第29話 解呪法
「急がずともゆっくりでかまいません」
臥台に膝をついた玉鈴は硝子細工に触れるように老婆の体を起こし、血の気の失った唇に水差しを当てた。中身はただの水ではない。
これはれっきとした解呪法の一つである。護符を使用した解呪法は大まかに分けると四つに分類されていた。護符を身につけることを
玉鈴が一番製造に時間のかかる符水を選択したのは帯符では文字を見られでもしたらその時点で効果はなくなり、拭符では傷痕も塞がったことで効果が半減。服符は重篤化した者が自力で灰を飲むことができないと考えたからだ。時間も手間も一番かかる方法ではあるが少量でも効果を十分に得られるように清めた水を使用したので問題はない。
一口分の水を老婆の口の中に流し込む。少しして薄い喉元が小さく上下した。きちんと飲めたのを確認してから水差しに入った残りの符水をゆっくりと飲ませた。
「ええ、そうです。ゆっくり飲んでください」
最後の一口を飲ませ終えた玉鈴は湿った口元を手巾で拭うと老婆の体を褥に横たえ、地面に伏せた男女へと視線を向けた。二人は汗をかきながら床に額をこすりつけた体制をとっている。
「これで大丈夫でしょう。今夜あたり全身が熱い、痛いなど訴えると思いますがそれは薬が病魔に打ち勝っている証拠だと思い、しばらく様子を見てください」
声をかけられた男が恐る恐る顔をあげる。が、金眼を見るとすぐ同じ体制になった。
まるで化け物を見たかのような反応に玉鈴は失敗しましたかね、と思った。昨日のように官服姿で「主人から預かってきました」と言って薬を渡せばよかったのだろうがこの後の所用のため、襦裙姿で来たせいで彼らの恐怖心を煽ってしまった。
——どう言えば緊張は解れるのでしょうか。
どんな言葉をかけても怖がらせる未来しか見えない。困った玉鈴が頬に手を当て、考え込んでいると男が土下座まま喉奥から声を振り絞った。
「あ、あのっ! 柳貴妃様にこのような
「緊張しなくても大丈夫ですよ」
といっても柳貴妃相手にそんなことできるわけもなく、男は土下座のまま動こうとはしない。
これでは会話にならない、と思っていると男の妻が流れるような動作で面を持ち上げた。
「御自らこのような場所に足をお運びいただけたことを深く感謝いたします」
「感謝など……。困った方を助けるのが私の仕事ですから」
「いえ、私共にはなす術もございませんでした。
どうやら奥方の方が肝は座っているらしい。柳貴妃と対面しても物応じせず、きびきびと対応する性格に玉鈴は好感を抱く。
「注意する点は二つあります。
「今の温度は低いのでしょうか?」
房室の隅には暖をとる火鉢が置いてあるが火事にならないように臥台からは遠い位置にある。健康体であれば今の温度でも問題はないが汗とともに体内に残る呪詛を排出させたいのでもう少し暖かくしてもいいだろう。
「衾をもう一枚かけてあげてください。暑すぎると熱中症に罹ってしまいます。時折、体温を確認して注意してくださいね」
「はい。すぐに用意いたします」
すぐさま妻は夫に衾を持ってくるように命じた。緊張気味の夫に粗相をさせないように退出させたいという意図があるようだ。
「淼、ここに」
男が出ていったのを確認してから玉鈴は端に控えていた部下の名を呼ぶ。聡い部下はその一言に全てを察したようで持参した
「こちらは?」
「お薬です。急なことで二十人分しか用意できませんでした。重篤症状の方を優先して飲ませてあげてください」
「こんなに……!」
「追加の分は今用意しています。完成したら彼に持ってこさせます」
「ありがとうぞんじます! すぐに皆に回るようにいたします!」
妻は平伏すると何度も感謝の言葉を述べた。
そこに衾を抱えた男が戻ってきた。話は分かっていないようだが妻の隣で真似をして感謝の意を伝えてくるにで玉鈴は居心地が悪くなる。
「では私は所用がありますので失礼します」
この場を離れたくて女性らしく、柔らかく微笑みながら退出の意を告げた。見送りに向かおうと腰を上げる二人を「お母様のおそばについてあげてください」と止めると玉鈴は淼を伴って外に出る。
新鮮な外の空気を吸い込み、深く息を吐く。衣装と化粧、それと仕草で女性的に見せても不安はなくならない。本来の性別を知る者達は「大丈夫だ」と太鼓判を押してくれるがいつ男とバレたらと思うと不安で仕方がなかった。
とりあえず、これで一つ目の用事は終わりだ。淼に次の指示を出そうとした時、息を弾ませた妻が駆け寄ってきた。
「どうかしましたか?」
老婆になにかあったのだろうか。解呪法は間違えていなかったはずだが、深刻そうなその表情に玉鈴は微かに眉をひそめる。
「お忙しいところ、申し訳ございません」
妻は拱手礼を捧げた。
「柳貴妃様に一つ、尋ねたいことがございます」
「私で分かることでしたらなんなりと聞いてください」
「私共の娘が、妃として——」
そこで妻は口を閉ざした。言葉をぐっと飲み込む。
「……いえ。なんでもございません。失礼しました」
「お母様が早く快くなることを祈っています」
「ありがとうぞんじます」
妻は小さく頷くと踵を返して戻っていく。
落ち込み、沈んだ背中を玉鈴は複雑な眼差しで見つめた。
——貴女の娘は毒殺されました。もう二度と会うことはできません。
そう、伝えられたらどれほど良かっただろうか。
——いえ、彼女は娘が死んだことは分かっている様子でした。
無礼を承知で玉鈴を止めたのは否定して欲しかったからだ。自分の娘は死んでいないと。手紙が届かないのは別に理由からだと。柳貴妃である自分の口からそう言って欲しかった。
けれど、華明凛は死んだ。その事実を隠して「彼女は生きています」なんて伝えれるわけがない。
悶々と悩んでいると淼が「玉鈴様」とかしこまった口調で声をかけてきた。
「私の方から華宝林妃は侍女によって毒を盛られ、亡くなったことをお伝えしましょうか?」
敬語なのは今現在の格好が示す立場を考慮してだ。一端の武官が妃相手に馴れ馴れしく話すのを周囲に聞かれないように、彼はこういった場では低姿勢で接してくる。
「いいえ。言わなくても彼女は知っているようでした」
「使者はまだ遣わされていないはずですが」
「母親の勘というものですね」
第六感というのだろうか。時折、常人では説明がつかないほど感覚が優れている者に出会うが彼女もその一人だったのだろう。
「淼。そろそろ薬が出来上がる頃ですので、貴方はそれを持ってきてください」
「御意の通りに」
淼は軒車へ近付くと扉を開けた。
「……玉鈴様?」
いつまで待っても軒車に乗らない主人に痺れを切らして問いかける。
「すみません。私はもう少しここを散策していきます」
「では、護衛の手配をいたしますので少々お待ちください」
「私一人で大丈夫です」
「それでは後でお迎えにあがります」
さすがに一人残すのは気がかりなのか淼が様子を伺うようにちらちらと視線を送るが、玉鈴の表情に踏み込んでは行けないと察したようだ。軒車に素早く乗り込み、「失礼いたします」と言葉を残した。
御者が手綱をふるい、馬が
玉鈴は軒車が豆粒になるまで見送るとちらりと店影に視線を向けた。
「やっぱり、バレてた」
目深く被る外套のせいで表情は見えない口元に笑みを浮かべた少女が姿を現した。
「柳貴妃様ってやっぱり普通じゃないわね。普通とは違うわ。とても」
「初めまして、というべきでしょうか?」
「あら、白々しい。昨日会ったのに忘れたの?」
「こうして話すのは初めてですよ。ほぼ初対面の方なのに礼儀を欠くことはしたくありません」
「どうせ知っているんでしょう?」
「はい、亜王様からお話は伺っております。私の名は柳玉鈴です。貴女のお名前は?」
玉鈴が
「桃よ」
とぶっきらぼうに名を告げた。
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