第9話  お宝本

音沢 おと

第9話  お宝本

                                音沢 おと



「こんなにあるんだし、どうやって片づけよう?」

 雪子は、天井までびっしりと詰まった本棚を見上げながら、ため息をついた。

「お母さん、もう業者、呼べば?」

 美沙はすでに片づけを放棄し始めたのか、近づくこともない。

 雪子の実家の父、石田広重の葬儀から一カ月。

 儀式や手続きが、慌ただしく過ぎ去った後には、まだまだ遺品整理があった。

 こいつは、なかなか難しい。

 何しろ、空き家になっているのだ。

 一人娘の雪子がやらなければ。母は亡くなっているし、夫の修一は仕事で忙しい。

 孫である美沙は、まるで興味も持っていないようだ。

「なんか、埃っぽくない? 私、埃アレルギーあるんだよね。喉も乾いた」

 高校一年の美沙は本を読まない。

 本よりもスマホゲームばかりしている。

 かつての文豪の名前も、教科書などより先に、ゲームで知ったらしい。なんともイケメンなイラストに仕上がった、細身で病弱な作家たちしか知らない。アイドル系の顔立ちである。 

 そんなイケメンなら、人生に悩んだ小説なんて書かないよ。

 雪子は悪態をつきたくなる。

 だが、美沙はその萌え系小説家ゲームなど、とうに飽きて、今は謎解きゲームに夢中になっている。

「いちいち片づけしたら、夏休み完全に終わるよ。業者、業者。フリマもこんなにも多かったら、送るの面倒すぎるし」

 美沙は、はい終わりといわんばかりに、雪子の父の書斎の扉を開けて、出て行こうとする。

「ねえ業者って?」

 キッチンに逃げ込もうとする美沙を、雪子が止める。

「古本屋みたいなとこ。こんだけあれば、自宅まで取りにきてくれるよ。だけど、高齢者の蔵書は噂では、いくらにもなんないって」

「そお?」

「だって、いわゆるチェーン店だったら、新刊の人気本しか、高く買い取ってくれないし。他はコミックとかさ。本当に神保町みたいな専門の古書店に買い取ってもらえるお宝本なんて、ただの本好きの高齢者の蔵書にはないでしょ」

 美沙の言葉に、少し苛立ちを覚えたが、我慢した。

 ここで言い争えば、また時間がかかる。

「調べたの?」

「そんなの、スマホですぐだよ」

 美沙は、なんでもスマホで検索する。

 雪子からしたら、そのスピードは驚異的だ。

 ただ美沙は、その知識はあくまでも一時的で、蓄積すべきものとも思っていない。

 知識は検索すればいい。頭になくていい。

 雪子は、美沙の素早い指先の動きを見て、ため息をつく。

 スマホなんて、なくなってしまえ。ほら、ドラえもんに何かを消滅させるような道具あったはずだ。

 そう、子どもじみたことを思ってみるが、美沙にはどこ吹く風だ。

 現に、今もスマホをいじっている。

 ……ただの本好きの高齢者。

 美沙からの言葉を頭の中で繰り返す。

 自分の亡くなった父をそう言い切られて、複雑な気がした。

 父は無類の本好きだった。

 若い頃、作家をめざしたこともあると、一度だけ聞いたことがある。

 どんなものを書いたのか、実際は書いていないのかも知らない。

 好きだった本は文学で、教科書に載っていたような小説が多かった。

 天井までの背の高い本棚を見ると、夏目漱石、太宰治、芥川龍之介、阿部公房などがある。他にも、随筆があり、全集がある。全集だけは、順番通りだが、そのほかは、もう作家別とか、サイズ別はまるで関係なく、詰め込まれている。

「ねえ、隣の市に、引き取り業者いるよ。二百冊からオーケーだって。査定してくれるらしいよ」

 美沙はざっと本棚を見回した。壁一面の本。

「これさ、千とか、二千とか、もしかしたらもっとじゃない」

「それどころか、他の部屋にもたくさん遺してるよ」

「あーそうか。お祖父ちゃんの寝室にも、本棚あったっけ」

「そうそう、母が生きていたとき、ずいぶん嫌がっていたけどね。寝ているときに地震がきたら、本棚の下敷きになって死ぬからって」

「お祖父ちゃんさ、危機管理なってなかったよね」

 美沙に言われて、心がもやっとした。

「でも、お祖父ちゃんは、本に潰されて死ぬならも本望だ、と言ってたわよ」

「ほんもう? なんか、しゃれ?」

「違う」

「本に潰されて死ぬなら、ほんもう」

 美沙は繰り返した。スマホをいじる。

「ああ、ほんもうって、本来の望みってことね。ふーん」

 本当に知らなかったのかと、雪子は目を見開く。

「お祖父ちゃん、本当に、本が好きだったんだから」

 美沙はスマホ画面から、顔を上げて本棚を見た。

「あれ、おんなじ本ある」

 本棚の右の端に「こころ」があり、その下の棚にも見つけた。

 美沙は、あーあ、と声を上げる。

「そういえばさ、夏休みの国語の宿題、『こころ』だったんだよね。教科書に一部だけ載っていたから、残りあと全部読んでくることって。まだ、買ってもないんだよね」

 棚にある「こころ」は、背表紙が黄ばんでいる。

「帰りに、本屋、行ったら?」

 雪子が提案する。

「うん、お金だして」

「本なら、いいわよ、漫画は小遣いでね。そういえば、お祖父ちゃん本が多すぎて、読み返したいとき探せなくて、また買っちゃったんだよ。中には三冊あるのもある」


 雪子は思い出す。

 雪子が高校二年、今の美沙と変わらない頃のことだった。

 同じように、「こころ」の課題が出た。

 本好きの父なら詳しいと思い聞くと、家にあると言って出してくれた。

「えー、なんか古い」

 表紙が少し黄ばんだ文庫を、雪子は躊躇った。

「古かろうが、内容は同じだ。家にあるんだから、買わないでよろしい」

 当時でも、同じ本を何冊も買ってしまう父の言い分には納得が出来なかったが、家では甚平を着て、偏屈な父には、雪子に反論をさせない雰囲気があった。

 父からもらった本は古かった。読みにくくて、先生ったら、なんでこんな面倒な小説を課題にしたのだと憤慨し、夏休み一杯かかって読み切った。

 九月になって授業に持っていき、クラスで読み合わせをしたときのことだ。

 順番に当たって、皆、すらすらと読んでいく。

 自分の番になった。雪子はつっかえ、つっかえで、クラスメートたちに笑われた。

 後で分かった。

 皆が書店で購入した「こころ」はただ新しいだけでなく、字も違っていたのだ。

 古い、父の若き時代の本は、表紙が黄ばんでいただけではなく、旧かなだった。

 だから、あんなにも読みにくかったのだ。

「お父さん、これ、私だけ違った。私だけ上手く読めなくて、笑われた。皆の本は、現代の字なのに、私だけだよ、よく分からない昔の字」

 雪子は珍しく父に抗議した。

 父はそんな雪子をじっと見つめた。怒鳴られるかと思った。

 だが、一文字だった父の口が少しだけ緩んだかと思うと、「そうかい」とだけ言った。


「こころ」を手に取る。

 右からの一冊、左下の二冊目、どっちも古い。あれから、さらに三十年くらい経つ。

「うわっ、お母さん、それ破壊しそう」

 後ろから美沙が覗く。

 くしゅん。

 くしゃみが聞こえた。

「やだやだ。埃アレルギー出るじゃん。くしゅん」

「ああ、悪い」

 雪子は、二冊の「こころ」を棚に並べて押し込む。

「向こうにいくよ」

 美沙がそう言いながら、「あっ」と声を上げた。

「何?」

「三冊目、見つけた」

 美沙は、隣の棚のガラス戸を指さす。ガラスの扉のある本棚には、綺麗に本が収まっていた。見ると、そこには紙箱に入った本がある。豪華な装丁本だ。

 そう言えば、昔の作家の初版本もあるって言っていたっけ。

「ここの本棚のは売れそうだね。保管されているって感じだし。もしかしたら、お宝本じゃない?」

 美沙は鼻をぐずぐずさせながら言う。高価買取に、少し目がくらんだのかもしれない。

「確かにね」

 雪子は、ガラスの戸をずらして開ける。レールは堅くなっていた。

 三冊目の「こころ」は、雪子や美沙の目線から、一番よく見えるところにあった。

 雪子は棚から抜きだした。

「古いねー、それも」

 美沙はそう言いながら、見たことのないタイプの装丁本に興味を示し始めた。

 雪子は「こころ」を捲る。

 本文に、鉛筆でラインが引いてあった。

 覚えがある。

 授業で先生が協調したところに線を書いたのだ。今までだったら、小説に書き込みなんてしなかったけれど、どうせ古いんだから、と雪子はラインや、ここ大事、と書き込んだのだ。

 旧かなは、相変わらず読みにくい。

 ああ、可愛そうだった私。

 本屋で買ってくれれば、あんな恥ずかしい思いをしなかったのに。

 だから、美沙には、本屋で買わせるのだ。

 雪子はぺらぺらと捲る。

 あの頃のクラスの空気が蘇る。

 はらりと、しおりが落ちた。黄ばんでいる。

 そうだ、本が古かったから、せめてしおりくらい可愛いものを、と思って、押し花のを使ったんだっけ。

 床に落ちたしおりに字が見えた。そこに何か書いた記憶はない。

 雪子は拾って、見つめる。

 美沙が興味深々で、覗き込んで言った。

「何、これ? なんかの暗号? スマホのゲームにこんな謎解きあるんだよねー」


 一代目 広重 昭和

 二代目 雪子 平成元年

 三代目 


 そこで終わっていた。

 父は何が書きたかったのだろう。

 広重は父の名だ。平成元年とは、雪子が高校二年のとき。そう、この本を読んだときだ。

 継いだ、ってこと?

 この本を?

 もしかして、父は継いで欲しかったのだろうか? 本を、本好きを?

 雪子はじっと、しおりを見つめる。だけど、書かれているのはそれだけだ。

「なんか、ヒント欲しいよね」

 美沙が謎を解こうとする。

「あんたの好きな謎解きゲームなら、三代目は誰?」

「この順だったら、私?」

「そうだと思うよ」

「で、何? 何のこと?」

 美沙は首を傾げている。

「あんた、この本、読みなさいよ、夏休みの宿題でしょ」

「えー、これ、古すぎる。くしゃみ出る。破壊しそう。砕ける。黄ばんでる」

 美沙はあらゆる拒否の理由を上げる。

 あんた、一番の問題を分かっていないな。問題は、旧かなだ。

 雪子は、ふふっと笑う。

「大丈夫、新品も買ってあげるよ。だけど、読むのはこっち」

 雪子は黄ばんだ文庫に目を落とす。ぱらぱらと捲ってみる。

 古い、本当に古い。笑いたいくらい、黄ばんでる。

「意味、分かんない」

 美沙は文庫を覗き込んでから、思いついたように、付け加えた。

「でも、しばらくは本棚の片づけ、延期かな。もしかしたら、お祖父ちゃんの四冊目のお宝本、出てくるかもしれないしね」

 雪子が振り向くと、美沙は笑みを浮かべ、くしゅん、とくゃみをした。

                                                                         了

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