第609話 過去編 第三章 閑話:足りない時間(後編)
マリアンヌは正式に社交界にデビューさえしなかった。
16歳の時にはもう、シエルを育てるために嫁にはいかないと決めている。それでも、父はデビューだけでもと勧めた。父親として、娘の将来を心配する。マリアンヌと違い、父は娘の結婚を諦めてはいなかった。いつか、その気になった時に困るのではないかと心配する。
だが、マリアンヌは意外と頑固だ。
必要ないの一点張りで、結局、父の方が折れた。
正式にデビューさえしなかったこともあって、この辺りの社交界でマリアンヌのことを覚えている人は少ない。小さな頃、パーティで顔を合わせていたごく一部の人だけがかろうじてマリアンヌを知っていた。
そんな人たちでも、たいていはぼんやりした印象しか持っていない。
もう十年以上前の話だし、マリアンヌは印象に残るような美人ではなかった。それなりに可愛かったが、わりと普通だ。その上、積極的に社交していたわけでもない。
だがただ一人、ハワードだけはシエルに会うたびにマリアンヌのことを聞いてきた。
伯爵家の嫡男がずっと格下の男爵家の嫡男にわざわざ話しかけてくる。
「マリアンヌは元気にしている?」
いつものように問われて、シエルは苦笑いを浮かべた。
「いつもお気遣い、ありがとうございます」
少しの嫌味を込めて、返事をする。
「相変わらず元気です」
そう続けた。
「それは良かった」
ハワードは微笑む。
「マリアンヌが興味を持ちそうな珍しい本が手に入ったので、今度ぜひ、2人で遊びに来てくれ」
シエルを誘った。
「伝えておきます」
シエルは約束したが、伝えるつもりなんてさらさらない。
ハワードはどういうわけか、マリアンヌを狙っていた。
ハワードが離婚したのは結構前の話だ。生んだ子供を置いて、妻が出て行ったらしい。彼女は実家に戻らす、別の男と王都で暮らしているそうだ。状況だけ聞くと間男と逃げたように聞こえるが、旅費や当面の生活費を都合したのはハワードらしいので、逃げられたという表現は違うのだろう。
だが、ハワードの面子が潰れたのは確かだ。伯爵家なら直ぐに再婚相手が決まりそうなのに、そうならなかったはそういう事情があるからかもしれない。みんな、ほとぼりが冷めるのを待っていた。
そして離婚から5年程経った頃、ハワードからマリアンヌを嫁に欲しいという申し込みが来た。父はもちろん、シエルも驚く。マリアンヌのことを気にかけているのは知っていたが、そういう意味だったのかと初めて気づいた。
シエルは反対する。父は悩んだようだが、断った。
マリアンヌ本人に嫁ぐ意思がないのでどうしようもなかった。
だがハワードは諦めない。
その後も何度か、そろそろマリアンヌも嫁ぐ気になったのではないかと結婚の申込をしてくる。
父は絆されかけていた。
「君ももう直ぐ16歳だ。マリアンヌの子育てもそろそろ終わりじゃないかな?」
シエルに伝言を伝える気なんてさらさらないことを知っているハワードはにこやかに牽制する。
シエルがシスコンなのは有名だ。姉の陰口を叩いた相手をシエルは許さない。あの手この手で潰した。
それをハワードも知っている。
知った上で、マリアンヌを手放せと迫った。
「どうでしょう? 姉さんは僕にべったりですから。僕が結婚するまでは無理かもしれません」
シエルはしれっととぼける。
「じゃあ早く結婚しないとね。男爵も跡継ぎが早く結婚した方が安心だろう?」
ハワードはにこやかに笑った。
「なんなら、いい相手を紹介するよ。一度、条件を伺いにそちらに足を運ぼうかな。大切な弟の嫁なんだから、マリアンヌにもいろいろ希望があるだろう?」
強引にマリアンヌに会おうとする。
そういう理由なら、きっとマリアンヌは断らないだろう。
(不味い)
シエルは焦った。
「結構です」
強めに断る。
「私はもうしばらく、自由を謳歌したいので」
結婚する気はさらさらないと告げた。
「しかし……」
ハワードは食い下がろうとする。
だがそれをアークが遮った。
「失礼します。先ほどから、家令の方がハワード様をお探しのようですが」
少し離れた場所でうろうろしている執事を指し示す。
「……ああ、そうだね」
ハワードは頷いた。
「では、この話はまた今度」
そう言って戻って行く。
(今度なんてない)
シエルは心の中で毒づいた。
「助かったよ、アーク」
シエルはほっと息を吐く。
「あの人、マリアンヌ様に気があるのか?」
アークは尋ねた。
「そうみたいだね」
シエルは頷く。
「実は何回も結婚の申込がきている」
嫌そうに顔をしかめた。
「悪い人には見えないが……」
アークは呟く。
「悪い人ではないけど、嫌だ」
シエルは子供みたいに駄々を捏ねた。マリアンヌは自分だけのものでいて欲しい。
アークはそんなシエルに何も言わなかった。
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