第51話 第二部 第四章 5 噛み跡





 翌朝、誰より早く起きてわたしは畑に向かった。


 今日は寝坊もすることなく、ちゃんと目覚める。


 気分が良かった。


 一人なのがとても気楽でいい。


 久しぶりにのんびりした気分になっていた。


 農作業にも精が出る。




(はーっ。落ち着く)




 久々に日常が戻ってきた気がした。


 機嫌よく野菜を収穫していると、アークがジェームズおじいさんと一緒に通りかかる。




「おはよう」




 わたしの方から声をかけた。


 留守の間、畑の世話をしてくれた礼を言う。


 するとジェームズおじさんからは祝いの言葉が返ってきた。


 婚約を知っている。




「アークが話したの?」




 わたしが驚いて尋ねると、いいやとアークは首を横に振った。


 お妃様レースの結果はわたしたちが帰ってくる前にすでに伝わっていたらしい。


 わたしたちが王都を出たのはレースが終わってから三日も過ぎてからなので、よく考えると当然かもしれない。




「マリアンヌ様が王子様と結婚なさるなんて、長生きしてよかった」




 涙ぐまれて、驚く。


 誰も口には出さなかったが、わたしはいろんな人にかなり心配されていたらしい。




(わたしが行き遅れていたことがみんなの心の負担になっていたなんて)




 申し訳なくなった。


 当の本人が全く気にしていなかったので、周りがそんなに気にしているなんて気づかなかった。




「わたしがいつまでも結婚せずにいることでみんなを心配させてしまったのね」




 わたしが反省すると、ジェームズおじいさんは違うと首を横に振った。




「マリアンヌ様が一人で生きて行くと決めたならそれはそれでいいんです。わしらは精一杯お仕えしてマリアンヌ様をお守りしますから。でも王子様と結婚して、将来、この国の王妃様になってくださるなら、こんなに嬉しいことはありません」




 国は安泰だと喜ばれる。


 予想外の言葉にわたしは目を丸くした。


 話が思いもしない方向へ向かっている。


 そんな期待をされているとは考えてもいなかった。




(いやいや、そんな。わたしはその他大勢の一人ですから。そんなにハードルを上げられても……)




 心の中で青ざめる。


 無理ですと否定した。




「王子様とは結婚するけど、夫が王様になるとは限らないのよ」




 王子は三人いる。


 いまのところ、後継ぎは決まっていなかった。


 わたしは先走るジェームズおじいさんを止める。




「そもそも、今の国王様はすごくお元気だから。退位するのはまだまだずっと先の話でしょうね」




 落ち着いてと宥めた。




「それに、結婚したから一生別れないという保証もどこにも無いのよ。もしかしたら、離婚してここに出戻ってくるかもしれない。そのことで実は二人に相談があるの」




 ちょうどいいと思って、わたしは話を切り出した。




「マリー様?」




 アークがとても心配そうな顔をする。


 何かあるのかと疑った。




(何もないです。むしろ、愛が重いくらいです。若干、貞操の危機なんてものを感じています)




 わたしは心の中で否定する。




「万が一の話よ。今、ラインハルト様と仲が悪いとかそういうことはないから」




 アークを安心させようとした。




「そうですか? それなら、いいんですけど」




 アークは安堵を顔に浮かべる。


 わたしはこの畑と作業小屋の管理をアークに任せたいと頼んだ。


 畑をどうするか、私はずっと迷っていた。


 せっかく耕した畑を放置するのは忍びない。


 だが売るつもりもなかった。


 ここを売ってしまったら、何かあった時にわたしに戻れる場所がなくなる気がする。


 実際には、例え離婚することになっても父もシエルも何も言わずに迎えてくれるだろう。


 心配する必要はないのはわかっていた。


 それでも、この畑はわたしの自立する意思の表れだ。


 この畑がある限り、わたしは頑張れる。




「畑と小屋は荒れなければ、アークの好きにしてもらっていいの。採れた作物ももちろん、アークのものよ。アークはただ、小屋と畑を守ってくれればいい」




 わたしはアークを見つめた。




「オレでいいなら、いいですよ」




 アークは引き受けてくれる。




「ジェームズおじいさんもいい?」




 わたしはおじいさんの顔を見た。




「アークが引き受けるというなら、わしに文句はねぇですだ」




 頷いてくれる。




「ありがとう」




 わたしは礼を言った。




「ついでにもう一つ、アークにお願いしたいことがあるんだけど。アークは今日、一日中ずっと忙しいのかしら?」




 マルクスのことを頼みたくて、聞いた。




「いいえ。昼過ぎには仕事が終わりますよ」




 アークは答える。




「実は農業にとても興味がある貴族がいてね。自分で農作業を体験してみたいそうなの。どこか邪魔にならない場所で体験させてあげることは出来ないかしら? 場所がなければ、この畑を使ってもいいのだけれど」




 わたしの頼みにアークはなんとも不思議な顔をした。




「そんな変わった貴族、マリー様の他にいるんですか?」




 さりげなくわたしも変わった中に入れられてしまったが、自覚があるので突っ込まない。




「いるのよ」




 ただ頷いた。




「何をしたいのかにもよりますけど、その貴族様はどんなことをしてみたいんですか?」




 問われて、返事に困る。


 そんな話はしていなかった。




「何でも珍しいみたいだから何をやっても喜ぶと思うけど。何がしたいのかは案内した時にわたしが聞くから、その時に一緒に相談してもいいかしら?」




 わたしはアークに提案する。




「マリー様が一緒なら大丈夫だと思うので、いいですよ」




 引き受けてくれた。


 アークがいい子すぎてわたしは感動する。


 とても誉めたいが、それをアークか喜んでくれるかどうかわからないので止めておいた。


 わたしなら、自分が好きな人にいい子だと誉められたら、微妙な気持ちになる。




「じゃあ昼過ぎ、仕事が終わったら来てもらえる? 良かったら一緒にお昼も食べない?」




 ふと思いついて、誘った。


 少しでも打ち解けた後の方がいろいろとやりやすいだろう。


 アークはちらりとジェームズおじいさんを見た。


 許しを請う。


 ジェームズおじいさんは少し困った顔で頷いた。


 アークが貴族と関わりすぎることを少し心配している。


 それは尤もなので、わたしは申し訳なく思った。




「いつもいつもアークに頼ってばかりでごめんなさい」




 ジェームズおじいさんに謝る。




「いいんですよ、マリアンヌ様」




 ジェームズおじいさんは優しく微笑んでくれた。


 わたしは自分たちの畑に向かう二人の姿を見えなくなるまで見送る。


 それから小屋の方を窺った。




「立ち聞きは趣味が悪いと思いますよ。ラインハルト様」




 呼びかける。




「気づいていましたか」




 ラインハルトは悪びれた様子も見せず、小屋の陰から出てきた。




「どうしているんですか?」




 わたしは尋ねる。




「早朝、誰よりも早く起きて自分の畑に通うのが日課だと、話してくれたのは貴女でしょう?」




 そう言われて、フローレンスの時にそんな話をしたことを思い出した。




「覚えていたんですね」




 わたしは苦く笑う。




「ええ。もちろん。ところで、ちょっと聞き捨てならない言葉が聞こえた気がしたんですが、じっくり、小屋の中で話を窺ってよろしいですか?」




 爽やかな笑顔で問われた。




(よろしくないです)




 わたしは心の中で断る。


 悪い予感しかしなかった。




「断ることは……」


「できませんね」




 くい気味にラインハルトの声が否定する。




「……はい」




 わたしは頷いた。














 わたしの作業小屋は基本的にわたししか使う予定がないのに、たいていが一人分しかない。


 ラインハルトは一つしかない椅子に座ると、トントンと自分の膝を叩いた。




「?」




 わたしが不思議そうに首を傾げると、口の端を上げる。




「座ってください」




 自分の足に座れと言った。




「いえいえ。淑女としてちょっとそれは」




 わたしはお断りする。




「マリアンヌは自分が淑女だと思っているのですか?」




 ラインハルトは痛いところをついてきた。




(しれっと失礼なこと言いますね)




 わたしは口を尖らせたが、淑女だと思っていないのは事実だ。




「思っていません」




 答える。


 ラインハルトは満足そうに笑った。


 もう一度、膝を叩く。




「どう座ればいいんですか?」




 仕方なく尋ねた。




「そうですね。太股に座って、私の足の間に足を下ろしてください」




 ラインハルトにしがみついていないと安定しそうに無い体勢をリクエストされる。




(わざとですよね)




 何も聞かずに勝手に座ればよかったと少し後悔した。




(でも自分から座るのもノリノリな感じがなんか嫌だったのよね)




 小さくため息をつく。




「わたし、作業着ですがいいんですか?」




 確認した。




「いいですよ」




 頷かれて、ラインハルトの希望通りに足に座る。


 しれっと腰に手を回して抱えられた。


 身体が必然的に密着する。




「近いっ」




 逃げようとしたら、逆に引き寄せられた。




「……」




 わたしは渋い顔をする。




「なんかわたし、ラインハルト様に甘くないですか? ちょっと言うことを聞きすぎな気がしてきました」




 文句を言うと、反論が返ってきた。




「マリアンヌが私の思うとおりに動いてくれたことなんて、ありました?」




 問われて、返事に詰まる。


 考えてみるとほとんどない。


 むしろ、言われたことの反対のことばかりしてきた気がした。


 そんなわたしのどこがいいのだろうと、自分でも不思議に思う。




「……」




 黙りこむしかなった。




「自覚はあるようでなによりです」




 ラインハルトは苦く笑う。




「それより、離婚に備えて準備をしておくというさっきの話をしましょうか」




 にこやかに切り出された。




「離婚するつもりがあるわけじゃないですよ。ただわたしは小心者なので、保険は二重、三重にかけておきたいだけなのです」




 説明する。


 その言葉に嘘はなかった。




「結婚前から離婚の準備をされる私って可哀想じゃないですか?」




 真面目な顔でラインハルトは質問する。




「……そうですね」




 わたしは頷くしかなかった。


 それを言われると反論のしようがない。




「すいません」




 謝った。




「……」




 ラインハルトはただ悲しい顔をする。


 それは絶大な力を持っていた。


 王子様の憂い顔はある種の凶器だ。


 良心がズキズキ痛む。




「本当にごめんなさい。でも、畑は決めたとおりにアークに管理してもらうつもりです。この畑はわたしがわたしであるための証明だから、手放すことも荒らしておくこともできません」




 そっと手を伸ばして、ラインハルトの頬に触れた。


 優しく撫でる。




「わたしを懐柔する気ですか?」




 ラインハルトは問うた。


 ふるっとわたしは首を横に振る。




「そういう、女を武器にするような真似は一番嫌いです」




 答えた。


 ラインハルトはふっと笑う。




「いいですよ。懐柔されますから、自分からキスしてください。今度は唇にちゃんと」




 強請られて、迷った。


 でも結局、わたしは自分からキスをする。


 ラインハルトの顔を両手で挟み、自分から唇を重ねた。


 口を開けるとラインハルトの舌が入ってくる。


 わたしは自分からそれに自分の舌を絡めた。


 濃厚なキスに意識がぼーっとしてくる。


 どさくさに紛れて、ラインハルトは胸を揉んできた。


 ビクッとわたしは身体を震わせる。


 ラインハルトの手を掴んで、止めた。




「さすがにそれはやりすぎです」




 注意する。




「清く正しい付き合いなんて、存在しませんよ」




 ラインハルトは反論した。




「それでも、爛れすぎです」




 わたしはいやいやと首を横に振る。




「それでは一つ、いいことを教えてあげましょう。その代わり、もう少しキスをさせてください」




 ラインハルトは交換条件を出してきた。




「いいこと?」




 わたしは首を傾げる。




「今日の昼から、私とルイスは出かけことになりました。近くの貴族の家で私を歓迎してパーティを開いてくれるそうです」




 露骨に嫌そうな顔でラインハルトは告げた。


 出席したくないのだろう。


 だが、自分の立場を考えて断らなかったようだ。




「王子様って大変ですね」




 わたしは同情する。


 そして招待されたのが二人だけなのか確認した。




「マルクス兄さんは呼ばれていません。なので、思う存分畑で遊ばせてあげてください」




 私の質問の意図がわかったようで、ラインハルトはそんなことを言った。




「私のことも気にしなくていいし、いいお知らせでしょう? 今夜は帰れないかもしれませんが」




 拗ねた顔をする。




「ラインハルト様」




 わたしは苦く笑った。


 優しく頬に触れる。




「どうしたら機嫌を直してくれますか?」




 尋ねた。


 考えてもわからないから、聞くしかない。




「……そうですね」




 ラインハルトは考える。




「噛んでいいですか?」




 予想の斜め上の言葉が返ってきた。




「はい?」




 わたしは首を傾げる。




「私に貴女の跡が欲しいし、私も貴女に跡を残したいのです」




 内容はともかく、ラインハルトはいたって真面目な顔で答えた。


 どうやら、本気らしい。




(噛み跡って……)




 わたしはちょっと引いた。


 だが帰れないかもしれないということは、そういう何かを予想しているのかもしれない。


 マーキングが欲しいという意味だと理解した。




「……どこを噛めばいいんですか?」




 わたしは尋ねた。


 迷ったが、その提案に乗る。


 わたしもラインハルトが他の女と云々というのは面白くない。


 それで牽制になるならいいかもしれないと思ってしまった。




「そうですね」




 ラインハルトは首元を広げる。




「鎖骨にでも」




 形の良い鎖骨を見せられる。


 王子様は身体も綺麗だ。




「噛んだら痛いですよ?」




 わたしは眉をしかめる。


 噛み跡をつけるのが忍びなかった。




「痛くていいんです」




 ラインハルトは頷く。


 わたしは少し躊躇ったが、結局、ラインハルトの鎖骨に噛み付いた。


 跡を残す。


 それに手で触れて、ラインハルトは満足な顔をした。




「じゃあ、今度は私が」




 ラインハルトの言葉に、わたしはボタンを外して鎖骨を見せる。


 だがもう少し下がいいとラインハルトに強請られた。


 乳房に噛み付きたいと言われる。




「え~……」




 わたしは引いた。




「どうせ噛むなら、柔らかいところがいいです」




 理由になるのかならないのか微妙なことをラインハルトは言う。


 上目遣いにわたしを見た。


 その目にわたしは弱い。




(美人って得だな)




 ずるいと思った。




「……いいですよ」




 わたしは頷く。


 もう二つボタンを外した。


 胸が少し見える。


 そこにラインハルトは顔を寄せた。




「んっ」




 ちりっとした痛みが走り、わたしは顔をしかめる。


 綺麗な歯型が残った。


 それを見て、ラインハルトは満足な顔をする。




「ラインハルト様って実は妙な性癖をお持ちとかじゃないですよね? わたし、痛いのは嫌いですよ」




 若干引きながら、牽制する。




「大丈夫です。跡を残したいなんて思ったの、初めてですから」




 あまり大丈夫ではないことを言われた気もするが、そこは追求しないことにした。






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