自己開示の話
中学時代、美術の授業で「自分を表現するものを作る」ということをした。
最初はでかくて分厚くて白い紙を与えられ、そこに自由に自分の好きなものなどを詰め込んで、自分を表す作品を作るのだ。
私は美術という授業はそこまで好きではなかったが、この作品制作はとても楽しかった覚えがある。自分の好きなものについて思いを巡らせ、どう表現するか考える。自分の好きなものについて考える時間は、当然ながら至福のひと時だった。それにこの時間は、ナルシストになることを大歓迎された時間だった。もちろん、自分の価値観や好きなものが否定されることはない(これは私の中学校の民度の高さのおかげでもある)。
私は普段、自己開示をすること、自分のことを話すことを、あまりしないようにしている。なぜならば、「他人にとってはどうでもいいのではないか」「自分の価値観を拒否されるかもしれない」「うざくないだろうか」などと思うからだ。でも本当は、もっと自分のことも話したいと思っている。もしかしたら私は、自分のことを話さなさ過ぎなのかもしれない。どうでもいいのではないか、うざくないだろうかといったような恐れを過剰に持っているのかもしれない。または、単に自己開示というものが下手なのかもしれない。
そして私が、ブログだのツイッターだのカクヨムだので自分語りをしているのは、普段の反動なのかもしれない。世界の70億人のうち1人でも、それに反応してもらえたら嬉しいものだと願いながら、日々文章を書いている。
突然だが、私の専門分野である社会心理学、文化心理学のとある研究で、東アジア人は北米人よりも自己開示が少ないという話がある。その原理はこうだ。
北米では対人関係選択の自由度が高く、色んな人と出会ったり関係を築いたりする機会が沢山ある。その代わり、対人関係獲得・維持競争も激しいので、自分にとって望ましい対人関係をどんどん作り上げ、維持していく努力が重要となる。そのために人々は、自分の価値を表現すると共に、他者の価値を読み取ることを積極的にしていくのだ。そこで自己開示が必要となる。
一方東アジアでは、対人関係選択の自由度が低く、出会える人は限られており、関係を築く機会にもそこまで恵まれていない。その代わり、既に構築されたコミュニティの中で守られて生きていく。そのような社会環境では、既存の対人関係からの排斥を避け、集団の調和を維持することが重要となる。そのために人々は、集団の調和を乱すと考えられる行動である自己開示をしなくなる。
勘違いされないために言っておくが、このどちらが良いとか悪いとか、そういう話をしているわけではない。また、今は社会でひとくくりにしたが、実際は人間は一人一人違うということも言っておこう。日本人でも自己開示しまくる人もいるだろうし、アメリカ人でも全然自己開示しない人もいるだろう。
つまり言いたいことは、日本人は自己開示を比較的しない人々であって、日本人である私が自己開示をしたくても普段できていないのは当然ではないか?ということを言いたかったのだ。そう。それで当然だから、それでいいのだということ。
そしてここで一つ疑問が湧いてくる。
日本人は自己開示をしたいと思っているがしないのか、それともそんなにその思いはないのか。どっちなのだろう。私は前者なのだが、他の人はどうなのだろう。自己開示をすることについて、他の人がどう思っているのか。それは人それぞれではあるが、その辺について、色んな人の考えをきいてみたいものだ。聞き始めたらキリがないというのは分かっているが…。
そうやってお互いに調整しながら、コミュニケーションは進んでいくと思う。
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