2

 その建物は、古いながらもごく普通のビルであった。茅野がいた仮眠室や会議室は四階に位置し、二階と三階は居住スペースとなっていた。一階はエントランスホールで、茅野は出入り口から程近い壁に設置されているポストのうちひとつ、203と書かれたそれに自分の名前を見つけた。

「これ……」

「うん。あとでちゃんと案内するし、鍵も渡すよ。君の部屋にあったものは運んであるけど、他に必要なものがあったら遠慮なく言ってね」

「っ、そうじゃなくて」

「詳しいことは君の部屋で伝えるよ。給料とか、その辺もね」

 一転、茅野に話させる気はないらしい。諦めて、東堂の待つエレベーターに乗り込んだ。程なくしてモニターは4を表示し、二人は元いた四階のエレベーターホールに降りる。

「最後にオフィスを案内するね。こっちだよ」

 急かすように扉の向こうへ消えた東堂に、茅野は警戒心を強める。何かを隠しているように思えた。やはり騙されているのではないかと、茅野にとって慣れ親しんだ思考が渦巻く。




 東堂に続いて部屋に入り、茅野が最初に思ったことは、何がしたいのか分からない、であった。

「さて、ここが僕達のオフィス。改めてようこそ、茅野美鶴くん!」

 パァン! と小気味好い音が室内に響く。天井から吊り下げられた、カラフルに装飾された看板には、恐らく東堂の手書きだろう文字で『歓迎! 茅野美鶴くん!』だの『ようこそ暎和出版へ!』だのと書かれている。東堂の手元から飛び出した紙テープが、茅野の黒髪に彩りを添えた。

「……………………な、」

「ふふ……驚いた? 驚いたよね? 実は君が寝ている間に色々と準備していてねぇ」

 東堂はいたずらを成功させた子供のように笑う。挙げ句の果てに空いた手でピースサインまで作っていた。

「あの……これは」

「ほらぁせっかく久しぶりの新入社員だし! 喜んで欲しくてさ! ケーキも買ってあるんだぁ、皆が帰ってきたら一緒に食べようね!」

 ショートケーキとー、チョコレートケーキとー、とケーキの種類を指折り並べる東堂に、茅野はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

 ──もしかして、急いでいるように見えたのは、早くこれを見せたかったからなのか?

 そう考えた茅野は、しかし頭を振って思考を正常に戻す。きっとこの男は、自分の驚いた顔を見て内心あざ笑っているだけに違いない。髪に服にと無差別にまとわりつく色鮮やかな紙切れを払い落とした。

「……入るって言った覚え、ないですけど」

 開封済みのクラッカーが床に落ちる。わざとらしいまでにショックを受けた表情で、東堂が震えていた。

「そんなあ……!」

「自己防衛ができるらしいと分かったんで、そこはありがとうございます。でも俺はそういう戦いだのなんだのに巻き込まれたくないので」

 帰してください。そう続くはずだった言葉は、茅野の唇に東堂の指がぴたり、張り付いたことにより喉元で断たれた。

 東堂の口が、弧を描く。

「そんな寂しいこと言わないでよ」

 声音は落ち着いたまま、変わらない。変わらない、が、会議室で話した穏やかな男はいない。笑顔でクラッカーを打ち鳴らす無邪気な男はいない。ただ、昨夜と同じ、冷え切った青い目が、そこにあった。

 茅野の背中に、嫌な汗が伝う。

「…………ッ!」

「せっかくこうしてたくさん話せたのに、もうお別れだなんて」

 つ、と東堂の指先が茅野の首筋に滑り降りる。

「あんまりに、寂しいじゃないか」

 顎を掬われる。視線がぶつかる。眼前が青に染まる。冷たく、くらく、底知れない青。

「っ、あ」

 何かを言おうとして、絞り出せたのは掠れた音のみ。東堂は微笑んで、両手で茅野の頬を包み込む。触るなと思う余裕すら、なかった。

「言ったろう? 能力者や異形と出遭うことになる、って。君がどれだけ嫌がろうが、いずれ彼らは君を見つけ出す」

 東堂の目が、妖しく細められた。

「この先も隠れたままでいられるとは限らないよ。ついさっき自分の能力を自覚したような君が。たった一人で彼らと対峙して。果たして無事でいられるのかな」

 ゆっくりと、一言ずつ。それは緩やかに、確実に茅野を侵蝕する。

「すぐに殺されてしまうだろうね。……でも、大丈夫」

 手が離れ、青が逸れた。しかし、動くこともできず、目を見開いたまま茅野は息を呑んだ。

「僕が、守ってあげる」

 背に東堂の手が這う。耳元で囁かれたテノールは茅野を甘く誘惑し、訳も分からずすべてを委ねたくなる衝動に駆られた。優しく抱き寄せられた茅野は、無意識のうちに首を縦に振り──


「何やってんすか社長」

 背後からの声に我に返った茅野が東堂を突き飛ばす。「あらら」と間抜けな東堂の声が頭上から聞こえて、茅野は自分が膝をついていることを知った。

夏生なつきくんおかえりー。何って、新人くんとのスキンシップだよスキンシップ」

「……はぁ。よく分かんねっすけど、ほどほどにしといてくださいよ」

「えーっ、その言い方じゃまるで僕が酷いことしてるみたいじゃないか」

「そいつの様子見る限りいいことではないんでしょうよ……」

 応酬は荒らげた息で隠れ、途切れ途切れに茅野の耳に届く。

「おーい、大丈夫かぁ?」

 そう言って背中をさする手は、東堂のそれとは違う、ごく普通の温かな手だった。

「……っ、は……すみま、せ」

「……落ち着け。ゆっくりでいい、はい吸ってー、吐いてー」

 声の主に従って、茅野は咳き込みながらも少しずつ呼吸を取り戻す。顔を上げると、シャツ越しに感じていた熱が離れた。

「よし、もう大丈夫そうだな。立てるか?」

 差し出された手に応じ立ち上がる。茅野を引き上げた男は、垂れた赤髪の隙間から、呆れたような困ったような笑みを覗かせていた。

「ごめんなー。うちの社長、新人虐めが趣味なんだわ」

「…………」

 入ると言った覚えはないのだが。二回目のそれは、心の中に留めておいた。「いじめてないよお」と文句を言いたげな東堂の声には聞こえないふりをする。

「……あの、すみませんでした」

「うん?」

「迷惑、かけて」

 俯く茅野の頭を、男は豪快な笑い声を上げて、わしゃわしゃとかき回す。あまりの勢いに眼鏡がずれた。

「そーいう時は、ありがとうって言うもんだぜ」

 にかっと人懐こい笑顔を見せる男にどうしていいか分からず、茅野は眼鏡をかけ直し小さく頭を下げた。一年前のあの日以来、こんな笑顔を向けられるのは初めてであった。

 男は肩につきそうなほど伸ばした真っ赤な髪を後ろで軽く結わき、耳には片手で数えきれない装飾を所狭しと並べていた。髪色と同じスタジアムジャンパーは腕こそ袖に通っているものの、肩を外して着崩されている。今までの茅野であれば関わりたくないと目を背けるような男だが、助けられたこともまた事実だ。

「……ありがとう、ございます」

 小さく零すと、それでも耳に届いていたようで、男は満足げに笑った。

「よしよし。謝られるよか礼言われたほうがこっちも気分いいしな」

 目の前に差し出された手は、茅野のものよりも大きく、骨張っている。一拍置いて、握手を求めているのだと理解する。

「俺は鵜ノ沢夏生うのさわなつき。よろしくな、新人サン」

 おずおずとその手を握ると、痛みを感じるほど強く握り返される。慣れない握手に落ち着かなさを感じながら、茅野はまた小さく呟いた。

「……茅野美鶴、です」


「いやぁ〜よかった! 僕いっちばん心配してたんだよねえ夏生くんと美鶴くんの出会い! 夏生くん、見た目がちょっとコワーイから」

 知らぬ間に二人の真横にいた東堂が明るく言う。驚いた茅野は鵜ノ沢の手を意図せず振り払うが、気にした様子もなく鵜ノ沢は溜息を吐いた。

「社長、ちゃんとこいつに説明したんすか? わけわかんねーみたいな顔してたけど」

「したした! ね、美鶴くん!」

 東堂に同意を求められるも、ほとんど鵜ノ沢の言う通りである。しかし東堂に話を聞いたのも事実で、否定も肯定もできず茅野はまばたきを繰り返した。

「あー……大事なとこちゃんと伝わってねえ感じか。社長は嘘言わなくても肝心なところ話してくんねえから」

「そうそう、シャチョーウソツカナイ」

「そーじゃなくて……はあ。まあいいや」

 再び溜息を落とし、鵜ノ沢はオフィスの入口すぐにあるソファーを指差した。

「茅野、そこ座って待ってろ。社長に聞けなかったこととか、俺の知ってる範囲で話してやっから」

 そう言ってドアを挟んで反対側のパーテーションの陰に消えた鵜ノ沢を見送り、茅野はその言葉に素直に従った。東堂もまた斜向かいのソファーに腰を下ろし、にっこりと微笑みながら茅野を見つめる。居心地の悪さを感じつつ、茅野は鵜ノ沢を待った。




 盆に乗せたグラスを一つずつ手に取り、鵜ノ沢はピッチャーを傾けて茅野の前で注ぎ入れる。澄んだブラウンがローテーブルに置かれると、独特な麦茶の香りが茅野の鼻をくすぐった。三つすべてのグラスに注ぎ終えた鵜ノ沢は、茅野の正面に座りながら自身と東堂の前に置く。

「で、お前はどこまで聞いてんだ? 能力って言って分かるか?」

 真っ先にグラスを傾けて、鵜ノ沢は問う。茅野は黙って頷いた。

「そっか。したら、戦いがどうとか他の能力者がーとか、結社がーとか。そのへんは?」

 耳慣れない単語に、茅野は首を傾げる。鵜ノ沢は一人納得した様子で、膝に肘をついた。

「そこか。社長のことだし、ここに連れてきた理由も言ってねえんだろ」

「うちの社員になって欲しいってちゃんと言ったもん」

「そーいうのは理由って言わねえんすよ」

 がしがしと頭を掻いて、鵜ノ沢は茅野に向き直る。東堂は膨れたままそっぽを向いた。

「お前も何かしらの能力者なんだろ? 世の中そういうのが結構いて、そいつらは結社っつーのを組んで戦ってんだ。結社にはそれぞれ目的がある」

 鵜ノ沢は人差し指だけを伸ばし、茅野に見せつける。

「例えば『暴力』。こいつらは自分達以外要らねえっつって、能力を持つ持たないに関わらず襲ってくる」

 次いで、中指が立つ。

「『断罪』ってのがそいつらと似てるようで違ってて、能力主義者みたいなやつらだ。能力者じゃないやつを無能だ罪だとかって言って、積極的に殺してる」

 殺す、と聞いて強張った茅野に、鵜ノ沢は眉尻を下げる。

「安心しろ……とは言えねえけど、こいつらはほぼ壊滅状態みたいなもんだ。俺らもだけど他の結社も危険視してて、一時期はそこと同盟結んで『断罪』を無力化した」

 薬指が立つ。

「同盟組んだのが『警察』。こいつらは自分からは手ェ出さねえけど、やりすぎたり一般人に危害を加えたやつらを取り締まってる。まさに警察だな。こいつらには出会い頭に殺される、なんてことはねえ。そういう意味では安心していい」

 警察にも能力者がいるのか。茅野の疑問は口に出てしまっていたらしい。鵜ノ沢は一息を挟んで続ける。

「実際、こいつらは警察官なんだとよ。能力者ん中じゃ知ってるやつらもいるけど、世間にはその部署は隠されてる。んで、殺し殺されが当たり前な能力者同士の戦いをマスコミとかに隠してくれてんのもここ」

 知られてたらこっちも動きにくくなるしな、と鵜ノ沢は目を閉じた。一度は解けかけた茅野の緊張が再び強まる。殺し、殺されるのが当たり前の世界。自分の生きてきた一年が、奇跡的なもののように思えた。

 ──すぐに殺されてしまうだろうね

 東堂の声が鮮明に蘇り、茅野は身震いをした。それに気付いて、だからこそ鵜ノ沢は淡々と話す。

 小指が立つ。

「『黒衣』っていうよく分からんやつらも、役割は『警察』と似てっかな。こいつらもふっかけてきたりはしねえ。戦いで壊れた建物直したりとか、死体片したりとか。得体は知れねえが、敵視はしなくていい」

 手が、開かれた。

「他にもまだあるが……うちは『調停』って呼ばれてる。それでだいたい分かると思うけど、目的は戦争を止めること。んで、それまでの被害を最小限にとどめること」

 鵜ノ沢は手を下ろし、麦茶を呷った。空になったグラスに再度注ぎ入れ、テーブルに置く。

「一応、社長は『調停』のリーダーだ。この人が戦争止めたいっつって、それに俺らがついていってる感じ」

「一応って何さ」

 また膨れている東堂を気にすることなく、鵜ノ沢は茅野を見る。

「一気に話しちまったけど……ここまでは大丈夫か?」

 こくりと頷いた茅野に微笑み、鵜ノ沢は伸びをした。


「……で、お前はいつ覚醒した? 二日、三日前くらいか?」

 茅野がそれに答える前に、東堂が口を開いた。

「ふふ……驚くなかれ夏生くん。美鶴くんの覚醒は一年前、だよ」

「…………っ、はあぁ!?」

 ガタンとテーブルを蹴って立ち上がった鵜ノ沢に、茅野の肩が跳ねる。東堂は手を組んだまま、鵜ノ沢の様子をにこにこと眺めていた。少しの間立ち尽くしていた鵜ノ沢は「まじか……」と呟いて、ソファーにどかっと座り直す。

「驚かせて悪いな。お前みたいなは初めて見たからよ……」

 咄嗟に倒すまいと押さえていたグラスに、茅野はそのまま口をつけた。鵜ノ沢は再度頭を掻いて、グラスの中身を一気に飲み干した。

「……フツーは一週間しないうちに、どっから嗅ぎつけてくるんだか知らねえけど、結社のほうから勧誘が来るもんなんだよ。放っておいて敵にするより味方を増やせ、でなければ障害になる前に殺せ、ってな」

 鵜ノ沢は何度目かも知れない溜息と共に、「よく生きてたな……」と感心とも呆然とも取れる表情を茅野に向けた。

「ま、あんまり俺ばっか話しててもつまんねえだろ。なんか質問あるか?」

 尋ねられた茅野は、少し考えてから答える。

「……鵜ノ沢、さんへの質問とは、ちょっと違うかもしれないんですけど」

「おう」

「なんで、東堂……さんは、俺の覚醒した時期を知ってたんですか」

「あー……社長、聞かれてますんで答えてください」

「夏生くん、分かってるくせに僕に言わせるんだ?」

 くすくすと笑い、東堂は茅野と目を合わせる。分かってるから言いたくないんだ、という鵜ノ沢のぼやきが聞こえた。

「当然、調べたんだよ。一年前の件、その後の周りの人達の反応も知ってる。君が生まれてから今までどういう生活を送ってきたか、家族構成とかそのあたりもね」

 愕然とした。この男には、始めからすべて筒抜けだったというのだ。出会った時点で、抵抗する術など無いに等しかった。そう理解してしまった茅野は身を震わせる。鵜ノ沢は哀れむような目を向けて、茅野を慰めた。

「社長はこの通りよく分からん人だけど、それでも他の結社よりうちはマシだと思うぜ。話し合いで解決できんならそうしたいしな。それに」

 真剣な顔で、鵜ノ沢は言う。

「ハナっから結社っつーもんがある以上、一人でいるのはかなり危険だ。仮でもいい、うちに居とくのは正解だと思う」

「…………」

 何となく察していたことを、明確に突きつけられる。茅野に選択肢は残されていなかった。始めから、選択肢などなかった。

「……でも、東堂さん、は俺の荷物を運んだ、って……鍵がどうとか」

「そこも説明してなかったのか……ガバガバすぎっすよ」

「あはは」

「あははじゃねぇ」

 緊張感のないやりとりに、一人置き去りにされた茅野はただ首をひねった。

「ドンパチやりながら能力持たない人間と住んでたら、そいつが巻き込まれて大変なことになるだろ。だから大抵は結社に住み込みか、一人暮らししてんだよ。正直ここに住んでたほうが安心だぜ。他のやつがいれば、代償の面倒も見てもらえる」

「代償……?」

「ほんっと何も言ってねえのな社長!」

 鵜ノ沢は今日一番の溜息を吐いた。その隣で、東堂が笑い転げている。茅野は見なかったことにした。

「無理やり能力使いまくると、自分にダメージがくるんだよ。踏ん張りすぎると血管が切れるみたいなやつな。そういうことなかったか?」

 茅野は思い出した。今朝、東堂に言われて能力を使用した時。そして、昨晩自身が倒れ伏したこと。会議室を出る前の、東堂の言葉。

「……目眩、が」

「そうか。お前はそれが最初に来るのな」

 自分でやった。茅野は東堂の言葉の意味をようやく捉えた。つまり、東堂に『来るな』と思えば思うほど、自分の首を締めていたということらしい。

 鵜ノ沢は、改めて真剣な顔をする。

「限界までいくと最終的には能力の使い過ぎで死ぬ。けど、そこまでいかなくても代償ってのはあって、出やすいのは人によって違ったりするんだ」

 重ねられた死の可能性に、茅野の表情は不安に塗り潰される。目を伏せた茅野に、鵜ノ沢は明るく声をかけた。

「重い話ばっかでごめんな。飯にしようぜ。住み込みの良いところは、三食飯付きなところだしよ」

 立ち上がって再度パーテーションの向こうに消えた鵜ノ沢を目で追うと、奥の壁掛け時計が視界に入った。針は12時45分を指している。

 思い出したかのように、腹の虫が主張を始めた。

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