第7話『道標』


目を閉じると直ぐに白い空間が広がった。

私には睡眠中、強制的に別の世界で目を醒まし、そこで時を過ごさなければならないという不思議な習性がある。

その現象が起きるのは幼少の頃からで、眠りに入れば必ずやってくる。

白い世界をしばらく歩けば、周囲に白いドアが浮かび上がってくる。

そのドアの先には現実世界とは全く違う生き物が蔓延っていたり、異なった思想や文化を持つ世界が広がっていたりする。

しばらくその世界に浸っているうちに、私の脳裏にはその世界の常識や生きる術が染み渡ってくる。

まるで、初めからその世界の住人であったかの様に同化していくのだ。


今日は現実世界で仕事の疲れが溜まっていてへとへとだった。

目の前がチカチカして、頭痛が酷かった。

そんな時には、思い切って白い空間に身をゆだねることも一考だ。

命の危険に晒されることも多々あれど、現状としては翌朝には現実に戻って来れている。その変わらぬ事実だけを頼りにベッドへ倒れ込んだのだった。



 ー ー ー ー



真っ白い世界にポツンと佇む。

先ほどまでの頭をぐいぐいと締め付けられていたような痛みは消え失せ、視界もハッキリしている。

深く一息をついた後、前へと歩みを進める。

点々と現れだした白いドアを素通りする。今更迷うことなどないのだが。

過去に何度か試したが、白い世界にドアが現れるとどれかを選ばなければならない。

その先へ行かねば現実世界で私が目醒めることはないのだ。

正面に立ちはだかったドアノブに手を伸ばし、ゆっくりと回す。



掌が一瞬で冷たくなり、冷気が腕を伝ってきた。

ドアの先へと身を投じれば、徐々に白い世界に色が現れ始めた。


私は巨大な山の麓にいた。

その山の山頂は雲の中に隠れて見えなくなっている。


「おいっ」


呼ばれる声がしたのでそちらに向かう。

歩みを進めるに連れて、この世界のことが頭の中に浸透してきた。

声の先には小隊長が居て、これから私は山に入らなければならない。


この世界には崇拝者のようにして皆が目指す霊山がある。

これは、一定の歳に達したときに決まりとして山頂を目指していくというものだ。

しかし、その歳は現実世界でいうところ年齢の数え方とは違う。


我々は、例えば配偶者が居れば、子が居れば、という人生の節目であったり、戦果を挙げて村に貢献することで歳を重ねる民族だ。

だから生きてきた年数が長くても与えられる歳は幼いこともあるし、その逆だってあり得る。歳を重ねているから偉いということもなければ、それによって生活が浮き沈みすることもない。


そんな我らが山を登る所以は、習わしにある。

古くから伝わるものが、山頂に続く道を築いた時、神が降りてくるという教えだ。

これまでに一度でも山頂を目指した登山者は、誰一人として麓へ戻っては来ていない。

しかし、それでも我々は神を麓へとお迎えする道を切り拓かなくてはならない。

皆は山に入ることが誇りになるのだと、その資格を得るために日々励んでいる。

それは、山に道を求めた者たちの恩恵がこの麓に行き渡っているからであって、生と死が余りにも身近な存在だからかもしれない。

この霊山で命を落としたものは、必ず果実をもたらす樹であったり、栄養豊かな野花や草に姿を変え、一度この山へ根差した命が絶えることは決してない。


そんな中で、唯一の例外は私たちのような山守りという使命を背負っている者達だけが山の管理を任され、山道を上り下りしているという点だけだ。

主な仕事は途中で力尽きた者の「見送り」と、山で成っている食べ物などを収穫して麓へと持ち帰ることだ。

ある程度、山の道に詳しくなったところで、この霊山の奥深く、我々の歩みは未だ中腹を超えた辺りまでしか及ばない。

ちなみに、山守りは奇術師の施しによって生まれた時に資格の有無が決められ、自ら手を挙げて名乗り出るなど選択は用意されておらず、選ばれし者とされている。



 ー ー ー ー



小隊長と共に荷物を装備し終わると、今日の登山経路についてもう一度確認を済ませ、それから入山を始める。

山守りは総勢十二名いるが、二人一組で見回りをしている。

山の入り口から直ぐに岐路が幾本もあり、それぞれに人を割り振ればその人数で回すのもやっとだ。

今日はこの道、明日はこの道と決めて入っていくのだが同じ山と思えないほどに自然の移り変わりが激しい。

私が組んでいる小隊長は、数年前に配偶者を森の中で見送ったという話を一度だけ聞かせてくれた。

ほら、この樹だよと言って嫁の変わり身を指さしたのだった。

その時の心境を伺い知ることは出来ないが、その樹の前で立ち止まる小隊長の背中はいつも寂しそうに見えた。

我らは山を登る者たちの犠牲の上に生き永らえている。

そのことをしかと自覚しつつも、その時がくればもう事務的に体が勝手に反応してしまう。


作物を収穫しながらずんずんと山を登る。

そんな中、背中を山道の脇に預けて動かない男が目に入った。

仕事だ。

その男は小隊長の顔を見るなり苦笑いを浮かべて軽く挨拶をした。

昔の顔なじみらしかった。


「選んだ道は想像以上に険しかった。


 もう動けずにこの有様よ。


 途中までは実がなっている木があったり、食べられそうな植物が自生していたんだけどな、そっから先は未開の地。


 いくらか進んだものの、食べ物が尽きて道を戻った」


山守りは入山者の手助けをしてはならない。

山道は複雑な迷路のようになっていて、山守りのように何度も山に分け入った者でなければ到底戻ることはできないだろう。

不思議なことに山を登っているのか下っているのか、それを体の感覚に頼ると解らなくなるのだ。

その為に道標を作り、山守りは山道を歩み進められるのだ。

小隊長がもういいのかと男に確認すると、その男はゆっくりと頷いて一言告げた。


「できれば、香辛料の実が採れる樹がいいなぁ」


小隊長は一本の細く小さな筒を取り出すと、そこから男の頭の上にぽたぽたと雫を垂らし始めた。

男は見る間に肌の色を変え、その形を崩し、水溜りに変わってしまった。

残された衣服を丁寧にたたみ、脇に抱えると、男の残した水溜りに先ほどの筒を近づけた。

筒はつつっと、汁を吸うようにして水溜りから液体を汲み上げた。

辺りに生えていた雑草も一緒に消え、水溜まりが広がっていた範囲には湿り気を帯びた土だけが覗いていた。



 ー ー ー ー




日が傾きかけた帰り道、小隊長が歩みを止めて身を屈めた。

その場所は昼間、あの男を送ったところだった。

剝き出しの地面から、小さな若木が生えている。

今日の「送り」はその男一人だけになりそうだ。




「今日もまた、山が潤ったな」


ちいさな道標を愛でた後、小隊長はまた歩き出した。

その足取りは重そうだった。

時折りすれ違う樹や花の傍で、その誰かの思い出話を、誰に聞かせるでもない声量でつぶやいていた。

いや、もしかするとただの鼻歌だったかもしれない。


収穫した作物がずいぶん重く感じる。

荷が体に食い込み、骨が軋む。

不意に周囲一帯が霞んできて、小隊長の背中も山道も遠のいていくようだった。

担いでいた袋が腕をすり抜け地面に落ちる。

中から桃と柿が零れ落ちて転がった。

その音で振り返った小隊長と目が合った。

口元が動くのに声は出ない。

どうしてだろう。

力が体に入らないのだ。

いつも通りの歩みで近寄ってきた小隊長の手には、あの筒が握られていた。



 ー ー ー ー



目が醒めた。

ベッドの上だ。

天井が今朝はやけに近くて、そして部屋全体もなんだか狭く感じる。

頭痛は治まっていたが、体のだるさはいまいち回復していない。

あの山で、小隊長が嫁の変わり身である樹を前につぶやいた台詞が蘇った。


「いつかはオレもお前も、こうして姿を変える時がくるんだよな。

 別に山頂を目指さなくてもさ、十分な食料は山の中腹までにはあって、こうして今日も麓に持って帰ることができている。


 それでも誰も登るのを止めない。

 不思議だよな。

 誰もこの別れを、徒死したとは言わない。

 どうしてみんな、この山に吸い込まれていくんだろうな。


 …ツマラナイ愚痴を零して悪いんだが。


 なぁ、オレが力尽きるときには、お前が水筒を差し出してくれ。

 必ず。約束だぜ」



窓の外はどんよりと曇っている。

あまり食欲がわかない。

とりあえずコーヒーだけでもと思いドリップをする。

苦みを含んだ雫が、ゆっくりと溜まっていくのを眺めていた。





 ー ー ー ー



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