ムクさんの秘密
街外れに住むムクさんという老人は、記憶にある限り、私が幼少の頃から老人だった。
誰も名前を知らず、ムクチさんが縮まってムクさんと呼ばれている。
あの街から遠く離れたここでもそうだった。
自分の事は一切話さず、というかそのあだ名の通り無口で、喋ったところは誰も聞いたことがないと皆は言う。
それでも街の皆に受け入れられているのは、格好良いからだ。
容姿も、そしてその行動も。
すらりとした長身にいまどき着物に足袋に下駄。
立ち居振る舞いも絵になるうえに、スキンヘッドながら渋く整った顔は、昭和の銀幕スターだったのではと噂されるほど。
無言ながら常に優しく、弱きを助け強気を
当然、私も推している。
武勇伝だって枚挙にいとまがない。
痴漢を捕まえたとか、万引きを事前に止めたとか、車に
ひったくりについては、当時小六だった私も見た。
バイクに乗った二人組が銀行から出てきた女性のバッグを奪って逃走したのだけれど、そこにムクさんがふらりと現れた。
ムクさんがすれ違いざまにバイクにすっと近寄りブレーキをぐっと握ると、バイクはぐるんと一回転した。
投げ出されたひったくり犯二人をムクさんは地面に積み重ね、その上にドカッと座った。
格好良かった。もう特撮かと思ったくらい。
ひったくり犯は身動き取れないでいるうちに警察がやって来てしっかり引き渡された。
さらにムクさんは動物にも好かれまくっている。
ペットが逃げたらムクさんに相談しろと言われているくらい。
本当に凄いムクさんだけど、たった一つだけ弱点がある。
声が甲高いのだ。もう、驚いて二度見するくらい。
実は私はムクさんの声を聞いたことがあるのだ。
それはあの小六のときに目撃したひったくり犯を捕まえた話の続き。
ひったくり犯の片方がどうやら大きな暴走族のメンバーだったようで、ムクさんに報復してやるぜと息巻いていたのが、たまたま塾帰りに通りがかったゲームセンターの中から聞こえてきたのだ。
私は帰宅するよりも先にムクさんを探し、危ないから隠れてと伝えた。
自分の推しが危険な目に遭うかもしれないとわかっていながら無視することは出来なかった。
いくらムクさんが強くて凄くて格好良くとも、血気盛んな暴走族の大集団に襲われたら――だけどムクさんは静かに首を横へ振った。
そして私の頭を優しく
よせばいいのに私はムクさんを追いかけた。
私が行った所で戦力には当然ならない。でも子どもで女の自分がムクさんの盾になれば、手加減してくれるかもしれない。そんな身勝手な謎理論と正義感とで私はこっそりムクさんの跡をつけた。
ムクさんはすたすたと人の少ない方へ少ない方へと歩いてゆく。
河原へ出て、橋のたもとへと降りてゆく。
辺りは暗い。
ここいらはこの時間、橋に付いている灯りくらいしか光源がないから。
それでも私は恐る恐るついてゆく。
もう引き返すタイミングを完全に見失っていた。
突然、周囲が明るくなった。
待ち構えていたと思われる暴走族がバイクに乗って河川敷へと押し寄せてきたのだ。
ムクさんは私に気付き、すぐそばまで来てくれた。
最高の瞬間だった。
私がボーッとしかけているうちに、私とムクさんは、暴走族に周りをバイクで何重にも取り囲まれてしまった。
やがてそのうちの一台が私たちの方へと突っ込んできた。
恐らく怖がらせるためだったのだろう。直前で進路を変更し、すぐに離れてゆくバイク。しかしそのバイクの後ろにはムクさんが立っていた。
なんというか、立っていた。腕組みをして直立不動のままで。
そして凄まじい音量で「おぎゃぁ!」と叫んだ。赤ん坊のような声で。
直後、そのバイクが潰れた。
正確には、そのバイクの後ろ半分が。プレス機で押し潰されたかのように。
私が、いや恐らくは暴走族たちもが、呆気に取られているうちに、ムクさんは次々と走るバイクへ飛び移り「おぎゃぁ!」と叫んでバイクを半壊させまくった。
気付いたときには全てのバイクが潰されていた。
もちろん暴走族の人たちも全員がバイクを捨て、自分の足で走って逃げ去っていた。
「ムクさん、ごめんなさい。私、足手まといでしたね」
「……」
ムクさんは口を開かない。怒っているのだろうか。
「一つ、約束してくれ」
びっくりした。
今の、赤ちゃんみたいな甲高い声、ムクさん?
「約束してくれ」
もう一回繰り返した――あっ、私に言ってるんだ、と気付いた。
「はっ、はい! 約束します」
「
推しのお願いを断るわけがない。
えっ、でも推しが、私なんかに、お願いを?
「だっ、誰にも言いません! そっ、それにムクさんの声、私は恥ずかしいなんて全く思わないです!」
脳がバグりそうになっていた私は、余計な一言を付けてしまった。
「儂自身が嫌いなんじゃ」
推しに口答えしてしまった上に、さらに説明までさせてしまった。
万死に値する。猛反省。
「……わかりました。とにかく誰にも言いません」
ムクさんは再び無口へと戻り、そのまま私の家の前まで送ってくれた。
外灯に照らされたムクさんの頬はまだ真っ赤だった。
そして私のハンカチも。
ムクさんから死角になる角度で、度々流れる鼻血をハンカチで拭いていたから。
その夜のうちにムクさんは街を出たらしく、翌日から見かけることはなかった。
多くの人が嘆き悲しむ中、私は暴走族事件のことを誰にも言わなかった。もしも少しでも話してしまったら、ムクさんの声のことまでうっかり喋ってしまいそうだったから。
本当だったら話はそこで終わり。でも私は、長い時間を経てムクさんと再会した。
大人になり、結婚し、引っ越した旦那の転勤先の街で。
そこでもムクさんはムクさんと呼ばれていて、街のみんなの人気者で、ヒーローだった。
子どもを連れてムクさんとすれ違ったとき、ムクさんへ会釈をしたが、ムクさんは私があの時の少女だとは気付いていなかった。
でもそれでいいの。
ムクさんに必要以上に近づいたあの夜、私は興奮し過ぎて熱を出し、数日間寝込んだ。
私は学んだのだ。
推しとの距離は、その他大勢くらいが丁度いいのだと。
<終>
子泣き爺
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