情報過多精神的瑕疵物件 4

煙草の煙が車内を満たしていく。

火のついた先が揺れている。

吸ってはいない。あくまでも咥えているだけの青紫色の煙。

「ねえねえ、うちの阿呆弟が同居なんてして迷惑かけてない?もし気に入らない事があれば尻を叩いていいからね!」

そもそも同居なんて嘘っぱちだから。

かおり姉なら分かるだろ。

「ずっと思ってたけどさ、その煙草なんか良い香りするね。バニラっぽい甘い香り。私、好きだなぁ」

目を閉じてすうっと胸を膨らまして、かおり姉は大きく煙を吸い込み。

はぁっ……と腹から吐き出した顔は惚けていた。

 相対する篠崎さんの口から煙草が落ちた。

ゆっくりとこちらに顔を向けて、何か言いたげに唇が震えている。

ルームミラー越しではよく見えない。体を捻って後ろを振り向く。

 はっきりと異常事態だと分かった。

篠崎さんは隣に座るかおり姉から少しでも離れようと肩をドアの方へ捻っていた。

話し掛けられれば目を瞑って震えている。

例えようのない恐ろしいものに怯える子供のように、小さく縮こまる篠崎さんは初めて見た。

それが言い様のない恐怖の呼び水となった。

 静かにタクシーが停まった。窓の外には木造のアパートが建っていた。

前向きに考えれば木目を活かしているといえるが、防腐の塗装も碌にされていない朽ちかけたアパート。

部屋は四つ。二階建て。

名古屋の都会から少し走れば、夕方頃に屋台ラーメンが吹かすチャルメラが似合うアパートがあったとは。

フリーターだった時は名古屋とその周辺はよく自転車を漕いでいたから、こんなレトロで創作の種に化けそうな建物を見かけていたら間違いなく記憶にあるのだが。

 入居者が殆どいなさそうだ。カーテンが掛かった部屋は右端の上と下の角部屋しかない。

なんだってこんなアパートに来たのか?

車から降りた篠崎さんは、あからさまにかおり姉と距離を保っている。

かおり姉の方は青空を眺めて楽しそうだ。蝶が横切れば追いかけていきそうな楽しい事で一杯の目をしていた。

「あの、篠崎さん。ここは一体……?」

これが返事と言わんばかりにアパートの正面へ向かって歩き、一言も発しないのはいつもどおりで。

さっきまでの異常事態は解決したのだと安堵した。

「わー!すっごくレトロ!」

そういえば、かおり姉はレトロ好きだったな。

少しずつ思い出してきた。

 備え付けの外階段も白のペンキが所々で剥離して鉄板は錆が浮いていた。

 昇って直ぐの部屋。ドアノブまで厚めに空色に塗られた扉。

 背後に広がる青空と目の前の青空。

太陽が照らす本当の空と扉に描かれた偽物の狭間に僕達は立っている。

カチャカチャと金属が擦れる音が篠崎さんの手元から響く。

鍵がうまく嵌らないようだ。

「凄い!空色の扉ってなんかレトロでお洒落!」

レトロにお洒落ときたか。

まだ後ろで何か言ってうるさいかおり姉をたしなめようと振り返り、喉と肺を万力の力で握られたように痛くなった。一呼吸もできない。声が枯渇した。

 かおり姉の顔がない。正確には全身がかおり姉の形をした黒い影。

「そっちを見るな!」

篠崎さんの声は遠くて微かなものだった。

「他の扉もそうなのかなぁ?」

かおり姉の声を発する物体が横を向いた。

それには厚みが無かった。


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