穴掘りカールⅤ

 今日ここに至るまで何度となく危機はあった。

 穴を掘る作業は危険と隣り合わせ。地面は均一な平面ではなく凹凸があり、強い部分弱い部分もある。崩落の危険は常に付きまとう。地中には石や岩、進行を阻む障害が数々散りばめられており、突き当たるたびに迂回を余儀なくされた。

 雨が降れば作業を中断するしかなく、水が溜まれば掘削作業の前にそれを除去する行程が必要となる。幸い、ルーリャが後ろに控えているため水を捨てる場所には事欠かなかったが。それでも時間は着実に進んでいく。

 良いこともあった。

「テイラー、聞いたぞ」

「……えへへ。いやー、まさか、あの一回で出来ちゃうとは」

「ふっ、おめでとう。女の子だそうだな」

「うん。早く会いに行きたいね」

「冬季ぐらい戻っても罰は当たらんと思うぞ」

「それは出来ないよ。僕は、アルカディアの大将なんだから」

 されど、それを享受することを彼は拒絶した。

 全ては勝利を果たしてから、それ以外はすべて些事なのだ、と。

「ちなみに、兄と妹もなんだよ。前後二、三か月ほどずれてると思うけど」

「妹……リウィウスがか!? 想像できんな。白騎士の息子、んん、クルーガーみたいなのだったらどうする? たぶん笑みとは無縁だぞ」

「ど、どうもしないけど。ちなみにアンゼルムの子供時代ってどんなだった?」

「蟻の巣を潰すのが日課だったはずだ」

「……そっかぁ。そこは似ない方が嬉しいかなぁ」

 冷静に考えるとアンゼルムは全く関係がなかった。

「……リウィウスが義弟になるわけか」

「ふっふっふ、そうなんだよギルベルト。僕が兄、義兄なわけさ。お兄様、と呼んでもらいたいんだけどいけるかな?」

「絶対に無理だろう。それが原因で別れる可能性もある」

「……やめとくよ。妹に殺されそうだ。あれでたぶん一番父の血が強いから」

 軽口を交わしながら、それでも彼らは前へと進んだ。

 やりたいこと、したいこと、日に日に積もっていく。それはこの戦場にいる者全てが同じこと。上も下も、皆が必死に戦っている。

 各々のやるべきことに沿って――

「大将をやって思ったよ。まだ短いけどさ、たぶん、まっとうな死に方は出来ないんじゃないかな? たくさんの人に嘘をついて、戦わせて、死なせて、勝つためなら仕方がないって言い聞かせて、僕はさらに死ねと言う」

 匂い消しのための攻め。成功する余地のない攻城戦。

 本国からの命令で無理やり仕掛けさせた、そういう筋書きを相手に想起させることで、少しでも地下という意識を消す。全く別方向から至近距離で穴掘りを仕掛け、相手に阻止させる手も使った。適度に攻め、相手からの攻めをいなす。

 不自然さを悟らせないためにありとあらゆる手を使った。

「僕の手は血濡れている」

 地平の彼方で沈む真紅の太陽。まるで血のような空であった。

 血と土埃に塗れたカールとギルベルトは戦場痕を見る。勝てない戦で勝てと言わねばならぬ苦悩。上に立ってみてわかった。

 大将という地位は、否、人を導く役回りは、人でなしにならねば役割を果たすことが出来ないのだと。綺麗なままではいられない。

 それなのに、綺麗であるように見せねばならない、矛盾。

「戻るぞ、テイラー」

「ああ、征こう、ギルベルト」

 カール・フォン・テイラーは己が手を握りしめ、さらに前へと足を向ける。隣には己が剣、ギルベルト・フォン・オスヴァルトがいる。親友である彼より自分は幾分か恵まれているだろう。ならばやって見せる。

 この国の、家族の、彼の盾になると決めたから。


     ○


 その年、阻む者無しであったガリアスにとって苦難の時が来た。

 アンゼルム・フォン・クルーガーが野戦で、平地で、ほぼ互角の戦力で、かのダルタニアン率いるガリアスの精鋭を打ち破って見せたのだ。

 世界中が震撼した、ダークホースの存在。

 緒戦をあえて捨て、数多の犠牲を強いながら、虎視眈々と彼は狙っていた。相手が隙を作るのを。勝勢の波に乗ることで、僅かに乱れた統率を彼は見逃さなかった。奇手、否、鬼手と言える苛烈な一手。やはり、ここでも彼は損耗を無視した。

 ダルタニアンの、ガリアスの教科書にはない、割に合わない勝利。

 彼は勝利しつつもガリアスよりも損害を出した。だが、その分、彼は戦線を一気に押し上げて見せた。兵の命よりもライン取りを優先したかのような損得勘定に、世界中の戦術家、戦略家が頭を悩ました。

 これは理に適っているのか、と。

「アンゼルム、良いのか?」

「ああ、問題ない。これ以上ない、勝利だ」

 第一軍大将アンゼルム・フォン・クルーガー、白騎士に影に隠れ目立たなかった男がここに来て頭角を現してきた。過程の良し悪しはさておき、結果はこうして戦線を押し返し、戦える位置取りを確保したのだ。

「使える人材は残してあるからな」

「……そうか」

 他国の、いや、自国の人間でさえほとんど知る由がない。この勝利を得るためにアンゼルムが生贄とした者たちの多くは、彼が今後必要ないと考える者たちであった。これから世に出てくる者たちのため、余分は省き、席を空けてやる必要があったから。ゆえに今回の戦い、アンゼルム目線では損害軽微、ゼロに等しい。

「まあ、あの男に利するのは業腹だがな。君にとっては喜ぶべきことだろうが、もう少し付き合ってもらうぞ、グレゴール。私は、勝たねばならない」

「誰のためにだ?」

「自分自身のために、だ。私は徹頭徹尾、エゴイストだよ」

「……そうかい。ま、腐れ縁だ。付き合ってやるよ」

 此処から一気呵成、あの男なら必ずこの流れに乗ってくるはずだから。


     ○


「聖ローレンス、おっと、アークランドか。あの土地の特性上、居座るつもりなら攻めに向かない。四方を大国に囲まれているからね。突出すれば必ずどこかがつけこんでくる。しかし、条件次第ではそうならないことも、あるのさ」

「クイズのつもりならやめとけよっと。やる気ねーからな」

 第二軍大将率いる軍勢はダーヌビウスを守護するアークランドに見せつける形で、進軍を開始していた。狙いは一つ、彼らが呼応すればそれなりの小火にはなるだろう。そしてそれはそのまま、遠くを見つめる眼へのけん制になる。

「ガリアスは勝ち過ぎたね。世界全体が負けを望んでしまうほどに。ならば、僕たちがこうして意思を示すだけで、火は勝手に燃え広がるのさ」

「狙いは体勢を立て直そうとしてるダルタニアンかよっと?」

「いいや、その援軍であり補給でもあるアダン、アドンだ」

「……おいおい。こっからじゃ――」

「彼らは素直なラインを取らない。いや、取れない。アンゼルム君がラインを押し上げてくれたおかげで、全体的に戦場が偏った。そしてダルタニアンほどの指し手なら、こうなれば必ず敵軍の側面を取る。つまり、彼の本陣は君たちの考えよりもずっと僕ら側に陣取っているのさ。逆転するために、ね」

 ヤンは「くぁ」とあくびをしながら不精髭を撫でつける。

「そして、今、僕らがこうして意思表示をしたことで、おそらく動くであろう勢力を避けて動こうとすれば、おのずと補給路は絞られてくる。残り二つ、くらいには。最後は勘だね、彼らの性格上、困難な道を取る気がする」

「……勘かよ」

「思考を経ての択なら、僕は外さないよ。ほぼ、ね」

「最後に予防線を張るなよっと」

 悠々とヤンはガリアスの急所を突きに向かう。

 推測と彼は言ったが、その顔はだらけ切っている中でも確信に満ちていた。


     ○


「ダーヌビウスからユーフェミア様の鷹が到着いたしました」

 アークランドにおける対ガリアス方面の拠点には仮面の騎士が変化を待っていた。小競り合いではなく、それなりの火種を。そうせねば巨人であるガリアスを削ることさえ出来ない。男の仕事は一つ、姉を女王として君臨させ続けること。

 それだけしかもう、彼女には何も残っていないから。

「アルカディア第二軍、南東に移動を開始したとのこと」

「……まるで僕らに動けとばかりのやり口だな。好かんが、乗るとしよう」

 ヤンの作った、否、元を糺せばアンゼルムの勝利がもたらした好機。ヤンによって憂いも断たれた。呼応したかのようにヴァルホールもネーデルクスに下ったエスタードと交戦を開始。それほど激化する気配はないが、これで彼らがアークランドに敵意を向けることはないだろう。まさに絶好機、逃すは愚者。

「我らも続くぞ。女王の旗の下に!」

「御意!」

 仮面の騎士、メドラウト・オブ・ガルニアスは女王の代行として総指揮を執る。事前に得ていたアンゼルムの敗退劇から、メドラウトらはこうなるのではないかと予測を立てていた。あくまで予測に対する備えではあるが――

 真紅の軍勢は雪崩れ込むようにガリアス方面へ攻め込んだ。

 対するはリディアーヌ率いる軍勢に王の両足を備えた強大な勢力。アークランドにとって厄介極まる相手であったが、今回は備えが生きる。

「……この局面を読んだか、メドラウトォ」

 リディアーヌは歯噛みする。

 視線の先にたなびくは真紅の旗と、黒き旗。黒に描かれるは獅子の紋様。

「天獅子、だっけ? 随分大層な呼ばれようじゃない」

「……疾風か、相手にとって不足なし!」

 ディノとの戦いを経て化けた獅子は直近の戦でも多くの活躍を見せていた。天獅子、などと呼ばれ始めたのも最近のことである。

 対するリュテスもまたガリアスきっての武人。

「リュテス、援護は――」

 援護に向かおうとしたエウリュディケに殺気が奔る。その元は、世界でもトップクラスの弓兵トリストラムであった。トップクラス同士の遠距離戦、嫌でも間合いを測る行程が増え、時間を消耗させる持久戦を強いられる。

 強いる側と強いられた側、同じ時を過ごしても大局に与える影響は段違いとなる。エウリュディケは顔を歪め、トリストラムは笑みを浮かべる。

 それが状況へのアンサー。

「間隙を突かせてもらうぞ!」

「頭は取らせん!」

 嫌らしく本陣を狙ったヴォーティガンをガリアス百将でも随一の力を持つ勇将バンジャマンが迎え撃った。互いに強力な一撃を持つ者同士、拮抗する。

 そしてそれは、攻める側の狙い通りであったのだ。

「頭の差だ、デカいの。奴は総大将である前に騎士、あのナリだが、強いぞ」

「ぐっ、完全に後手に回ったか!」

 本来拮抗するはずの戦力に天獅子を雇いバランスを崩した。

 それゆえ、この結果は必然であったのだ。

「覚悟、リディアーヌッ!」

「……ちィ! 総員撤退、本陣を放棄する!」

 戦いの趨勢は、始まる前から決まっているものである。

 特に智将同士の戦いは、準備がモノを言うのだ。


     ○


 ガリアスは大崩れとなる。

 リディアーヌは敗走。ダルタニアンは待ち望んだ援軍と補給が道中断たれたことを知り、苦渋の撤退。ここぞとばかりに今までの返礼をする勝勢の軍に対し、彼らは抗する術を失っていた。

 勝ち過ぎたこと、読み負けたこと、その反動が激流となって襲い来る。


     ○


 時は少し遡り――

 ディエースは珍しく長い時間地図を睨み続けていた。

 いつもは経験と感性が短時間で最善手を導き出してくれた。すぐに見えた。だが、今回は様々な場所で靄がかかっているような、明瞭な景色が見えない。

 ゆえに考える。

 ダルタニアンが敗れたことで巻き起こるであろう事象を。ヴァルホール、黒狼がエスタードにちょっかいをかけた理由、本人は何となくなのだろうが、あの怪物が何となくでも動くのには理由がある。連動する景色、頭をフル回転させ描く。

 ありとあらゆる想定を経て、ディエースは「ふぅ」と息を吐く。

「……今から一筆書くさかい、任せたで」

「承知いたしました。送り先はサロモン様ですか?」

「ちゃう。――――や」

「ッ!?」

 感情を削っているはずの『蛇』がそれを露にするほどの衝撃。

 それでも聞き返さず、ディエースの書を受け取り闇に消える。

「……これで、まあ、何とかなるやろ。そろそろ、僕もお役御免やろうし、これからどないしたろかなぁ? ちっこい嬢ちゃんが大きくなって、爺さんの跡を継ぐ。それをダルタニアンが支えて、リュテスもおるし、今回の件で盤石や」

 その中に自分はいない。

 充分、楽しませてもらった。十分、楽しんだ。

「僕は蛇や。蛇はおひさんの下じゃ生きてけんねん」

 サロモンからの帰還命令を破り、ディエースは夜闇を見つめる。夜闇に輝く星々ではなく、その下地である闇を美しいと感じるのは変わり者であろう。

 もちろん星も美しい。しかし、その星を引き立てる闇もまた美しい。

 自分は星になどなれない。そんなことは初めからわかっている。

「ディエース、ナイフ術教えてや」

「ノックせえゆうとるやろ、ちっちゃい坊主」

「……?」

「都合ええ耳しとるな。はぁ、ええか、僕の真似したらあかん。ネーデルクスなら槍覚えた方がええ。いくらでも潰しがきく。フェンケなら教えてくれるやろ、あれで意外と面倒見がええからね。本人も相当積んだクチや」

「でも、フェンケはつかっとらんよ?」

「色々あるんや、大人には」

「ディエースにも?」

「せや」

「父にも?」

「……せや。僕らは闇の住人、幸せは向いとらん。色々やらかした揺り返しは、必ず来るもんや。だから、僕らを目指すな。ディオン、約束やで」

「……ディエースが言うなら。しゃーなしやで」

「くっく、阿呆やな、僕は」

 ディエースはディオンの頭を撫で、人と人とのふれあい、そのぬくもりに、傾倒しそうになっている己を嗤う。度し難し、己の業。

 長くは続かない。仮初めの日常。

 戦場は膠着状態。されど世界は混沌に満ちている。

「今日もフェンケに槍習ってくるわ。最近型教えてもらっとんねん」

「どない型なん?」

「蛇ノ型やで。いっちゃん格好ええねん」

「……そら、センスないわ、自分」

 本当に度し難い。人の息子に慕われ、それに何かを見出している己、が。

 本当に、度し難い。


     ○


「閣下」

「ああ、よくやった。皆、本当に、よくやった」

「……でも――」

「そうだ。喜ぶのは最後の詰め、その後にしよう。ギルベルト、準備だ」

「承知」

 とうとう、見えざる矢は蛇の眼前に至る。未だ、蛇は気づいていない。世界の混沌が嫌でも彼の視線を、視界を覆っているから。

 だから、カール・フォン・テイラーを見逃した。

 見ていたつもりが見えていなかった。


 その日はいつも通り、業務的な小競り合いだけの日常的風景が過ぎ去るはずの一日であった。蛇は気づいた後、驚嘆するしかなかった。掘り抜いた後、夜襲すると決めた日でも徹底していつも通りを演出していたのだから。

 蛇を超えた執念、そして時代が選んだ英雄。

「アルカディア軍が都市内に現れました! 続々と、数を増していきます。何処から攻めてきているのかは現在調査中です。しかし――」

 全てを聞き終える前にディエースの頭の中で仮初めが崩れ去った。

 フェンケとディオン、同種の才能を持つ彼らには蛇なりの生き方を、戦い方を教えた。どう生かすかは彼ら次第。それがこの先役に立つかはわからないが、それでも出来ることはしただろう。ネーデルクスへの義理は果たした、あの男の代わりに次へとつなげた。元々自分は囚われた時点で死んでいたのだ。

 そう考えれば、十分楽しかっただろう。

「……穴や。ほんでも、もう手遅れやろな。今更埋めに向かっても返り討ちに合うんは目に見えとる。自分らの腹の中で巣、造られたら敵わんわ」

 ディエースは驚くよりも先に感服していた。長い旅路であっただろう。勝つと決めてから揺らぐことも多々あったはず。薄氷を渡り抜いたのだ、彼らは。自分は最後まで見立てを誤っていた。カールと言う将を過少に見ていた。

 この戦場を二年近く引っ張った時点でモチベーターとしては最上級、攻めは凡庸なれど守りの戦ではついぞディエースでは抜くことが出来なかった。

 大橋の都市は完成するだろう。

 エスタードを手にしたことで肥大化し過ぎたネーデルクスはこちらまで手が回らず、フランデレン、ブラウスタットの機能はあちらに奪われる。

 それは仕方ないと割り切っていた。手持ちの駒では足りないから。現状を鑑みるに都市開発はベター、いや、ベストに近かったのだ。

 しかして、それは最善手ではなかった。まさかの、最善手を隠すための陽動でしかなかった。もちろん、その先に利用する手もあるのだろうが。

「……全部の門、開けたってや」

「そ、それは――」

「僕の全権をフェンケに移譲する。ほんできっちり逃げるんや。僕は最後くらい好きにやらせてもらう。これで僕は降り、やね。悪ないわ」

「……委細、承知いたしました」

 完全な敗北。結局、自分は不完全であった。

 牙が生きていたら、『蛇』をアルカディアで失っていなかったら、たぶん穴掘りは看破出来た。しかし、それはガリアスの、サロモンの力であり、それがディエースへ譲られただけ。ディエース対カールは、何度やってもこうなる。

 だから、蛇は嗤った。

 嗚呼、実に面白い人生だった、と。


     ○


「ギルベルト様、ディエースがいません!」

「……門から出て行った、のか?」

「集団を率いて撤退していくフェンケらは確認済みですが、その中にディエースらしき姿は。もちろん、夜中ですので見逃した可能性はありますが」

「どこに行った、『蛇蝎』め」

 もぬけの殻、これでフランデレン、否、ブラウスタットはアルカディアの手に落ちた。どれほど堅牢な都市であろうと、中に入り込んでしまえば柔らかいもの。完全な要塞都市であれば中を固める構造にも出来るが、この都市は交易の重要な拠点でもあった。それらの機能を担保して完全要塞化は不可能。

 それゆえ外を固めるしかなく、そこを飛ばしてしまえばこの通り。

 突撃隊はブラウスタットの構造を把握している。多少弄ってはいるだろうが、根本的に手を入れられるような資材が投入されていないのは確認済み。

 勝てる、ここまで至れば勝てるのだ。

 いや、もう、勝っている。

 本陣で指揮を執るカールは確信していた。相手がそれを悟っていることも。撤退する、それなりに優秀で損得勘定が働く者ならそうするだろう。彼なら間違いなく双方にとって最善手を選んでくれる。愛する者を傷つけられた憎しみは既にかすれ果てた。ことここに至っては誰も傷つかずに戦いを終えられることが――

「そら、甘いわ。せやから、隙ィ作んねん」

 アルカディア兵の装束をまとった男が報告する兵を装い、カールに近づくと同時にナイフを投擲する。あまりにも自然な、それでいて素早い投擲。

「……何故だッ!」

 しかしそれは、カールの盾に阻まれる。ぬめりを帯びたそれは、毒をまとったものであった。かわすのではなく受ける、正着だったということ。

「君、危険や。モチベーターとして破格な上にこの橋を渡り切った執念。しかも、世界に選ばれとる。実力と運、備えとる奴がいっちゃん危険やねん。白騎士とは別種、でも選ばれとるんは同じ。ここで仕留めな、必ず、ガリアスの大敵になる」

 ふわり、まるでお手玉するようにナイフを数多、操るは蛇の長、『蛇蝎』のディエース。表舞台では使って来なかったナイフ術。それを、出す。

 確実にこの男を殺す、その覚悟をもって――

「君は、そうか、そういうことか。そのために、ネーデルクスへ」

 ディエースの本性を知ったカールは顔を歪めながら剣を引き抜く。

「実は忠義モノやねん。ま、嘘やけど」

 複数のナイフがカールに襲い来る。工夫を凝らした軌道が絡み合い、必中の連撃となる。彼は己と同じ、決して一対一が強い将ではない。

 ギルベルトでもなければヘルベルトでもないのだ。ならば、これで終わる。

「君の覚悟は分かった。でも、すまない。僕はアルカディア軍大将、だッ!」

 終わる、はずだった。

 盾で、剣で、迫りくるナイフを、かすっても殺せる毒を秘めたそれを叩き落していくカール。その眼を見てディエースはまたしても己の過ちを悟る。

 仕方ない。こればかりは仕方がない。ディエースどころか世界中、本人ですら認識していなかった事実。おそらくは稽古相手であるギルベルトのみが知る、カールの成長と適性、一対一でも守りであれば、彼は一線級以上、下手をすると――

「……ほんま、危険やなッ!」

 闇夜とはいえ本陣、さすがに他の部下たちも「閣下!」近づいてくる。

 時間はない。ディエースは遮二無二、剣を引き抜き接近戦を敢行した。もちろん、ナイフはいくつか残している。近接戦で隙を作って確実に――

「諦めろ、君はもう詰んでいる! 今なら捕虜として――」

「僕が足引っ張るわけにはいかんのや! 闇は星を邪魔せん、引き立てるんが、闇やろーが。殺すで、必ず殺す。殺さんと、あかん!」

 蛇に似合わぬ必死な戦闘。されど、ギルベルトを相手取り稽古を続けるカールには不足。攻め勝たねばならぬ状況下ならばともかく、守っていれば勝てるのだ。

 ならば、カールは間違えない。

 盾と剣が爆ぜる。その瞬間、ディエースは懐から巧みにナイフを取り出し、それを投擲せんとする。

 が、カールは盾の内側から剣を振り手首ごとそれを刎ね飛ばした。

「ちィ!」

 詰み、ディエースの脳裏に浮かぶはその一言。理屈が、感性が、それを告げる。

 それでも男は――

「カァァァァァルゥゥッ!」

 足掻いた。無様に剣を振り、何とかその命を奪わんと抗う。

「……残念だ」

 その一撃を防ぎ、カールは哀しげに目を伏せる。追撃は、来ない。出来ない。

「……がはっ」

「閣下、御無事ですか!」

 カールを守る部下たちの刃が、槍が間に合ったから。無数の刃が蛇に突き立っていた。苦渋に満ちた蛇の表情、届かなかったのだ。

「ディエース。君の忠義は本物だったよ。そして、僕は君の願い通り、それを墓場まで持っていこう。それで良いんだろう?」

 諦めた蛇は、血を吐きながら、静かに微笑んだ。

 きっと最後の最後で自らが寄り添うべき柱を思い出しているのだろう。

「……閣下」

「ああ、僕らの勝ちだ」

 勝利の凱歌がフランデレンを、取り戻したブラウスタットの夜空に響き渡った。とうとうアルカディアが取り戻したのだ。

 この日を境に穴掘りカールは準巨星級と数えられるようになった。そしてこの後、積み上げる実績によって守戦であれば巨星級と言われるようになる。

 その後は、歴史が語るだろう。


     ○


「ディエースは?」

「あの男なら問題なく逃げてるに決まってるでしょ」

「……帰ってくる?」

「もちろん。蛇ってしぶといのがウリだから、ね」

 逃げ出すネーデルクス人をアルカディアは追って来なかった。必要なのは血ではなく都市、それ以上は望まないというのだろう。

 これには敵も味方もほっとした。

 長い戦い、睨み合い、緊張感が日常になる日々など懲り懲り、というのが両陣営の本音である。しばらく戦いは続くだろうが、彼があそこに居座る限り奪還の芽はないだろう。とうとうあの都市に真の主が戻ってきたのだから。

 それこそ何重にも裏技を駆使しなければ――


     ○


「ありゃあ、やるねえガリアス」

 ヤンはその布陣を見てため息をつく。合流したアンゼルムら、そして敵でも味方でもない第三勢力であるメドラウトら、攻めあぐねている理由は一つ。圧して圧して圧してきた先に、ガリアスの援軍がピンポイントで到達していたから。

 絶対に出てこないはずの援軍。サロモンの後継者であるリディアーヌらと与するはずがない、誰もがそう認識していた軍勢。

 反サロモン、ガリアスに存在するもう一つの大勢力。普段は対蛮族がメインであり、あまりこちら側に顔を出すことはないが――

「黄金騎士団、ジャン・ポール・ド・ユボーか」

 彼らが出てきた以上、ガリアスの戦力は跳ね上がった。

 それと同時にガリアスの本気が示唆された形。これ以上攻めてくるならば、本気で反撃させてもらう。どちらかが滅ぶまでやろう。

 彼らの存在は明朗とそれを語る。

「ここまで、だろうね」

「だな。これ以上押せばそれこそ滅ぶか滅ぼすかだろっと」

 だが、このタイミングでこの布陣、黄金騎士団を引っ張り出すには相当早い段階でここまで読み切らねばこうはならない。ヤンにとってはどちらかと言うと、そこまで読み切った人物の方が気になっていた。

 リディアーヌではない。ダルタニアンでもない。盤上に出ていた者であれば、もっと別の手があったはず。これは盤外から伸びてきた手なのだ。

 だからこそ、怖いな、とヤンは冷や汗を流す。一介の将、その中では最大級の範囲を誇る己が眼よりも遠くから、ここまで組み上げた男がいる事実に。

 『蛇蝎』会心の策、ここに成る。


     ○


「感謝いたします、ジャン・ポール閣下」

「いや、構わぬよ。そのための戦力だ。別に私とサロモンは不仲でもないのでね。対内外的なイメージ戦略だ。昔はガチであったが。まあ、それを知るのはごく一部、その一部からの献策に我らは乗っただけ。そうだな、アルセーヌ」

 黄金騎士団の副将である男、アルセーヌは頷く。

「はっ、さすがは『蛇蝎』。小憎らしい男ですが、あの経歴で第五位を張っていただけはあります。もう少し出自か言動がまともなら文句なしに王の左右、王の頭脳もありえた男です。戻ってくれば、また順位が荒れることでしょう」

「いいことだ。もう少し荒れるべきだとも。動かねば組織は死ぬゆえ、な」

 リディアーヌらはこの状況を作った男の名を聞き、半笑いしながら腰を落ち着けた。相変わらず嫌味なほどそつのない男である。

 まだ一度だってリディアーヌは勝たせてもらっていない。

「まったく、あの男は。いきなり他所へ行ったと思ったら、何のつもりなのやら。私に説明してくれないか、ダルタニアン」

「さて、あの男は昔から読めなかったので。ただ、そうだね、彼はリディを好きだったんだと思うよ。恋人とかではなく、ああ、可愛い妹、みたいなものかな」

「……そんな可愛げのある男かね、あの男が」

「そんなものだよ、兄ってのは。好意を隠したがるものさ」

「まあ、私としては嫌いではない。何より、今回も含めて私は負けっぱなしなのだ。何度も言っている通り、勝ち逃げは許さん」

 救われたことよりも上回られたことにご立腹のリディアーヌ。

 それを見てダルタニアンは苦笑する。

「まあ、そろそろ戻ってくるだろう。サロモンの奴が何度か呼び戻そうとしていると聞いた。これから先、混迷の時代にこそ蛇の眼は必要となる。ダルタニアンとディエース、二人を従えたリディアーヌ様が我らの上に立つ日もそう遠くはないでしょう。その時のために我らもまたリディアーヌ流を叩き込んでもらわねば」

 ジャン・ポール・ド・ユボーは冗談めかして言い放った。

 頷くアルセーヌと一対一さえ出来れば何でもいいとのたまうジャン・マリー・ド・ユボー。蛮族との戦いにおいて歴戦の彼らがリディアーヌを固めればさらなる飛躍が約束されている。今回の件はその第一歩となるだろう。

 橋渡しが『蛇蝎』というのが何とも面白い話であるが。

「さっさと帰ってこい。そしてどうやってこの局面を読んだか、私に教えてもらうぞ。ふっふっふ、実に楽しみではないか、なあ、皆の衆」

 リディアーヌの笑みを見てダルタニアンらは思う。色々思うところはあれど、やはり『蛇蝎』は必要な人材なのだ、と。リディアーヌによってガイウスの目に留まり、百将を二人も殺した大罪人が第五位にまで駆け上がった。

 彼らの目は正しかったのだ。そしてその時の恩があの男をこの国に繋ぎ止めた。ネーデルクスの情報を流しつつ、アルカディアに別方向からにらみを利かせ、目の届き辛いローレンシア北側の情報をガリアスへともたらした忠義の男。

 その喪失を悔いるのは――

「ストラチェスなら勝てるはず。今度こそ勝つぞ。ふふ、実に楽しみだ」

 もう少し先の話である。


     ○


「なんや、自分も負けたんか」

「……悪かったな」

 薄靄がかった分岐点、そこに蛇が座っていた。

 訪れるはリディアーヌの騎士、ダルタニアン。

 互いにばつの悪そうな顔をしている。

「白騎士やろ?」

「正解だ。陛下の見立ては正しかった。この上なく。ああ、お前も彼をいち早く危険だと動いていたな。口惜しい話だ」

「しゃーないわ。モノがちゃう。僕らは一歩止まり、武力とか知略とか、そーいうのやなくて、もっと、こう、何かがちゃうねん」

「お前でも言語化できないか」

「僕は感覚派やからね。知識は全部後付けや」

「そうだったな。ああ、本当に、長いようで短い時間だったよ」

 蛇はその言葉に苦笑する。

「リディは大丈夫だ。おそらく、これは願望も含まれるが、白騎士は滅ぼす気がないと思う。自分が復活するための布石とはいえ、過剰に人材を育て過ぎた」

「せやね。僕もそう思うわ。たぶん陛下と同じ考えなんやろ。統一よりも並び立って競い合った方が全体は伸びるって話。僕は門外漢やしよぉわからんけど」

「俺もわからん。それはもう王の視点だ」

 ガリアスは負ける。しかし、仮定が正しければ、それほど多くは奪われないだろう。ネーデルクス、エスタード、二つの巨人が手を組んでいる現状。今は内政に苦しんでいる途上だが、アルカディアが多くを喰らえば彼らは一枚岩となる。

 そのまま世界規模の戦いが巻き起こり、誰が生き残るにしても世界は大きく後退することになる。文明は崩れ、文化は途絶え、やり直しの時代が来る。

 きっとあの男はそれを望まない。それゆえ、大丈夫なのだ。

 彼らが愛した明晰なる頭脳は彼の望む世界へ導く重要なパーツとなるはず。ならば、あの男は生かす。生かして後々に活かしてくるはず。

 だから、大丈夫。そう、彼らは祈る。

「お前はリディを待っていたのか?」

「ちゃうよ。ほんの少し腰を落ち着けたかっただけや。自分は?」

「俺は先に行くさ。重荷になる気はない」

「さよか。ほな、自分はそっち、僕はこっち、や」

 蛇が指し示した二つの道。それを見てダルタニアンは顔をしかめる。

「俺とお前に違いがあるとは思わん。お前がそちらなら、俺も同じだ」

「自分、耄碌し過ぎや。僕が何で牢屋にぶち込まれたんか、思い出してみぃ。僕は要らんもん喰い過ぎた。自分と会う前から腹ぱつんぱつんやねん」

「しかし」

「充分や。充分、楽しかったわ。あそこで終わっとったら何も感じんで逝っとったやろうけど、嗚呼、こんだけ満喫したら、あとはのんびり清算するだけや」

 蛇は立ち上がり、ゆっくりとダルタニアンとは別の方向へ向かう。

 同じくらい命を奪った。立場が違っただけ。そう思うも騎士は言葉を飲み込む。これは野暮と言うものなのだろう。蛇の道行きを曇らすだけ。

「ディエース」

「……なんや?」

「お前が死んでリディの奴、泣くほど悔しがっていたぞ」

 蛇は、ふと、立ち止まり、静かに微笑んだ。

「くっく、ほんま、ちっこい嬢ちゃんはおもろいなァ」

 そう言って蛇は去る。闇の中へ。日の下を背に。

 騎士もまた別の道を行く。背中合わせの――道行を。

 同じ願いを胸に、歩む。

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