運命との出会い~イノセside~

「すみません!ちょっと通して下さい!」


 押し寄せる民にのまれてルゼと離れてしまったイノセは、人の合間をなんとか探して広場を抜け出そうと必死であった。だが、いくらもがいても人々の流れに逆らえず、いまだに広場から出られず仕舞いである。

 町へ戻るだけでも四苦八苦するイノセ。しかしこれ程の数の人間とすれ違っていると、嫌でも周囲の声が耳に入ってくる。


 ──偉大なるファラオよ!私こそがあなた様の未来の妃です!そのサンダルを履かせてくださいませ!──さ

 ──待て待て!抜け駆けは許さんぞ!うちの娘が妃に相応しい!──

 ──痛い!押さないでよ!未来の妃に対して無礼でしょ!?──

 ──うるさいわね!あんたなんかが妃な訳ないでしょ!──


 広場に残った、あるいは身内を連れてきた者が我先にと言わんばかりにファラオの元へ押し寄せる民達の声だ。皆、自分や家族を娶ってもらおうと必死になるあまり、他人を罵倒したり、張り倒したりしようとするものが現れる始末である。

 確かに王族と結婚できる、または親戚になれるというのだから、ここまで必死になるのも当然であろうが…。


(絵に描いたような醜いやり取りだな…。)


 自分のために平気で他人を張り倒し、蹴落とす民衆の姿に、軽く嫌悪感を覚える。

 仮にこの中にサンダルの合う者がいたとしても、こんな見苦しいことをする人間をファラオは娶るだろうか。仮に自分がファラオのたちばなら真っ平ごめんである。

 最も、どのような人間であれ、その人物との婚姻が『運命の書』に記されていることであれば、その運命に逆らうことはできない。もし無理に逆らおうものなら、いずれ想区全体に大きな「ズレ」を引き起こす。

 そうなってしまえば残る道は…。


 人混みから抜け出すために足掻きながらもまた頭を巡らせていると、後ろから誰かがぶつかってきた。イノセは「またか…。」と思いながらも気にせず進もうとする。


「むぐっ!?」


 だが次の瞬間、自分の口に長い布を強くあてられ、口を塞がれた。


(は!?なんだ?誰だ!?)


 突然のことでなにがなんだか分からず混乱するイノセ。背後を振り返ろうとするが…。


 ドスッ!


「ぐっ…!」


 後頭部に伝わる強い衝撃。その衝撃の痛みを感じとる前にイノセの意識は失われた。












「…う…っん……?」


 途切れた意識を不意に取り戻したイノセ。だがまだ視界もぼやけており、頭もまだうまく働かない。


(あれ…?ここは、どこだ?)


 先程まで自分は外にいたはず。だが、今自分がいる場所には、肌を焼くような強い日差しは感じられず、暑さも幾分か落ち着いている。いつの間にか自分は屋内に移動していたようだ。しかし、広場の人混みのなかにいた後の記憶がない。一体何が起こっているのか、イノセには検討もつかない。

 とりあえず、視界と意識が鮮明になるまでの間、体に異常がないか、手足を動かして確かめようとする。


 ギシッ…、


(ん?)


 その時、妙な感覚が彼の手に伝わってきた。両の手が互いにくっついて離れないのだ。しかも手首にチクチクとした感触が伝わってくる。

 自らの手に視線を向けてみると、その光景に思わず目を疑った。


 自分の手が太い麻の縄でがんじがらめに拘束されていたのだ。


「は?え?どういうこと!?」


 あまりに突然の出来事でパニックになるが、おかげですっかり意識を取り戻し、思考も鮮明になる。

 手錠をかけられるなど、まるで囚人のようだ。だがこの想区に入ってから、犯罪になるようなことをしたおぼえがない。それで捕まるなんてとても思えない。


 他に手錠をつける意味があるとすれば…。


「おっ。旦那様、お待ちしておりましたよ!このようなむさ苦しいところに招いてしまって───」

「構わんさ。それよりも、今日は掘り出し物があると聞いたが───」

「はいはい!それがまあ、珍しいものが入りまして、是非旦那様ご自身の目で確かめていただければと───」


 思考を巡らせていると、遠くから二人の人間の声が聞こえてきた。その口調と声のトーンから、おそらくは大人の男性二人組といったところか。

 そしてすぐに部屋に淡い光が差し込んできた。光の差し込む方を向いてみると、予想通り、声の主と思われる二人組の茶色い肌の男の姿があった。


 一人は、下卑た笑みを浮かべた痩せ気味の男。

 そしてもう一人は、見るからに上質な服や貴金属のアクセサリーで着飾り、顎と鼻の下に整った髭を蓄えた中年の太った男。どちらの男も、日に焼けてできたであろう小麦色の肌をしている。

 太い男が顎髭を弄りながらイノセをじろじろと見つめ、隣の痩せた男が太い男に手をこまねきながらニヤニヤとした顔を浮かべる。


「こいつですこいつ!ついさっき取っ捕まえたんですけどねぇ。旦那様この前異国の奴隷が追加で欲しいって言ってたでしょう?」

「ほう。彼女とはまた肌色が違うが、この辺りでは珍しいな。異国の者同士、彼女と話が合えばいいが。」

「へぇ!しかもこの髪と瞳の色!この辺どころか世界中を探してもこんな色をしたやつはそうそうおりませんぜ!!今を逃したら恐らく二度とお目にかかれないかと───」


 自分を品定めするその二人の様子を目の当たりにしたイノセは、それだけで嫌悪感を覚えた。この二人のイノセを見る視線。人ではなく、珍しい見世物を見ているかのような態度だった。


「…いきなり人のことを気絶させて、こんなところへ連れ込んで、なんのつもりですか。」


 下品な笑いを浮かべる痩せ男と不快な目線を向ける太い男を、にらみ返すイノセ。


「…あ?」


 その睨みに、明らかに気分を害した様子の痩せ男が、大袈裟に音をたてながらズカズカとイノセに詰めより、


「てめえ自分の立場が分かっているのかぁ!!?てめえはこれから奴隷としてこの旦那に尽くすんだよ!!口の聞き方に気ぃつけろこの馬鹿が!!!」


 イノセの胸ぐらを破りかねない勢いで掴み、引っ張りながら怒鳴り付ける。男の唾が飛び散ることで、イノセはさらに顔をしかめる。

 だがそれ以上に、聞き捨てならない単語が聞こえてきた。聞き間違いであってほしいが…。


「…奴隷って、僕のことですか?誰かと間違っているのでは?」

「はっ!!お前頭イカれてんのか!?いい加減諦めろよ!!一人で無防備にうろうろしていいカモだったぜ!!」


 男はイノセを床に叩きつけてその胸を踏みつけ、そのまま太い男の方へ向き直す。


「いやぁ、すみませんねぇ旦那様、こいつついさっき捕まえたばっかりでまだ教育が十分ではないんでさぁ。」

「構わんよ。いずれ気持ちの整理はつくだろうさ。」


 二人の男の吐き気がする会話。

 だが、その会話を他所に、イノセは自分の体に目を向ける。

 自身の『空白の書』を除いた荷物が全て無くなり、服もシャツとズボンだけになっていた。気を失っている間に剥ぎ取られたのだろう。

 ここでイノセは自分の身に何が起きたのかようやく理解できた。

 それは自分が考えられる中でも、最悪の可能性。


(まさか奴隷商人に捕まるなんて…。)


 想区を訪れて早々に姉とはぐれたばかりか、身ぐるみ剥がされて自身を売り飛ばされることになろうとは。

 ルゼは分かっていたか不明だが、この想区に来てからは、混沌の気配は感じなかった。だから想区の運命に関わらないようにすれば大きな問題は起こらないと思っていたが、まさかこんなことになるとは…明らかに油断しすぎていた。

 だが最悪、奴隷として身を落とすだけならまだ救いはある。ルゼと合流した後に隙をみて『沈黙の霧』へ逃げ出せば想区の住人はそれ以上干渉できないからだ。決して簡単なことではないが、不可能ではないだろう。

 それよりも大きな問題は…。


(導きの栞も、持っていかれている…!)


 父から賜った『導きの栞』である。ヒーローとコネクトをするためには絶対に必要な道具。自分はルゼのように素の状態で戦える術を持たないため、なおさらである。何よりも、あれは父が長年使用した大切なもの。それを父から信用された上で受け取ったものだ。それを失くしてしまったら、父に合わせる顔がない。

 他の荷物はまだいいが、『導きの栞』だけはなんとしても…。


 突然、痩せ男がイノセの手錠から伸びた縄を引っ張り、その縄を太い男に差し出す。イノセへの乱暴な扱いとは打ってかわって、その仕草は丁寧だった。


「それでは旦那様。こちらが商品となります。それとお代の方は…。」

「うむ。これで良いか?」

「えーっと…。へい確かに!!…おい!さっさと立てよ!!旦那様の手を煩わせんな!!」


 イノセのことなど意にも介さず、二人の男が金銭をやり取りを手際よく進める。勘定が終わると、痩せ男が鎖を力任せに引っ張り、無理やりイノセを立たせる。

 引っ張られたことで手錠が手首に食い込み、痛みに顔を歪ませるイノセ。だが大人しくついていこうとはせず、足を踏ん張らせて抵抗し、痩せ男に向かって叫ぶ。


「僕の荷物は!!僕のポーチはどこだ!!」


『導きの栞』は腰に着けていたポーチのなかにある。目覚めた時に着けていなかったことから、この痩せ男に服と共に奪われてしまったのだろう。ここで取り戻さなければ、取り戻すのは絶望的だ。


「お願いだ!せめてあの中の栞だけでも…!!」

「うるせぇっつってんだよ!!!」


 イノセ必死の訴えを聞き入れるどころか、さらに激昂した痩せ男がイノセの腹部を思い切り殴り付ける。


「がっ…。」


 あの痩せこけた体のどこにこんな力があるのか。イノセはその拳の一撃で呼吸が止まり、瞬く間に意識を手放した。


「威勢がいいものだ。奴隷に成り立てなのもあるだろうが、ここまで元気な奴隷もなかなかおらんぞ。」

「申し訳ねぇです旦那様!詫びとしてあっしが旦那の船までこの奴隷を運びますんで!」


 太い男の機嫌を取るように腰を低くして何度も頭を下げる痩せ男。すぐに気絶したイノセを肩に乗せて持ち上げ、太い男と並んで歩き出す。

 慌てた様子を見せながらも、痩せ男はついさっきまでのイノセの訴えを思い出す。


(このガキの言ってた栞とやら…。あの反応からして、余程価値のあるもののようだが…。へへっ。思ってたよりもいい掘り出し物だったかもな。奪った荷物の整理が済んだらどこかの貴族様に高値で売り飛ばしてみるか。)


 意識を失ったイノセを運ぶ傍ら、痩せ男は頭の中でさらに儲ける算段をつけていた。


 ~~~~~


 ここはあの町から離れた孤島。町と同じく身を焼く程の日差しが差し込むが、砂がひたすらに広がる町とは違い、芝生や木々が生い茂る自然豊かな土地である。また、面積こそさほど無いが、村一つを作れる程度の広さがあった。

 その孤島の中心に、その存在を誇示するように大きな屋敷が建てられていた。ファラオの住まう城程ではないにしても、人間が数十人暮らすには十分と言えよう。


 その屋敷の大きな門から、透き通るように白い肌の女性が現れた。

 ほんのり紅色に染まった頬と、ぱっちりと開いた目の中の、海のように青い瞳、さらに肩に被るまで伸ばした漆のような黒髪が、肌の白さを一層際立たせる。間違いなく、道を歩けば誰もが振り返る美貌と言えよう。だが見た目の美しさとは裏腹に着ている服は簡素なローブの上から古ぼけたエプロンを着ただけというみすぼらしい格好だった。


 その女性は扉を出るや否や、脇目も降らずに急いで駆け出す。


「全くもう…奴隷長の無茶苦茶な言いつけが終わったと思ったらもうこんな時間。息つく暇もないったらありゃしないわ!」


 ぼやきながらただ走る女性。辿り着いたのは、島の端にある広い海岸。そこには、石造りの波止場が作られていた。女性はすぐに波止場へと駆けつける。

 波止場に着いた女性が海を見渡すと、一隻の船がこちらに近づいてきた。

 女性はすぐに出迎える準備をする。


 錨を下ろし、船から橋が渡されると、そこから何人もの人々が波止場へと降りてきた。その誰もが上等な衣装に身を包んでおり、多くの荷物を抱えている。

 その中でも一際存在感がある一人の太った男に、女性は急いで駆け寄り、男の前に跪く。


「お帰りなさいませご主人様。今回の長き旅でお疲れとお見受けします。すぐに荷物をお屋敷へお運びいたします。」


 男へ礼儀正しく挨拶を述べ、荷物を預かる女性。その献身的な行動に、男は満足そうに笑う。


「おお。お前はよく気をきかせてくれるな。此度の留守番、ご苦労だったな。」

「恐縮でございます。ご主人様。」


 女性の献身を褒め称える男と、その賛辞を謙遜しながらも受けとる女性。その姿に、周囲の人間は冷ややかな目線を向ける。


 ──相変わらず手際のいいこった。──

 ──そんなにご主人様に気に入られたいのかしら。──

 ──ちょっと美人だからって調子にのっちゃって、ホント腹立たしいったら。──

 ──あーあ。また仕事にいちゃもんをつけて怒鳴り付けてやろうかしら。──


 女性に冷ややかな目線が浴びせられてすぐに聞こえてきたのは、自分に対する悪意ある言葉。皆、聞こえないように小声で囁いているつもりだが、その悪口の対象である女性は一言も聞き逃さなかった。


(またか…。まあいつものことだけど。)


 周囲の悪意を聞き流し、男の荷物を手際よく運んでいく。重くて大きな袋がいくつもあったが、女性はそれらを難なく持ち上げ、さっさと船から降ろしていく。

 ご主人様と呼ばれた男は、先程と変わらず上機嫌な笑いを浮かべている。周りの囁きには、恐らく気づいていないのだろう。


(私のことを一目置いているなら、少しくらい庇ってくれてもいいのにな。まあ、この人にそれは高望みしすぎか。)


 心のなかでため息をつきながらも、どんどん荷物を運んでいく女性。早めに終わらせなければ。なにせ運ぶべき荷物は、彼の分だけではないのだから。

 主人が召し使いを何人か連れて波止場から降りたところで、船から甲高い声がいくつも聞こえてきた。


「ほら!旦那様の荷物の次はこれも運んで頂戴!」


 女性が振り返ると、船の入り口にいくつもの箱や袋に入れられた荷物が山積みになっており、別の女性その荷物を指差して怒鳴っていた。


「かしこまりました。奴隷長。」


 女性は、奴隷長と呼んだその女性に頭を下げて、その言いつけに従い、荷物の運搬にすかさず取りかかる。


「あんたへの仕事はまだまたあるんだからね!早く終わらせてしまいなさい!」

「全く愚図ね!見ててイライラするわ!」

「さっさとしないと、あとでひどいわよ!」


 奴隷長と、その取り巻きと思われる女性達が罵声を浴びせながら荷物を押し付けて、さっさと波止場から降りていく。彼女達はすぐに主人と呼ばれた男に追いつき、そのまま男についていく。


 後に残された女性は山のような荷物を一瞥し、大きなため息をつくしかなかった。


 ~~~~~


「はぁー…やっと終わった…。」


 屋敷の中、自分にあてがわれた部屋のベッドに身を投げ出す女性。部屋といっても、埃臭いこぢんまりとしたもので、そのベッドも誰かが使い潰したものをそのまま使用しているため、寝心地などあったものではない。だが今の彼女にとっては、羽毛布団にも勝るほどの至福のひとときであった。

 あれから荷物をたった一人で屋敷へ運び、さらにその後も荷物の整理や掃除、その他にも色々な仕事を言いつけられたため、彼女の体はとっくに限界を迎えていた。

 夜も遅いし、今日はこれ以上仕事はないだろう。そう思いながら自分の意識を微睡みに委ねたところで、部屋の扉が乱暴に叩かれ、部屋の主の返事も待たずに扉がこれまた乱暴に開かれる。

 そこにいたのは、波止場で彼女に怒鳴っていた奴隷長だった。


「あら、お休みのところだった?こんな煤けた部屋でよく眠れるわねぇ。いくら奴隷といっても皆もう少しマシな部屋をあてがわれるというのに。」


 部屋にズカズカと入るなり、息をするように嫌みを言ってくる奴隷長。もはや嫌みに言い返す元気もない女性だったが、なんとか力を振り絞って起き上がり、奴隷長の方へ顔を向ける。


「…何か、ご用でしょうか?」

「ああ、そうそう。今日からまた新しい奴隷が入ることになったの。教育、お願いね。まだ奴隷になり立てだから、なかなか言うことを聞いてくれないと思うけど、先輩としてきちんとしつけて頂戴ね。もし新入りがヘマをしたら、あんたの責任にもなるから、頑張ってね。それじゃ。」


 一方的に言伝てを言い渡し、反論をする間もなくさっさと部屋を出ていく奴隷長。すかさず一人の男が部屋の入り口に立ち、細長い袋を部屋の床へ乱暴に放り出す。


「ぐっ…。」


 放り出された袋から声が聞こえてきた。声色からして、恐らくは男性のものだろう。突然の出来事に女性はただ目を丸くするしかなかった。


「え…、あ!ちょっと!大丈夫!?」


 すぐに袋に駆け寄り、その口を縛っていた紐をほどく。すると予想通り、中から男が一人現れた。暴れられないように手足を縄で拘束されている。女性はきつく縛られた縄をなんとかほどいて、男の体を優しく起こすと、その両目がゆっくりと開かれる。

 その時女性は、あることに気づく。


(肌が、黒くないわ…。それにこの瞳…。)


 その男性は自分のような白い肌ではないものの、この国では見かけない肌の色だったのだ。さらに髪は真っ白で、その開かれた瞳は左右で色が異なっており、それぞれ赤と金に輝いている。自分と同じく異国の者であろうが、このような特徴の人間など、そうそういない。


「うぅ…。あれ?ここは…。いてて…。」


 やがて意識を取り戻したのか、男は呻きながら自分の手で腹を押さえ、痛みを訴え始める。女性はひとまず安堵し、男性に話しかける。


「あ…。よかった。気がついた?」


 だが、彼のまだ意識はハッキリしていないようで、その瞳は今一つ焦点が合っていない。

 女性はひとまず男性の体を支えながら名乗ろうとする。


「いきなりで混乱してるわよね。私は───」

「…あっ!!」


 自己紹介をまともに聞かずに男性は短い大声をあげる。

 すると男性はたった今起きたとは思えないほどのスピードで立ち上がり、すぐさま部屋を出ていこうとする。


「え?ちょっと!どこに行くの!?」


 女性はすぐに呼び止めたが、男性は全く聞き入れる様子はなく、ただ走ろうとする。


「ぐっ…!うぅ…!!」


 しかし男性は程なくして腹を押さえて膝をついてしまう。起きがけに腹の痛みを訴えていたのだ。大方、奴隷商人に痛め付けられたのだろうが…。

 いずれにしても、そんなダメージを負った体でいきなり激しく動こうとすれば、体が痛むのは当然である。

 すぐに女性は男性に駆け寄り、痛みでおぼつかない体を支える。


「無茶しないで!体が痛んでるんでしょ!?何考えてるの!!」

「…取り返さなきゃ…。」

「え?」

「早く、栞を取り返して…姉様を…見つけないと…。」

「…。」

「取り返して…見つけて…。」


 うわ言を口にしながら男性は再び足に力を入れて立ち上がる。歯を食い縛り、くしゃくしゃに顔を歪ませながらも歩みを止めようとしない。

 次第に痛みも少しずつ落ち着いてきたのか、歩くスピードが段々早まっていく。


「…あっ!ちょっと待って!どこに行くの!?」


 男性のただならぬ様子に一瞬呆気にとられるが、すぐに後を追いかける。







 男性を追いかけて屋敷中を走り回ることになった女性。山のような仕事を終えてクタクタであるはずだが、今の彼女に気にする余裕は無かった。

 体を引きずる男性が心配なのももちろんある。

 だがそれ以上に───


(あんな人と出会うなんて、私の『運命の書』には書いてなかった…!)


 想区の住人が持つ『運命の書』には、それぞれの持ち主の人生の全てが書かれている。

 その持ち主の生まれてから死ぬまでの全てが、こと細やかに。

 だが、あの男との出会いなど、彼女の『運命の書』のどこにも記載されていなかった。


(彼は、一体何者なの…?)


 本来なら出会うどころか、存在すら知り得ない人物が自分の目の前に現れた。


 自分と同じく、奴隷に堕ちた者への同情。

 自らの運命に無い出来事への不安。

 自分の知り得ない人物への好奇心。


 複雑に混じり合った様々な思いが、今の彼女が走るための原動力となっていた。







 屋敷中を探し周ったが、あの男性の姿はどこにもなかった。入ったばかりの奴隷が歩き回っていれば、屋敷の住人に見つかりそうなものだが、誰かが騒ぐ様子もない。皆が休んでる時間で、騒ぎ立てる人がいなかったのは幸と言うべきか不幸と言うべきか。

 だが、騒ぐ者がいないと言うことは、人がいるところには立ち入っていないと言うこと。そして彼は、見るからに外へ出たがっている様子だった(奴隷にされた手前、逃げ出そうとするのは当然ではあるのだが…。)。だとすれば、彼の目指すところは一つしかない。

 女性が辿り着いたのは屋敷の大きな玄関の前。探していないのはここと、この外の他にあり得ない。


(始めからここで待ち伏せていればよかったかしら…。)


 自分の要領の悪さに悪態をつきながらも、走り回って荒ぶっている息を整え、両手で扉を押し、その扉が左右に開かれる。


 扉を開いた先にあったのは、月明かりに照らされた自然豊かな島の風景。彼女にとってはとっくに見慣れた光景。


 そして扉の数歩先に佇むあの白髪の男性の姿。


 男性をようやく見つけたことに安堵し、胸を撫で下ろすが、男性は気づく様子もなく、ポツリと独り言を呟く。


「ここはまさか…島?」


 その呟きから力は感じられない。落胆してるとも、驚愕してるとも、絶望してるとも言えるような力のこもらない声。


「どうしてこんなことに…。あの砂漠の町は…どこに…?」

「あの…。」

「どうすれば…。早く取り返して、姉様を探さなきゃ行けないのに…!」

「ねえ!」


 男性は明らかに動揺しており、冷静さを失っている。女性の声に反応を見せずに独り言を呟き続けているのが、何よりの証拠。


「そうだ、船は!今の時間帯でも出てる船は!」

「待って!!」


 また歩きだそうとした男性を、女性は思わず抱き締めて留める。そこでようやく男性は独り言を止めて、その場で立ち止まった。


 相手はついさっき押し付けられたばかりの人間。しかも相手はこちらの存在に気づいているのかすらも怪しい。そんな相手に、自分がここまで干渉するのは今までなかった。

 奴隷に堕ちたことを受け入れられず、逃げようとするものは今までに何度か見たことはある。その悉くが失敗に終わり、屋敷に戻されて手痛い罰を受けたのだが。

 ただ逃げ出したいというだけなら彼女も「いい加減にしなさい!」と、無理やり連れ戻すだけだっただろう。ここにいる奴隷達だって、好きで奴隷に堕ちたわけではない。なのに一人だけ助かろうなんて虫のいい話、受け入れられるわけがないからだ。

 だが、彼は慌てようは、ただ現実逃避をしたがっているようには見えなかった。

 男性の事情は、今は分かり得ない。だが、今までの脱走者とは違うことはなんとなく理解できた。だからこそ咄嗟に、こんな大胆な行動に出たのかもしれない。

 男性もようやくこちらに気づいたのか、顔だけ振り返り、女性の顔を見据える。

 女性は、男性の二色の眼から目をそらさずに語りかける。


「やっと気づいたわね。この朴念仁。」


 そのまま女性は続ける。


「まず、話を聞かせて頂戴。」


 ~~~~~


 男性は、多くを語らなかった。

 落ち着きは取り戻したようだったが、それでもなお彼は、自分の身の上を積極的に言おうとしなかった。「信じてもらえるとは思えないし、あまり言いふらしていいことでもない。」と言って譲らなかったのだ。

 それでも…。


「問題の無い範囲でいいから、あなたのことを聞かせてほしい。」


 と言ったら、少しずつではあるが自分のことを話してくれた。


 男性の名前はイノセであること。

 とある場所を目指して姉と共に旅へ出たこと。

 旅立ちから程なくして、ファラオの住まうあの町へ立ち寄ったこと。

 ファラオの演説を聞いた後、姉とはぐれたこと。

 そしてそのどさくさ紛れの中で奴隷商人に捕まり、身ぐるみを剥がされてここへ売られたということ。


 取り返すと言っていたのは、その奴隷商人に奪われた荷物の中にあるのだろう。そんなに躍起になる程大切なものとは、一体何なのだろうか。それを本人に聞いても、


「…旅に出るために、父から、借り受けたものです。」


 そうとしか言わなかった。

 だが、それ以上に彼女には引っ掛かる言葉があった。


(父から…ね。)


 その言葉が、彼女の心臓に突き刺さる。


 家族───


 奴隷である自分には縁のないもの。いや、自分でなくても、奴隷にとってはどれだけ手を伸ばしても届かない光。

 同じ奴隷でも、彼は根本から自分とは大きく違う。彼には帰る家がある。自分にはただ働かされて眠るだけの煤けた部屋しかない。

 そして、いずれ赴くあの場所さえも、自分には───


「そういえば、あなたは───」


 イノセの声が耳に入り、彼女は現実へ引き戻される。内心慌てつつも、平静を装って彼に向き直す。


「何?私がどうかした?」

「いえ…。外で引き留められるまで、気づかずに、すみません。あなたの名前は…?」

「あ…。そういえば、名乗ってなかったわね。」


 言われてみれば、自分だけ一方的に根掘り葉掘り聞こうとして、自分の名前を名乗りすらしていなかった。名乗りもせずに不躾なことをしてしまったかと、心のなかで反省する。

 そして反省もそこそこに、彼女は初めて自分の名を明かす。


「ロードピス。私の名前は、ロードピスよ。」

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