。歳こそかなり上だけれど、顔立ちは美しく、まさに紳士を絵に描いた男であった。
男はボロボロの少女を抱き、
「気をしっかり持ちなさい。大丈夫、今助けてあげるからな」
自ら少女を抱き上げ、馬車の中に運び込む。その腕の中で少女は思った。嗚呼、これが運命の出会いなのだと。この人が自分の王子様なのだと。
その日から少女は、城を見つめることをやめた。
それ以上が現れたから。
だから、
「ありがとう、ござい、ます」
絶対に生きる。そう決めた。
○
少女は男にヘルガと名乗った。名前はないので咄嗟に、以前殺した相手の名を騙る。もう存在しないのだから、自分が奪ったのだから、それは自分のものなのだ。それが彼女の理屈。彼女の中にある絶対の真理である。
最初は少女、ヘルガは有頂天であった。自分の王子様が介抱してくれて、しかもこんなにもキラキラしたお屋敷の主だと言うのだ。こんな幸せなことがあるだろうか。人生における絶頂、ヘルガは幸せを噛み締める。
だが、そんな絶頂は一瞬で、奈落の底に突き落とされてしまった。男には番がいたのだ。仲睦まじい様子をわざわざ自分に見せつける女に、ヘルガは初めてどうしようもないほどの殺意を覚えた。彼女の眼、紳士の伯爵が浮かべるそれと同じ色合いのキラキラしたものを見て、少女は吐き気を催してしまった。
許されないことである。自分の運命の相手を奪うなんて、こんなことは道理から外れている。初めて出会った時から気に食わなかった。伯爵のそれは美しいと思えたのに、同じく自分に向けられるそれが『女』であるだけで、こうも印象が違うのかとヘルガは内心嗤う。絶対に殺す。初めて会った時から、そう思っていた。
客観的に見て、伯爵夫妻は彼女をこの上なく厚遇した。身寄りがないと語る見ず知らずの彼女を疑うことなく使用人として雇うことを決め、伯爵が家を空ける時は身重の奥方や美しい姉妹たちが彼女の手当てをした。
快復して、仕事を始めてからも貴族の家人として至らぬ彼女に教養を伝えたのは、伯爵ではなく奥方の方であった。明るく、朗らかで、温かく、美しい。
そこにいるだけで嫌でも場が華やぐ。
彼女を知ってからと言うもの、ヘルガは吐き気が止まらず、ずっと苦しい思いをしていた。親切にされたなら裏があると勘繰り、教養を優しく教えられたなら見下されていると穿った見方をした。何よりも許せなかったのは――
彼女を知ったことで、
「あれ?」
一度必要なものを回収しようと隠れ家にこっそり戻り、いつもの癖で綺麗な服を身にまとった。鏡に映る己を見て、ヘルガは愕然とする。
全然、綺麗ではないのだ。今まで何を着てもキラキラして見えたのに、今では何を着ても醜く映る。彼女は吐いた。盛大に、吐いた。
許せなかった。自分の聖域まで侵された気がしたから。
奪い返さねば、そう思った。ここに在ったはずのキラキラを、たぶん、きっと、自分から奪ったであろうあの女から奪い返す。
ヘルガは狂っていた。最初から。実の親から超人的な握力が原因で気味悪がられ、捨てられたことすら知らぬ名も無き獣は、そもそも知り得なかったのだ。
人の心など。学ぶ機会すらなかったから。
あるのはただ、奪うことのみ。
○
九女が生まれた。笑えるほど眼の色から髪の色までこの女に似ている娘。「抱いてあげて」と笑顔で渡されたヘルガは内心、反吐が出る思いであった。それでも今は雇われの身、この立場を失うわけにはいかない。
ヘルガは笑顔で「可愛いですね」と心にもない言葉を吐く。
それを聞いて彼女はほころぶように、微笑んだ。
その日から少しずつ、伯爵の奥方は体調を崩しがちになった。元々この時代にしては高齢の出産ということもあり、誰もが自然なことだと疑わなかった。彼女と共に日に日に憔悴していく伯爵自身もまさか、
「…………」
信頼する使用人が毒を盛っているなどと、考えもしなかっただろう。ヘルガには伯爵の知らぬ伝手がある。暗殺ギルドの一員、『蛇』の侵入がいつ再開してもおかしくない現状、ヘルガもまたギルドの重要な戦力である。
今まで稼いだ金と実績があれば、多少の無理も通る。彼女が用意したのはとても高価で、体内で緩やかに蓄積する毒であった。裏でのみ流通する最上級の、そして最悪の毒。痕跡を残さぬゆえに、不可避であるともされた。
それをヘルガは惜しげもなく使い、長い時をかけて、
「くひ」
奥方を殺害した。完璧な仕事、疑いなど向きようがない。絶望に打ちひしがれる伯爵を慰めた。恩返しをさせて欲しい、と恩を受けたことを利用し、肉体を用いて自分のものとするために。彼女から奪い返そうと、した。
だけど、
「……何故?」
伯爵は一向に立ち直る気配を見せない。彼女を忘れる気配すら、無い。自分のやっていることなど、彼女を失ったことに対する傷を、一時でも誤魔化すために過ぎないと知り、ヘルガは愕然とした。
いなくなってなお、立ちはだかる『女』。
「何故何故何故何故何故ェ!」
そして、戻らない、キラキラ。隠れ家の鏡を叩き割り、ヘルガは怒りに打ち震える。悪いのはあの『女』、そこは間違いない。そこは揺らがない。あの『女』の幻影さえ取り除ければ、伯爵もキラキラも『帰って』くる。
「……仕方、ない」
ヘルガは最大の目的である『女』の幻影を消すため、業腹だが他の女を使うことにした。今はとにかく『女』を消す、それを最優先したのだ。
市井から、訳アリの女を見繕い、伯爵にあてがった。最初は抵抗していた伯爵であったが、絶望の孤独と肉欲には抗えず、次第に抵抗を失って、溺れていく。ちなみに十女はこの『悪癖』の初期に生まれた子である。
伯爵は溺れた。ヘルガがそう仕向けた。彼女は少しずつ、彼に嗜虐の味を覚えさせることで、引き返せぬところまで伯爵を闇に引きずり込んだ。どっぷりと、自らのいる場所まで。そうすることで、彼の眼から『女』の気配が消えることで、
「私がおりますよ、伯爵」
裸のヘルガは、落ちくぼんだ眼で虚空を見上げる伯爵を抱く、鏡の中の自分に、キラキラしたものを見る。周辺は血まみれ、だけどここは間違いなく楽園であった。彼と自分だけの楽園。ここには二人だけしか生きていない。
勝った。そう思った。
だが――
「初めまして、アルレットと申します」
「…………」
その頃には『消費』も激しくなっていたため、直接ヘルガが女を見繕うことなく他の者に任せることが多くなっていた。ヘルガであれば彼女は選ばなかっただろう。何故なら眼の奥にある光が、何処か『女』を彷彿とさせたから。
されど今の自分と伯爵の間に割って入れるわけがない。そう思い彼女の王国であるベルンバッハの敷居を、姓もない下賤な女に跨がせた。
自身も姓がないのに、ヘルガは彼女らを見下していたのだ。
しかし結果は、ヘルガの思惑から大きくそれ、またしても伯爵が奪われてしまったのだ。しかも今度は、下賤の出である。それはヘルガにとって許し難いことであった。あの『女』はまだそれなりの血統、自分と違っても仕方がないと割り切れたが、今度は同じどん底出身である。花売りの女、身体を売るしか能のない売女。
それなのに――
「私は許されぬことをした。悍ましいことを、してしまったのだ」
「大丈夫ですよ、伯爵。私が、おりますから」
「ああ、ああ、私の、アルレット。愛している。私を、助けてくれ」
物陰で、ヘルガは虚空を見上げていた。伯爵は一度として自分に、私のヘルガなどと言わなかった。愛しているとも、言ってくれなかった。
人生で二度目、奪うためではなく消すために、
「……アル、レットォ」
あくまが動き出す。
あの女の粗を徹底的に探した。最初に当たったのはあの女の弟、アルとか言うガキであった。同じ髪の色は反吐が出そうな思いであったし、裏でバレぬよう殺してやろうかとも思ったが、
「…………」
ふとした時に城を見る眼を見て、何故か殺すのはやめておこう、と思った。特に理由はない。少なくとも彼女の中で言語化はされていない。
ただ、もしかすると少しだけかつての自分と被ったのかもしれない。分不相応にお城を眺める眼が、今にも手を伸ばしそうな雰囲気が、ほんの少しだけ。
まあ、何も持たない弟を消す意味もなかった。むしろそれが元で伯爵が傷をなめ合おうと、関係が深まる恐れすらあった。見逃した理由は、それだけ。
ただ、何故かこの時は思わなかったのだ。
あの眼があの女に似ている、などと。髪も眼も、全部同じはずなのに。
むしろ――
その後も色々当たった。アルレットが来て、伯爵は露骨に自分を避けるようになった。苛立ちが募る。家人までどんどん彼女に懐き、気付けば新入りの彼女が使用人の中心。あまつさえいつも自分が付き従っていた社交の場も――
「アルレットといっしょが良い!」
主役の一声で、引っ繰り返った。どんどん自分の居場所が奪われていく感覚。吐き気が止まらない。あの時よりもより深く、濃い感情が胸の中で蠢く。
だから、ついて行った。誰にも気づかれず、闇に潜みながら。相変わらず社交界はキラキラしていて、まさに自分の居場所だと思えた。そこで彼女は見たのだ。面白い光景を。アルレットの粗になり得る、可能性を。
ヘルガは見ていた。冷徹な天才が壊れる様を。その天才へ常に視線を向ける美しき婚約者の存在を。何のバイアスも持たぬ彼女だからこそ、それらを俯瞰して見抜くことが出来た。天才と婚約者、そして売女、ヘルガは嗤う。
彼女の嗅覚が、何かのひびを察知していたのだ。
それからは観察を続けた。情報収集も怠らなかった。その上で、天才と売女を引き合わせるよう立ち回った。まさか、あそこまで強いとは思わず、危うく殺されかけたが、奪えない相手とカテゴライズ出来たこともまた収穫ではあった。
そして、嵌めた。
「ロザリー様ですか」
「どちら様?」
自分一人の言葉では伯爵が動かない可能性もある。業腹極まるが、念には念を入れたい。ゆえに社交界の華を、高位の貴族を巻き込んだ。あの女を許すという余地を残さぬために、全てに置いて徹底した。
その結果、
「あら、悲鳴すら上げられなくなった? 哀れね、売女ァ」
伯爵と共にあの女を解体するという、もはや番の共同作業と言える行為をすることが出来た。こんなにも楽しい夜は久方ぶり、いや、初めてであった。
あの日、あの瞬間、狂気に堕ちた伯爵の隣で佇む自分が、一番キラキラして見えた。ようやく望んでいたモノが手に入ったと、充足する。
あの女の肉の感触は如何なる肉よりも甘美に思えた。
そこからはもう、一直線。狂う伯爵をいさめようとした娘にも手を出し、完全に彼は後戻り出来なくなった。悪癖が日常と化し、彼自身も見る見ると気力を取り戻していった。ただし、眼の奥にあった光は、もう無い。
かつての奥方に似た女をあてがったこともあった。ヘルガの戯れ、伯爵にもう彼女はいないのだ、とわからせるための遊興であった。彼は面白いように貪った、娘も産ませた。そしてほどなく「違う」と呟き、悪癖の餌食とした。
我が世の春。誰も阻めぬ悪意の城。
ヘルガは幸せだった。心の底から、この地獄のような世界を二人で歩めることに幸せを感じていたのだ。幾夜も二人の共同作業を重ねた。もう、誰よりも彼と深い所にいる。後戻りなどさせない。この男は完全に、自分のモノである。
奪った。完全に、奪い切った。
人生に勝利した。
そう、思っていた。
そして月日が経ち――
「ウィリアム・リウィウス、ですか?」
「そうだ。かなりの実力らしくてな。だが、異国出身でまともな伝手などテイラー程度と聞く。先日の出会い方も良かった」
「……ああ、襲撃の。あの日は私を護衛に付けるべきでした」
「そうはいかんだろう。お前は社交の場には少し、血生臭すぎる」
「…………」
時折伯爵は妙なことを言うのだ。二人はもう夫婦、番なのに、たまにこうして突き放した言葉を述べる。まあ、杞憂でしかないのはわかっている。
どうせ彼はもう、自分からは逃げられない。
「彼は利用できるかもしれん。我が家は代々文官、軍部にはあまり伝手がない。異国の男の後ろ盾となり、その分彼に繋げてもらうとしよう」
「そのウィリアムとやらが出世してからで良いのでは?」
「ヘルガはわかっておらぬな。その前に買わねば買えぬようになるのが有望な人材と言うものだ。よし、一肌脱ぐとしよう。その上で、娘でも押し付けようか」
「十番目ですか?」
「……九か十、だろう。どちらにも難はあるが、そこはベルンバッハの娘だ。異人にはもったいない話。必ず乗って来る」
「……承知致しました」
伯爵は娘を、特にかつての奥方と似た九女を自分から引き剥がそうとする節があった。ほんの少し垣間見える、特別扱い。他の姉妹に対するそれとは、少し違う。同じ似ているでも十二女には微塵も興味がない辺り――
「……昂ってきたな」
「そちらも、承知致しました」
ヘルガは嗤う。まあ、何があろうと構わない。伯爵と自分の楽園が崩壊することなどありえないから。たかが軍人、あの天才すらも自身の悪意が上回った。如何なる相手が入り込もうと、自分が引き千切れば良いだけ。
それだけのことだ、とヘルガは嗤う。
そして、ある日の夜――
ベルンバッハの門前にあの男が現れた。白き衣装を身にまとい美しい白髪をたなびかせながら、威風堂々とした様子で、門前に立つ。
その姿を見て、何故かヘルガは無性に不快感を覚えた。野心と自信が眼から溢れている。羨望ではなく、憧憬でもなく、その眼は間違いなく見据えていた。
あの日の、お城を。
眼の奥に光はない。奥方が、アルレットが、そして九女が宿す光は、今の男には皆無。ゾクリと、ヘルガの肌が粟立つ。
何かが、軋む音がする。
「こちらになります。サー・ウィリアム」
「ありがとう」
それでも伯爵が望む以上、屋敷に招き入れぬわけにはいかない。この男を利用してベルンバッハは、伯爵はより高く飛ぶのだ。
だから招き入れた。自分の築き上げたお城に。
自分と同類の獣を。
今、扉が――締まる。
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