異変~イノセside~
身を焼くような日差しを放つ太陽が真上まで登り、そして傾きつつある頃。
今日は屋敷の主人の客が来る日であり、奴隷達は各々の仕事で忙しなく走り回っていた。
屋敷の中を整理する者。料理を用意する者。主の身支度を整える者。
屋敷の中は、もてなしの準備でてんてこ舞いであった。
「お客様用のベッドメイク、まだ終わらないの!」
「新品のカーテンはまだかい!さっさとしな!」
「お皿足りない!早く持ってきて!」
今朝からずっとこんな調子である。戦場と言っても差し支えないほど、屋敷中が大慌てであった。
イノセもまた、その準備に駆り出されている。朝早くから掃除や運搬など、屋敷のあちこちを走り回る羽目になっている。目が回るような忙しさだった。
この前屋敷の主人と話をした夜から、イノセは不当にとらえられた奴隷たちをなんとかできないか模索していた。ロードピスから、余計なことを言わないようにとは言われていたが、現在進行形で想区の運命が一人の人間の傲慢によって捻じ曲げられているのだ。
自分の運命を勝手に変えられたことに絶望し、カオステラーに変貌した事例は実際にある。いずれ母と同じ『調律』の担い手となるものとして、この事態を放っておくわけにはいかない。だが今の自分に『調律』の力はない以上、一度カオステラーが発生してしまえば打つ手はない。そうなる前に、何としてもカオステラーの誕生を未然に防がなければならない。
そう思って屋敷の奴隷たちに地道に話を聞いて回っていたのだが、大した収穫はなかった。
朝から晩まで働き詰めで話すチャンス自体が少ない中、なんとか時間を確保して話を聞いてみようとしても、誰一人としてまともに相手をしてくれる人はいなかったのだ。
忙しいからと適当にあしらったり、「口より手を動かせ」と怒鳴ってきたり…。
中には、こんなことを言う奴隷もいた。
「『自分の本来の運命』?そんなもの、もうどうしようもないんだよ。じゃあ今から旦那様に『自分は貴方の奴隷になる運命じゃないから開放してくれ』って言えってのか?そんなことできるわけないだろ。一度でも逆らえば、良くてお仕置き。最悪ゴミのように殺されておわりさ。たとえ主人が誰であっても、生きるためには黙って従うしかないんだ。それくらい軽い存在なんだよ。奴隷っていうのは。」
奴隷にとっては自分たちの主人の命令こそが絶対であるとロードピスは言っていた。その言葉通り、自分たちの意思で動こうとする者は一人もいなかった。彼らは自分たちの立場に甘んじて、本来の運命を諦め、受け入れてしまっていたようだった。
これでは周りの協力は得られそうにもない。だからといって、自分ひとりにこの状況をどうにかできる訳がない。『導きの栞』さえあれば、(実際にやるかどうかはともかくとして)主人を力ずくで黙らせて言うことを聞かせることもできなくはないが、肝心の『導きの栞』が手元にないのではどうしようもなかった。
仮にも『調律の巫女』の息子である自分が、この様とは。自分の無力さ、迂闊さをただただひたすらに呪うばかりであった。
「おぉ!こんなところにいたか!探したぞ!」
あんまりな状況を省みて頭を痛めているところに聞こえてきたのは、上機嫌な男の声。振り返ってみると、いつもより綺麗な衣服を着た奴隷達。そしてその奴隷達を引き連れた、豪華な服装の『旦那様』の姿がそこにあった。
イノセが不当にこの場所に縛られることになった原因の一つ。よりによって今一番会いたくない人間に目をつけられてしまった。
だが無視をするわけにもいくまい。イノセは必死に感情を殺して主人に応える。
「いかがなさいましたか。旦那様。」
「いやぁなに。客人が来るにあたり、お前にも出迎えに連れていきたいと思ってな。そろそろ来るはずだから、お前も私と共に来てくれ。お前は他の奴隷よりも珍しいからな。客人もきっと腰を抜かして驚くだろうよ!」
この上なく楽しそうに笑う主人。
きっとこれから迎える客人に、イノセのことを見せびらかしたいのだろう。
真っ白な髪と左右で色の違う瞳を持つ人間など、イノセ自身も異様だと思っている。そんな珍しい特徴を持ったイノセのことを客人に自慢したいのだろう。
自分のコレクションを他人に見せて悦に浸るコレクターのように。
その悪意無き傲慢さと罪悪感の無い愚行に、最早吐き気すら催すほどの嫌悪感を示すイノセ。もう何度したか分からない程の歯噛みの後、怒りを必死に押さえながら主人の顔を見る。
「…分かりました。少しお待ちを。」
主人に返答したとき、思わずちょっと険しい顔になってしまったかもしれないと心の片隅で考えるイノセ。しかし主人は気にするどころか、イノセの顔の変化に気づく様子もなく、上機嫌なまま対応する。
「なら早く準備をするといい。ついでに皆にも伝えておいてくれ。今日の客に予定よりも早めに来てもらうことになったとな。」
呑気な笑い声をあげながらその場を去る主人。取り巻きの奴隷達も、主人の後に続いて去っていく。しかも重要なことをさらっと言い残して。
客が来るのは夕刻だと聞いていたが、いつの間に早まったのか、あまりにも突然のことで聞き返すことも忘れてしまい、気づいた時には主人の姿はすでになくなっていた。
(本当に自分勝手だな…!)
心の中で悪態をつくが、今更到着を遅らせてもらうこともできまい。
こうなってはもう一刻の猶予もない。早く皆に伝えて、準備を間に合わせなければ。
(というか、なんだかんだ馴染んでしまってる自分が嫌だな…。)
ふと、急に冷静に今の自分を省みて、軽く自己嫌悪に陥るイノセ。
こんなところに長々と居るわけにはいかないし、いたくもない。だからこそ、島から抜け出すその日まで、日々を耐えながら暮らしている。
だがそうして暮らしている内に、今やここでの仕事は一通りこなせる程に順応してしまった。毎日仕事をしているのだから当たり前ではあるのだが、それだけこの島で足止めを食らっているということだ。今の彼にとってはその事実がなんとも憎らしかった。
~~~~~
あの後すぐに屋敷に戻って奴隷達に『旦那様』の伝言を伝えたところ、案の定屋敷中が更に賑やかになった。今屋敷は叫び声と怒号で阿鼻叫喚の大騒ぎ。奴隷達も大慌てで走り回っている。
イノセもさっさと部屋に戻り、比較的綺麗な試供品の服を着て、大急ぎで屋敷を出る。息を切らしながら全速で走り、ようやく島の波止場にたどり着く。そこで見えてきたのは水平線の向こうから近づいてくる一隻の船。
そして波止場の先端で客に到来を待つ『旦那様』と、ロードピスもいた。
「なんだ。えらく遅かったな。早く迎えの準備をしないか。」
隣で息を切らしているイノセを一瞥して急かす主人。一体誰のせいでこうなったのか、この男は分かっていないのだろうか。
側にいたロードピスの顔を見ると、憐れむような表情で首を横に振る。『旦那様』に思いやりの心など、期待するだけ無駄だと、暗に伝えている気がした。連れてこられてから今までのやり取りで、大体理解することはできたが、改めて伝えられるとやはり頭が痛い。まだ自分は来たばかりで間もないが、普段からこの男に振り回されている奴隷達に、心の底から同情する。
だが今はまず乱れた呼吸を整えて波止場の先に立つ。地平線に見えていた船はどんどん近づいている。まもなく到着するだろう。
イノセはその船を、到着間近となったその船をただじっと見据えていた。
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「待たせたな。こうして会うのは久方ぶりか。」
「いやはや遠くからわざわざご苦労かけました!さあ、お前達。お客様の荷物をお持ちして差し上げなさい。」
全身をきらびやかな装飾品で飾り、後ろに複数人の奴隷を引き連れた男。この男こそが客人なのだろう。
満面の笑みで到着した客に挨拶をする『旦那様』。そして彼の指示ですぐさま客人の大量の荷物を手分けして持つイノセとロードピス。手ぶらとなって一息ついた様子の客人が、イノセの姿を訝しげに見る。
「…ん?そいつは新しい奴隷か?」
「おや?こちらの男が気になるので?珍しいでしょう?新しく買った奴隷なんですがね。見てくださいこの髪と瞳の色を!ロードピスのように白い肌の者も珍しいですが、こいつはとびっきりのレア物ですよ!さあ!お前も挨拶をしなさい!」
まるで新品のおもちゃを自慢するかのようにイノセの顔を上げさせて見せびらかす『旦那様』。いきなり顔を上げさせられたことで頭に一瞬鈍い痛みが走る。
「…どうも。はじめまして…。」
ただ淡々と挨拶を済ませるイノセ。そこで『旦那様』はイノセを解放し、再び客人に向き直る。
「いやぁ、ぎこちなくて申し訳無いです!急遽仕入れたばかりでして、まだ教育が十分ではないのですよ。ささ、立ち話も何ですからね。どうぞ屋敷へ。」
「珍しい奴隷を集める趣味は相変わらずか。では早速向かうとしよう。」
屋敷のある方向へ誘導する『旦那様』と、彼の話を笑いながら聞く客人。そして、両者の荷物を慌ててまとめた奴隷達は、すぐに屋敷へと歩を進める。
波止場から屋敷へ荷物を運ぶ道中、ことあるごとにイノセを手に入れた『旦那様』の自慢話が、嫌でも耳を突く。
「しかし見れば見るほど奇妙な奴隷だ。このような奇っ怪な生き物がこの世に存在するとは。」
「いやぁ私も驚きましたよ!一目見てすぐに購入を決意しましてね!後にも先にもこんな掘り出し物はお目にかかれませんよ!」
さっきから二人ともこんな不快な会話ばかりしているのだ。
完全に人のことを、物かペット扱いしている。本来なら憤るところだが、『旦那様』は出会ってからずっとこんな調子のため、イノセは最早怒る気も失せてしまった。
もう好きにさせておこう。そう決めたあとは、ただただ心を殺して両手一杯の荷物を運ぶだけだった。
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ようやく屋敷へたどり着いた頃、屋敷の門前では奴隷達が整列して頭を下げ、客人を出迎えていた。
列の前には奴隷長が立っており、客人に歩み寄り、再び頭を下げて歓迎の言葉を述べる。
「本日はようこそおいでくださいました。長き船旅でお疲れでしょう。ごゆるりとお疲れを癒してくださいませ。」
いつものヒステリーはどこへやら、礼儀正しく、丁寧で穏やかな熟年女性がそこにはいた。彼女の態度に客人はすっかり気を良くしたのか、笑顔を浮かべる。
「さて!荷物は奴隷達に任せて我々は早速話をするとしましょう!積もる話は山とありますからね!!」
『旦那様』が仕切るように声を上げて客人を誘導し、屋敷の門をくぐる。
イノセとロードピスの二人もそれに続き、屋敷の中に入ると、今や見慣れてしまった広間が視界に広がる。
客人が来る前は、まだ整備しきれておらず、奴隷達がてんやわんやになって広間の整備に奔走していたはずだ。
あれから奴隷達は死ぬ気で間に合わせたのだろう。客人の到来が早まったことを皆に伝えてから今まで時間はあまり無かったはずだが、広間は綺麗に掃除され、美しく整えられていた。
広間の真ん中にも外と同じく複数人の奴隷達が整列し、頭を下げて客人と『旦那様』を迎え入れる。
「お前達、出迎えご苦労。さて二人とも、早く客人を部屋へ案内して差し上げなさい。」
「かしこまりました。旦那様。」
「…こちらです。」
『旦那様』の指示に返事を返すロードピス。イノセはロードピスと共に廊下の奥の部屋へと案内し、客人と連れの奴隷達も二人についていく。そして『旦那様』もその後に続き、やがてその姿が広間から消えた。
~~~~~
客室に到着し、彼らはそれぞれの行動に移る。
イノセとロードピスは客人の奴隷達と共に荷物の整理。
客人は上着を装飾を連れの奴隷に外させていた。
そして『旦那様』は廊下にいた奴隷を呼び、何かを話している。
しかし…。
「何?まだだと?」
「申し訳…ありません!急な到着で…まだ用意が…!」
廊下から『旦那様』と少女の声が聞こえてきた。恐らく屋敷の奴隷の一人だろう。だがその声は震えており、涙ぐんでいるようだ。そして、奴隷の少女が話していた内容も微かに聞こえてきたが…。
「どうかしたのかね?」
そこで『旦那様』の様子に気づいたのか、客人の男が部屋の入り口に近づいてきた。それに気づいた『旦那様』が客人の方を振り向き、いつもの笑顔を浮かべながら答える。
「いやぁ失礼。少々急用ができてしまいまして。すぐに戻りますゆえ、少しばかりお待ちいただけますかな。ロードピス。お客様のお相手をして差し上げなさい。それと君、大急ぎで厨房へ行きなさい。」
「えっ?ちょっとどこへ!?」
早口でそう言うや否や、イノセの静止も聞かず、そそくさと部屋を出てしまった。
客人を残していきなり奴隷を連れて部屋を出ていくなど、何を考えているのか。やはりあの男の考えはイノセには分からなかった。
「全く、そそっかしいのは変わらずか。」
家主が去って部屋に残された客人。だが彼はなんでもないかのように扉に背を向け、部屋のソファーにドカッと無遠慮に座る
「さて、ロードピスよ。しばらく話し相手をしてもらおう。それとそこのお前。あいつは厨房へ行けといっていたが、茶請けでもあるのだろう?さっさと持ってきたまえ。」
さらにあたかも自分のものであるかのように、二人に命令を下す。卑しくにやけたその顔は、見るもの全ての腹を立たせるには十分だろう。「類は友を呼ぶ」という言葉を聞いたことがあるが、さすが『旦那様』の友人だと言ったところか。
「はい。僭越ながら、お相手をさせていただきます。」
ロードピスは深々と頭を下げ、イノセもまた、客人に向かい、ただ頭を下げて部屋を後にした。
~~~~~
今イノセは、腰ぐらいの高さの綺麗な台車にお茶請けを載せ、廊下を小走りで移動している。
厨房の奴隷達から話を聞いて、さっきの『旦那様』と奴隷のやり取りの真相が発覚した。客人へのお茶請けの準備が間に合っていなかったのだ。
到着目前になってから、予定の前倒しが発覚したため、当然である。少ない時間で玄関や廊下が綺麗に整っていたのは、先に客人の目につくところを優先的に終わらせたためか。あの裏側では、出迎えに出なかった裏方の奴隷達が時間に追われ、ヒイヒイ言いながら準備を続けていただろう。改めて『旦那様』に振り回される奴隷達に同情の念が浮かぶ。
自分もさっさとこれを運んで、彼らの仕事を手伝うとしよう。そう思いながら客室へ急ぐ。
──申し…様…──
(…ん?)
だが客室へ向かう最中、微かに声が聞こえた気がして、イノセは足を止めた。
奴隷達の声だろうか?だが今聞こえてきたのは厨房とは別の方向からだ。
イノセは耳をすませてよく聞いてみる。すると今度は…。
バシッ!
──アァッ!!──
バシッバシッ!!
──アアアッッ!!!──
何かを叩く音と女性の叫び声。質の異なる2つの音が息を合わせるように連なって聞こえてきた。そして、イノセはその声に聞き覚えがある。
(さっきの…あの子の声か?)
さっき『旦那様』に謝罪をしていたあの奴隷の女の子の声だ。あの声よりも潰れた声だったが、間違いない。
イノセはその場に台車を置き去りにして、急いで声のする方へ駆ける。荒い呼吸をしながら屋敷の長い廊下を全力で走る。
声を頼りに走って着いたのは、広い廊下の隅の一枚扉。
──申し訳ありません!お許しくださ…──
バシィッ!!
──アアアァァァ!!──
さっき廊下に響いた声が聞こえてきた。間違いない。ここだ。
イノセは勢いよくその扉を開ける。
そして扉の先に広がる光景に、唖然としてしまった。
扉の奥に広がる部屋は窓が無く、武骨な石畳と、部屋の隅に申し訳程度の明かりであろう蝋燭が立てられた燭台。
そしてその部屋の真ん中に、手足を縛られて正座させられた奴隷の少女と、『旦那様』がいた。
少女の背中ははだけて真っ赤に染まりきっており、皮膚がところどころ剥がれている。そして『旦那様』の手には、長い鞭が握られていた。
少女は「申し訳ありません…申し訳ありません…。」とうわ言のように口走るが、『旦那様』は構うことなく鞭を振り上げる。
「何をしているんだあなたは!!!」
その光景を見て、思わず叫んでしまった。目の前のあんまりな光景に、我慢できなかった。
イノセの怒号を聞き、『旦那様』は鞭を持った手を下ろすことなく、そのままイノセの方へ向き直る。その顔は、いつもと変わらない笑顔だった。
「おや?お客様へのお茶請けはもう届けたのかい?」
「そんなことはどうでもいい!!一体なぜこんなこと非道なことを!!」
激昂したイノセの声が部屋中に響く。だが『旦那様』はあっけらかんとした態度で続ける。
「なぜって…決まっているだろう?お客様へのもてなしも満足にできなかった奴隷への罰だよ。せっかく私の屋敷で働かせてやってるんだから、それくらいはきちんとしてもらわんと…なっ!」
バシッ!
「アアッ!!」
頭上にあげたままだった鞭を再び少女に向けて振り下ろす。鞭の先端が少女の背中に命中し、少女はまた苦痛の声をあげる。その光景と絶叫にイノセの頭にまた血が昇る。
「やめろ!あの人がどれ程大切な客人かは知らないけど、明らかにやりすぎだ!!」
咄嗟に『旦那様』と少女の間に入り、少女を守るように立つイノセ。
自分の前に立ちはだかるイノセの姿を見ても、『旦那様』の顔は変わらず笑顔のまま。だがその目からは笑いが消えていたように見えた。
「主人である私にやめろと?君はいつからそんなに偉くなったのかな?」
「別に僕はあなたの奴隷になることを認めた訳じゃない!それに準備が間に合わなかった事だって、あなたの連絡が遅れたのが原因だ!それを部下のせいにするなんて上に立つ人間としてやることなのか!」
いつから予定が早まったのかはわからないが、ここが孤島である以上、当日になってから連絡をよこすというのは無理がある。もし変更があったならば、事前に何日か前にやり取りをするだろう。であれば、連絡が来た時にすぐに皆に伝えるべきだった。到着直前になってから軽いノリで言うものではない。少なくとも、それで間に合わなかったからと言ってこの奴隷の少女を一方的に責めることはできないはずだ。
イノセの主張は、尤もな事であった。
だが…。
ガンッ!!
「がっ…!」
「そういえば、君への教育はまだ済んでいなかったな。ここらで一つ、立場を教えてやるのも私の責任か。」
突然『旦那様』はイノセの頭を殴りつけたのだ。唐突な出来事でイノセは反応できず、まともに拳を受けて昏倒してしまう。それを確認した『旦那様』は、イノセのシャツを剥ぎ、奴隷の少女を縛っていた縄をほどいて、それでイノセの手足を縛り付けた。
腹を殴られたことでまともに動けず、なすがままになるしかなかったイノセはその場に座らされ、背中を『旦那様』に晒す
そして…。
バシッ!
「いっ…!」
その背中に、『旦那様』の鞭が振り下ろされる。
「お前もいい加減理解しないか。お前は私が買った『所有物』で、私はお前達の主人なのだよ?奴隷が主人に従うのは当然ではないか。」
バシッ!バシッバシッ!!
「ぐっ…。」
「それに私はあのファラオに次ぐ大金持ちだ。こんなに立派な屋敷を持っている。そんな男の元で暮らせているのに、一体何が不満なのか。全くなぜここまで反抗的になれるのか。私は理解に苦しむよ。」
ビシッ!バシッ!ビシッ!!
「あっ…があっ…!」
「しかも私はストーリーテラーの運命に真っ向から立ち向かい、君たちを救っているのだよ?ストーリーテラーによって決められた運命に従うしかなかった不幸な奴隷を雇うことで、君たちをストーリーテラーが定めた運命から守ってやっているのだよ?これほどお前達に尽くしてやっているのだから、その恩に報いるのは当然であろう?」
バシッ!ビシッ!ビシッ!バリッ!!
「がああぁぁぁぁっ!!」
何度も鞭を打ち付けられ、真っ赤になったイノセの背中の皮が剥がれ始める。剥がれた箇所からどんどん血が染みだし、背中をさらに赤黒く染め上げる。それでもなお『旦那様』は鞭を振るうペースを落とさない。
「このムチ打ちの『罰』も、お前への『愛』なのだよ?母親が子を叱るのと同じだ。私は時間を割いて、お前に間違いを正してやっているのだよ?」
鞭を振るい続けて、どんどん皮膚が剥がれていく。すると『旦那様』はイノセの背中に手を掛け…。
バリッ!ビリッ!ビリビリビリビリッ!
「ああっ…ぐぅぅっあがァァァァ!!」
鞭を受けすぎてささくれた背中の皮膚を摘み、目一杯引き剥がした。ズタズタになった背中から剥がした皮は肉すらも巻き込んでイノセの背中から無理やり離されていく。その痛みに、もはや悲鳴にもならない叫び声をあげるしかないイノセ。
「さあ、これで少しは分かったろう?お前達は、不幸な運命から救った私に感謝し、尽くすことこそお前達の使命なのだ。これに懲りたら今後はしっかりと使命を果たすようにな。」
ビリビリビリバリバリバリバリ!!
「ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁァァァァァァァァ!!」
淡々とした喋りを全く変えることなくイノセの皮膚を、肉を、指でつまんで剥がし続ける『旦那様』。イノセの背中からは血がどんどん滴り落ち、床には小さな血溜まりがいくつも出来上がっている。
やがて途切れることの無い激痛と非道な仕打ちに耐えきれず、ついにイノセは意識を手放した。
~~~~~
──…うぶ……?ねぇ…。──
(…あれ?…僕…?)
──いま…うごい…!──
(誰だ…?あの男…じゃない…女の人…?)
「んん…!っつ…!」
「あっ!目が覚めた!」
女性らしき声が聞こえてきて意識を取り戻したイノセ。未だ朦朧としているが、ハッキリと覚えていることはある。
自分は、あの男の身勝手な拷問を受けさせられていたはずだが、どうやら固い布の上にうつ伏せで寝かせられているようだった。一体なにが起こっているのだろうか?
少しずつ意識が覚醒したイノセは、体に力を入れて起き上がろうとする。
「あだっっっ!!」
だが体に力を入れた瞬間、背中に無数の棘を指したような鋭い激痛がほとばしる。
「まだ動いちゃダメよ!大人しく寝てなさい!」
痛みで脱力し、再び布の上に身を預けたイノセに、先程の声がイノセを叱る。
そのおかげか、だんだんと視界が鮮明になってきた。イノセは頭だけをなんとか動かして周りを見渡してみると、すぐに目についたのはずっと聞こえてきた声の主の姿。
漆のように黒い髪と青い瞳、そして輝くような白い肌。
見紛うはずもない。ロードピスだ。
だが目の前の彼女はいつもとは全く違う姿だった。
だが、それよりも気になることは山ほどある。まずは一つずつ、目の前の彼女に聞くことにする。
「…ここは…どこですか…?」
「ここはあなたの部屋よ。あなたが旦那様の『調教』を受けたあと、ここに運んできたの。」
「あなたが…運んだんですか?」
「私だけじゃないわ。もう一人、治療を手伝ってくれた子がいるの。」
そう言ってロードピスは顔を自分の隣に向ける。
そこにいたのは、『旦那様』に鞭を打たれていたあの奴隷の少女だった。
少女はその場で座りながらイノセに寄り添い、目に涙を溜めながら彼を見つめていた。
「…君は…。」
「旦那様の鞭打ちが終わったあと、私に協力を求めて、二人でここに運んできたってわけ。この子、あなたのことをずっと看病していたのよ?」
「…。」
ロードピスが事の端末を話してる最中、イノセを見つめていた少女は顔を俯かせ、暗い顔になる。自分のせいでひどい目に合わせてしまったと、気に病んでいるのだろう。
イノセは自分の体に頑張って視線を向けると、体に包帯がぐるぐる巻きになっているのがわかった。言われてみると、背中には刺すような刺激の他に僅かに柔らかい感触がある。恐らく包帯の下に止血用の布か何かを当てているのだろう。これを、彼女が全てしてくれたのだろうか。
だが一つ、気がかりなことがある。
「…君は…。」
「…え?」
「君の傷は…大丈夫?」
「…。」
イノセからの問いに何も返さず、また俯いてしまう少女。まさか少女は、自分の傷を後回しにして、イノセの治療をしてくれたのだろうか。
自分だって拷問を受けていただろうに、イノセのことを優先して…。
背中の傷よりも、今は彼女への申し訳なさで、心が痛くなる。
「…あなたが今何を考えてるのか、あえて聞かないけど、看病してくれたのはこの子なのよ?そんな悲しそうな顔をするよりも、まず言うことがあるんじゃないの?」
隣から戒めさせるロードピスの言葉に、一瞬ドキリとするイノセ。知らない内に、自分の顔に出てしまったのだろう。
目の前の少女に対する、罪悪感が。
最初、あれだけイノセのことを見つめていた少女が俯いたままなのは、自分の顔を見て、気まずく思ったのもあるかもしれない。それを察したイノセの心に、さらに申し訳なさが侵食していく。
だが、ロードピスの言う通り、ここで彼女に対してするべきなのは、謝罪でも、悲しそうな顔を向けることでもない。
「…ありがとう。大分楽になったよ。」
感謝の言葉。そしてもう大丈夫だと、少女を安心させること。
もちろん痛みは全然引いておらず、背中は焼けるように熱い。だが少女がその言葉を聞いた瞬間、暗かった顔が少し明るくなった気がした。
すると少女は、すぐさまイノセに向けて頭を深く下げる。
「…ありがとう。」
下げられた頭から、感謝の言葉が聞こえてきた、照れ臭かったのか、耳は真っ赤で声も小さかったが、確かにその声はイノセの耳に届いた。
少女はその場で立ち上がり、ドアをくぐって部屋を後にする。
少女がいなくなり、二人だけになったところで、今まで流していた疑問をロードピスへ問う。
「…ちなみに、その格好は…?」
その疑問とは、ロードピスの服装の事だ。いつもの彼女は簡素なエプロン姿だったが、目の前にいる女性は、別人と見紛うほどに美しく着飾られていた。
頭にはティアラ風のきらびやかな髪飾り。唇は紅色に染まっており、ほんのりと漂う香水の香りが鼻を柔らかく刺激する。
細かい宝石がちりばめられたブラが、普段着からは想像できなかった豊かな胸を包み、くびれた腰には足首まで覆う薄手のベールが巻かれていた。だがあまりにも布地が薄すぎて、下に履いているパンツまでが透けて見えてしまい、両端の切れ目からは白く美しい足が太ももまで露になっている。
「ああ、これ?私、昔からダンスが得意で、お客様をもてなす時は、いつもこの衣装で踊っているの。自分で言うのもなんだけど、中々のものよ?」
「…そうですか…。」
よくぞ聞いてくれたといわんばかりに、上機嫌で説明するロードピス。余程踊りの技術に自身があるのか、イノセに語る彼女は嬉々としており、この上なく得意気であった。
(そういえば学院の資料にも、踊りで客をもてなしていたって記述があったな…。)
彼女の語りを聞きながら、学院の資料の記述をぼんやりと思い出した。
まさかここまで過激な衣装を着ていたとは思わなかったが。
「でもこの姿を見た男は皆、いやらしい目で私を見るのよね。胸に目線が釘付けになったり、腰をジロジロ見たり、お尻を見つめてニヤニヤしたり、ね。」
いつの間にか少し拗ねたような声のトーンになるロードピス。踊り子としての自分に誇りを持っているようだが、不純な感情に晒されることも頻繁にあるようだ。
だが人によっては「卑猥」とか「はしたない」とか言われかねないその服装、普段の姿とはかけ離れた美貌、女の魅力を最大限詰め込んだようなスタイルは、男を獣にするには十分すぎる魅力があった。不満げに語る彼女だが、いやらしい目で見るなという方が無理な注文だろう。
すると彼女は何を思ったのか、意地の悪い笑顔を浮かべながらイノセに熱の籠った視線を向ける。
「ねえ…今ここには、私たちしかいないわよね?この狭い部屋に…あなたと、私が、二人っきり…。」
そう言いながらわざとらしく腰をくねらせながら彼の目前に迫り、ねっとりとした動きで彼の頬を撫でる。さっきはそう言う目で見られることを嫌そうに言っていたのに、実は全部狙ってやっているのではないかと疑ってしまう。
「私みたいな、ふしだらな女は…お嫌い?」
耳元に唇を近づけ、理性を溶かすような甘ったるい声で囁きかけてくる。
ハッキリ言って、心臓に悪いなんてレベルじゃない。
が…。
「…今それどころじゃないのが分からないんですか、あなたは…。」
見ての通り、今のイノセの体はあの男の拷問でボロボロだ。痛みに耐えるので精一杯で、とても鼻の下を伸ばす余裕などない。危篤状態とも言える今の自分にわざとらしく迫る彼女に、情欲どころか腹立たしさが沸き上がった。眉間にシワを寄せたイノセの視線に、ロードピスはビクッと体を強張らせる。
「…そうよね…。さすがに不謹慎が過ぎたわ。ごめんなさい…。」
さすがにやり過ぎたと思ったのか、ロードピスは素直に謝罪し、しゅんとした表情を見せる。
彼女が大人しく身を引いたのを察し、イノセは小さなため息をついてうつ伏せのまま目蓋を落とす。未だ激しい痛みが背中を襲っているためまともに寝れるか怪しかったが、それでも起き続けるよりはいくらかマシだろう。
するとロードピスはその場に座り込み、休眠のために目をつぶったイノセに寄り添ってきた。
座る際の服の擦れる音に反応し、イノセはうっすらと目を開ける。
「…帰らないんですか。」
「さっきふざけちゃったお詫び。夜が明けるまで、看ててあげる。」
どうやら彼女は帰るつもりはないらしい。彼女には好きにさせてあげることにして、再び目蓋を閉じるイノセ。
しばらく時間が止まったような静けさが広がったが、それでも背中は相変わらず熱い。ジリジリと焼けるような感覚を我慢し、少しでも体を休めようと努めるイノセ。
「…ねえ。」
止まった時間を動かすように、ロードピスが唐突に口を開く。
「何で、あの子を助けたの?」
問われたのは、ただ単純な疑問。イノセが黙っているのも構わずに、ロードピスは続ける。
「この前、私を庇ったときもそう。自分よりも偉いひとに逆らったら自分がそうなることを、分からなかったのかしら。自分を犠牲にしてまで他人を助けようとする奴隷なんて、聞いたこともない。皆、自分のことだけで手一杯なのに。」
「…。」
「なぜあなたは、そんなに見ず知らずの他人を気遣えるの?自分を顧みないの?自分の身がどうなっても良いというの?」
「……。」
ただ一方的に呟き続けるロードピスと、ただ黙って話を聞き続けるイノセ。
奴隷としての生しか知らない彼女からすれば、イノセのような人間は異常に映るのだろう。ただ己の命を繋ぐために、毎日怯えながら暮らす奴隷。他人を気遣う余裕なんてあるわけがないし、そんなことをしても自分に利益はない。だからこそ、自分以外の誰かを庇うなどという所業は、彼女にとって信じがたい行為だったのだろう。
「…もしかして、それがあなたの『運命』なの?」
「………。」
彼女が思考の果てにたどり着いたのは、イノセ自身の『運命の書』に沿った行動ではないかという可能性。
イノセは、答えを決めかねていた。
自分は『空白の書』の持ち主。奴隷達どころか、この世界に生きる者達にとっては、この上ない異端者だ。
そんな『空白の書』の持ち主が過干渉すれば、想区全体の流れが狂い、大事件に発展しかねない。
『空白の書』の持ち主の干渉が原因で滅んだ想区の話も、何度か耳にしたことがある。
だからこそ、想区の中での行動はどうしても慎重にならざるを得ない。本来ならロードピスと奴隷長の仲裁も、『旦那様』が少女へ行った拷問の静止も、全てグレーゾーンと言える。ましてや異物である自分が彼らと一つ屋根の下で共に暮らすなど…。
これ以上不用意に波風を立てる行為は出来ない。だからといってこのまま黙っているのは忍びない。
考えた末に、イノセが彼女に与えられる答え。それは…。
「ぼくが、そうしたかったから。」
ただ一言。自分の意思でやったと伝えることだけ。
「…それだけ?」
「はい。それ以上でも、それ以下でもないです。」
「…そっか。」
ロードピスは、それ以上問い詰めることはしなかった。
果たして彼女は納得してくれただろうか。
だが、自分の行動が衝動的なものであったことは事実。今のイノセにこれ以外に与えられる答えはなかった。
「…話してくれて、ありがとう。ゆっくり休んで。」
ロードピスはただそれだけ告げ、イノセも彼女の言う通り改めて休むことにする。
再び休み始めた彼を、ロードピスはただ黙って見つめていた。
優しくイノセを見守る眼差しには、何かを決意した強い意志が宿っていた。
~~~~~
「イノセ…起きて。イノセ。」
「…?」
夜が明けるか明けないかといった頃、ロードピスの声でイノセは目蓋を開けた。
奴隷達の朝は早く、日が昇り始める頃には皆ぞろぞろと出て働き始める。しかし今はまだ夜が白み始めたばかりのようだ。流石にこの時間からは誰も起きていない。こんな時間から起こして、一体どうしたと言うのだろうか。
「背中はまだ痛むわよね?歩ける?」
「え…?はい。なんとか…。」
相変わらず背中は熱く、刺すような刺激が残る。未だ動く度に痛みが走るが、昨日よりは幾分かマシになっていた。我慢すれば、歩くぐらいはなんとかなるだろう。
「よかった。すぐ行くわよ。」
「え?行くって、どこへですか!?」
「いいから早く!あまり騒がないようにね!」
ひそひそと話しながらイノセの手を取る。一体なにがなんだか分からないが、焦る様子の彼女を見て、イノセもただ事ではないと察した。
ロードピスはドアをそっと開けて周囲を見渡し、誰もいないことを確認すると、イノセの手を繋いだまま早足で廊下を抜ける。イノセも背中の痛みに苛まれながらも、自分を引っ張る彼女になんとかついていく。
「ごめんね無理をさせて。もう少し頑張って!」
後ろのイノセに気を遣いながら、歩くペースは落とさない。イノセが必死に後に続くと、やがてたどり着いたのは、もはや見慣れてしまった屋敷の門の前。
ロードピスはその扉に躊躇なく空いている手を添え、音を立てないようにそっと開ける。
「こんな時間に何をしているのかね?」
後ろから聞こえてきた男の声に驚いて振り向くロードピス。イノセも同じ方向を見ると、寝間着姿の『旦那様』がそこにいた。
「だ…旦那様、なぜここに!?」
「聞いているのは私の方だ。一体何をしているのかね?」
「か、彼の容態がまだ万全ではないので、仕事を手伝ってあげようと…。」
「踊りの衣装のままでかね?」
「それは…。」
突然話しかけられたためか、その姿を見て飛び上がりそうになったロードピスと、彼女を問い詰めていく『旦那様』。その顔は『旦那様』はいつもの笑顔は消え失せて真顔になり、固く拳を握って震えている。
明らかにただ事ではないと察したが、未だ訳が分かないことばかりだった。
今朝起きてからというものの、一体なんだと言うのだろうか。自分もこの場にいるのに、イノセは一人蚊帳の外にいるような気分だった。
この空気にしびれを切らし、イノセは『旦那様』に問う。
「あの…こんな朝早くから、一体どうしたのですか?」
「黙れ!私の一番の宝を奪おうとしておきなから、白々しいにも程がある!!」
「一体何を言って…!」
ただ質問をしただけのイノセに『旦那様』は、顔を真っ赤にしながら怒鳴りつける。しかもその内容は、イノセに全く身に覚えのない恨み言だった。状況を知りたくて質問したのに、ますます訳が分からなくなった。
『旦那様』は困惑するイノセの様子が気に入らなかったのか、ますます怒りで体を震えさせ、再び吐き出した怒りを蓄え始めた。
「証言はすでにあるのだよ…!お前が自室にロードピスを呼び出し、密会をしていたと…!」
「密会…?」
「昨日その現場を見たものが、私に教えてくれたのだよ。お前がロードピスを唆し、体をすり寄らせていたとな…!」
「昨日…!」
自室に来た。昨日。すり寄るロードピス。これらのキーワードを聞いてようやく状況が理解できた。
どうやら昨日のやり取りを、誰かに見られていたようだ。ロードピスが悪ふざけでイノセを誘惑したところも、彼女が看病のために自分に一晩寄り添ったことも、全て。
そしてその現場の様子を『旦那様』に密告した。そんなところであろう。最も、密告した内容には多大に誤解(あるいは誇張か。)が含まれているようだが。
「そして今、ロードピスがお前と手を固く繋ぎ、外へ出ようとしている。そして波止場にはお客人の船が停まっている。お前達が何をしているのか、当てて見せようか。」
顔の赤みと血管をさらに顕著に浮き出させながら、イノセのことを指差す『旦那様』。怒りで震える声をなんとか押さえ込み、自分の推理を突きつける。
「お客人の船に忍び込み、二人でここを抜け出すつもりだったのだろう?」
どす黒い感情を目に宿らせながら弁じ立てる『旦那様』。その回答にイノセは「はて?」と言った顔を浮かべるしかなかった。否、いずれ隙を見て出ていこうとは思っていたが、今回は本当にロードピスに引っ張ってこられただけだ。仮に今出ていくとしても、なぜわざわざ彼女を連れていかねばならないのか。全く要領を得ない推理だった。
しかし当の『旦那様』は自身の推理に一辺の疑問も持っていないようだ。
「せっかく行き場のないお前を拾い、第二の人生を与えてやったのに、私の『もの』を誑かし、挙句の果てに私の屋敷から連れ出そうなどよくぞ思いついたものだな…この恩知らずが…!!」
「お待ちください!旦那様!」
身体が爆発しかねない程の憤怒に震える『旦那様』を制したのは、他ならぬロードピスだった。彼女の声が耳に入ったのか、『旦那様』は少しだけ怒りを押さえ、ロードピスの方向を向く。
「彼は私に手を出してなどいません!昨日、彼の部屋を訪れたのは彼の看病のため!今朝も、私が彼を連れ出したのです!彼は無実です!!」
ロードピスは誤解をしている自分の主人を諭すために、その声を荒げる。だかイノセが僅かに彼女の方を向くと、その顔が青く染まっており、脂汗が滲み出ているのが見えた。いつも気丈に振る舞う彼女がこれ程取り乱しているとは。ロードピスにとっても、余程の事態ということなのだろう。
するとロードピスの方に顔を向けていた『旦那様』の顔つきが、少しずつ穏やかになり、笑顔が戻ってくる。
「…おお、ロードピスよ。私の一番の宝よ。お前はなんと優しく、健気な娘か。」
「旦那様…!」
彼女の必死の訴えが功を奏したようだ。誤解が解けてよかったと、二人とも心のなかで胸を撫で下ろす。
「その優しさに、つけ込まれ、こやつに入れ込んでしまったか。なんとも哀れなものか。私は悲しいよ。」
「…え?」
だが彼の口から放たれた言葉は、二人の安堵を容易く打ち破る。ロードピスを諭すように、優しげに語りかける『旦那様』。どうやら誤解を解き、怒りを静めた…という訳ではなさそうだった。
「その男に、そう言うように唆されているのだろう。だからそんな男のことを庇っているのだろう。」
「…旦那様?」
「目を覚ましておくれ。お前はこの男に騙されているのだよ。賢いお前なら、私の言葉を分かってくれるだろう?」
「…ち、違います!私は彼に騙されてなどいません!話を聞いてください!!」
どうやら誤解が解けるどころか、ますます歪んだ解釈をしてしまったようだ。再びイノセの無実を訴えるロードピスだが、最早彼女の言葉にすら耳を貸す様子は見られない。
ロードピスの必死の訴えも虚しく、イノセへと顔を向き直す『旦那様』。先ほどと違い、いつもの笑顔を浮かべているが、その胸中は決して穏やかではないであろうことは分かりきっていた。
「お前にはあの程度の罰では足りなかったようだな。私のロードピスに手を出した報い、ちゃんと受けてもらうぞ。まずは鞭打ちの追加、そして不眠不休の労働、加えてその間の食事は無しだ。本来ならこの程度では気が済まないが、私は寛大だ。お前が改めて奴隷としてやり直す機会を与えようじゃあないか。なに、たったの1ヶ月間だ。この罰を通じて更正し、立派な奴隷として───」
『旦那様』は捲し立てるように一方的に喋り続ける。なんでもないように淡々と話しているが、その内容はひどく身勝手かつ残忍なものだった。喋っている間ずっと笑顔を浮かべたままなのが、かえって不気味な雰囲気を醸し出す。
『旦那様』が喋り続ける内に、イノセの顔から段々と血の気が失せていった。その様子を見た『旦那様』は、興が乗ったと言わんばかりにその笑顔をにやけさせる。『旦那様』の話の内容の残酷さに、ロードピスは思わずイノセのに前に出て、彼を庇うように仁王立ちをする。
「旦那様!今一度申し上げますが、本当に誤解です!!私の勝手が招いたことなんです!!ですから彼にそのような仕打ちはご勘弁を───!?」
ロードピスが許しを乞う中、イノセは顔面蒼白なまま彼女を払いのけた。
そしてそのまま『旦那様』に駆け寄り───
「!?ぐあっ!」
その胸ぐらを掴み、自分の後方へ力一杯引っ張った。
あまりに唐突な彼の行動に、ロードピスと『旦那様』は思考が停止してしまう。だがすぐに正気に戻った『旦那様』がイノセを睨み付ける。
「貴様…!自分の主人に向かってなんて無礼な…!」
クルルルルァァァァ!!
「…え?」
その瞬間、頭の上をなにかが掠める感覚を覚えた。
それに加えて耳に入った聞きなれない声。そして睨んだ先にいたものに、『旦那様』は驚愕することになった。
そこにいたのはイノセと…真っ黒な小人のような、得体の知れない「何か」だった。
しかもその小人は一人だけではない。あちこちから紫色の靄が現れ、そこから次々と小人達が生まれていった。
クルルァァァ!
クルルルルァァァァ!!
「な…な…なんだこいつらは!!?」
さっきまでの余裕はどこへやら、その小人の姿を見てすっかり腰を抜かした『旦那様』は腕を杖代わりに体を起こし、尻込みをするので精一杯といった様子だった。
「何よこれ…一体何がどうなっているの!?」
傍らのロードピスも『旦那様』と同じく、目の前の惨状に狼狽えるばかり。辺りをキョロキョロと見渡しては立ちすくむしかなかった。
混乱する二人をよそに、黒い小人達を真っ直ぐ見据え、身構えるイノセ。
彼はこの小人達の姿をよく知っている。
想区の運命が歪む時に、どこからともなく現れる存在。父の遠征先や、故郷の想区に出現したものと同じものだ。
(いつかは出てくると思ってたけど、よりにもよってこんなときに…!!)
背中の痛みに苛まれながら、突如現れた小人達───ヴィラン───を前にして、心の中で悪態をつくイノセだった。
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