第610話 過去編 第三章 閑話:初恋
シエルの話を聞いて、ハワードが本気でマリアンヌを思っていることをアークは知った。
ハワードは何回断られても諦めるつもりはないらしい。
(家柄的には問題ない。後妻だが、相手が伯爵家なら問題はないだろう)
マリアンヌにいろいろ教わったので、アークは貴族社会にもそれなりに詳しい。
シエルより少し年上のアークは、マリアンヌが庭で始めた教室の最初の頃の生徒だ。マリアンヌから直接、読み書きを習う。
アークは覚えがよく、機転も利いた。そこをマリアンヌに気に入られる。他の子は習わないマナーや貴族社会についても教わった。
アークが跡継ぎではないことを知ったマリアンヌは、将来、ランスロー家の使用人として雇うことを視野に入れる。貴族の家でも働けるだけの教養をアークに付けさせた。
おかげで、アークの人生は大きく変わった。だだの農民だったら、貴族のパーティなんて垣間見ることさえ出来なかった。
もっとも、いい思いばかりしているわけではない。相手は貴族だ。平民のことなんて、気にしない。何をしてもいい相手、くらいにしか思っていなかった。
だからパーティに従者として付き添うときには十分過ぎるほど注意する。問題を起さないよう、細心の注意を払った。
客としてではなく従者として参加しているので、基本的には貴族はこちらを気にしない。存在さえ認識されていないのはそういう意味では幸いだ。
そんなアークの初恋はマリアンヌだ。
総じて綺麗な顔立ちをしている貴族の中ではわりと普通でも、はたから見ればマリアンヌもそれなりに美人だ。
優しく、さばさばした性格のマリアンヌは子供達から人気が高い。たぶん、あの教室に通っていた子の大部分は、マリアンヌが初恋だろう。
だが、叶わない恋なのもみんなわかっていた。
歴然とした身分差がこの国には存在する。
貴族にとっては最下位の男爵家でも、貴族は貴族だ。ランスロー領の領主一族で、気安く言葉を交わしていても、気安くしていい相手では決してない。
今の領主一家は領民を大切にしてくれた。領民達のための領地経営をしてくれる。だがそれはとても珍しいことであることをみんな知っていた。
たいていの領主は領民を自分の言いなりになる人間という程度にしか考えていない。平民が貴族に逆らうことはほとんどなく、逆らえば罰せられるのが普通だ。
だからたいていの領民は貴族を敬遠する。関わらないのが一番だ。場所によっては、貴族が気に入った領民を連れ去って自分のものにするなんていう横暴がまかり通る場所もあるらしい。
ランスロー領に住む領民達は、自分達が恵まれていることを理解していた。
平民である自分がマリアンヌとどうこうなるなんてアークは考えていない。
ただ、側に居られて役に立てれば十分だ。
幸い、マリアンヌに嫁に行くつもりはないらしい。
屋敷の近くに畑と小屋を持っていて、将来はその小屋で一人で暮らすつもりのようだ。
そこはアークの家からも近い。今よりもっと手助けできることは増えるだろう。
その日をアークは心密かに楽しみにしていた。
だが、姉が大好き過ぎるシエルは、なんだかんだいってマリアンヌが家を出ることに納得していない。
表立って反対はしていないが、裏からいろいろと画策しているのは知っていた。
とりあえず、自分の結婚は先延ばしにしている。
自分が結婚しなければ、マリアンヌが家を出る必要はないという考えだ。
もちろん、それが一時しのぎであることをシエルは十分に理解していた。
時間を稼いでいる間に、なんとかしようという算段だ。
「ハワードが本気すぎて、不味い。父様は最近、ほだされてきている気がする」
シエルはぼやいた。
何度も結婚を申し込むハワードに、男爵は心が動きかけている。そこまで思ってくれるなら……と父親が考える気持ちをアークもわからないではなかった。
「好きな時に会えない場所に嫁がれるなら、あの小屋で暮らしてくれるほうがまだマシだ」
シエルは呟く。
「だが、伯爵様は良さそうな人だ。後妻でも、彼に嫁げばマリアンヌ様は幸せになれるんじゃないか?」
マリアンヌの幸せを考えて、アークはそう言った。
「それでも嫌だ」
シエルは子供みたいなことを言う。
マリアンヌに溺愛されて育ったシエルはちょっとお子様だ。大人になりきれていないところがある。
本人もそれは自覚しているが、改めるつもりはさらさらない。
そんな子供のところをマリアンヌが心配して、いろいろと手をかけてくれるからだ。
マリアンヌに構って欲しいシエルは甘えている。
「伯爵家に嫁がせるなら、アークと結婚する方がマシだ」
そんなことを言った。
「まあ、それはありえないけど」
ちらりとアークの顔を見てから、否定する。
最近、シエルはこういう物言いをするようになった。アークの恋心はばれているのだろう。その上で、気持ちがどの程度のものか探っているのかもしれない。
「わかっているよ」
アークは一言、そう答えた。
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