新たな門出

姫班 皐月

新たな門出

 立派な幹を持つ大きな木だな、とその表面に手を伸ばした。その樹皮の鱗は、無作為に並んでいるようで、決して支離滅裂とならない自然の黄金比となっている。その身から生えた枝の根元はぷっくりと肉付き良く、長さはゆうに二メートルは超えている。

「こっちへおいでよ」

 ——そんな声が聞こえた気がした。

 そっと、猫と背を合わせて座るように、慎重に、そびえたつ木に背中を預けて座る。手に持つビニール袋が、がささ、と重い音を立て、ぐにゃりと草の上に広がった。ビニール袋の持ち手をぎゅっと握りしめる。決して失くさないように。

 俺は空を見上げた。木の葉から漏れる太陽の光が気持ちいい。時たま吹く潮風が鼻孔をくすぐる。丘の向こう側では、我関せずと静かに波音を立てている。

 深呼吸をする。潮と緑の香りを胸いっぱいに溜め込み、ゆっくりと吐き出した。

「お前、本当に使えないな」

 記憶に新しい、誰かの冷たい言葉が耳の奥で重たく響いた。ねったりと、ねちゃねちゃとまとわりつくように、木霊する。

 うだつの上がらない俺は、常に誰かの足を引っ張りながら、寄生して生き残ってきた。何かミスをする度、それをフォローする誰かがため息をつく。

 最後のミス。損失二億円。たった一つの余計な数字からそれは起きた。運も悪かったのかもしれない。少しばかりの焦りがそういう結果を招いたのかもしれない。今となっては何が悪かったのか、本当にわからない。

 俺のいた会社は波に乗っていた。同じ部署の誰もが、忙しそうに電話とメールで客先とやり取りをし、せわしなくキーボードを叩いて発注書の作成に励んでいた。俺はそんな空気に馴染めずにいた。周囲が忙しいながらも、そこに生きがいを感じ働けば働くほど、俺は客先担当者の名前、注文された商品を間違えるといった細かいミスが増えた。

 その度、俺は電話越しに客先に頭を下げ、時には、上司が俺の役割を担うこともあった。上司の冷たい目を思い出す。いつ見ても慣れないあの目。

 そんな時、担当している小さな会社から、ある一つのメールが来た。大きな発注だった。

 その商品は一つの値段は安いが、十万個もの注文だった。そのため、この案件を成功しさえすれば、ここ最近の俺のミスが帳消しになるほどのものだった。

 だが同時に、客先は急いでいるらしく、できる限り早く届けてほしいとのことだった。落ち着いて取り掛かる必要がある。

 ——これさえ成功させれば。

 その時、俺の席の電話が鳴った。

 話を聞くと、過去に俺が発注した商品に不具合があり、それに関してのクレームの電話だった。俺はその客先の怒鳴り声をよそに、先ほどのメールが頭から離れなかった。できる限り早く届けてほしい。その要望に応えるにはどうすればいいのか——。電話越しに口角泡を飛ばしているだろう声を聞き流しながら、俺は必死に考えた。

 メールだ。俺は急いで同僚に急ぎの案件のことをメールで伝えた。これであの客の要望に応えることができるだろう。俺はほっと息をつき、クレーム対応に二時間を費やした。

「すごいな! 百万個の注文なんてめったにないぞ!」

 称賛する同僚の明るい声に、俺は、巨大な羽虫がずぞぞ、と背を這うような気持ちの悪い感覚を覚えた。

 ——百万個?

 その同僚に、俺は何度も言った。「十万個の発注をお願いします」と伝えたと。「いやいやだって、メールに百万個って書いてるじゃん」と、そのメールを背に同僚は反論する。その騒ぎを聞きつけた上司は冷たい言葉を吐きつけ、俺を退職に追い込んだ。

 潮風がそっと俺を優しく包み込む。ここには俺を咎めるものは何もない。背には俺を支える大らかな大木、丘の向こうに見えるどこまでも続く大海。最高のロケーションだった。

 大事に握りしめていたビニール袋から、それを取り出し、準備を進めることにした。

 木登りなんて何年ぶりだろうか。幼少期にはあった、都心から与太されていくこのような自然は、今は数少ない。手と足でしっかりと幹につかまり、あの枝に向かって進む。数分かけて、俺は作業を終えた。

 幹に体を預け、枝の上に立ちながら、丘の向こうに目を向けた。きらきらと、太陽光を反射する海に目を細める。

 新たな門出にぴったりな景色だった。これから旅立つ俺を、まるで祝福しているよう。

「こっちへおいでよ」

 そんな声を耳に、首に巻き付けた武骨なネックレスを一度撫で、新たな一歩を、俺はその枝から踏み出した。

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新たな門出 姫班 皐月 @naoki0527

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