第4章

第13話 ヘンリーの秘密

   1


 ルーヴィックが飛び起きると、そこは小舟の上だった。

 心地のいい風には微かに花の香りを乗せていた。周囲は微かに霧が立ちこめるが、日の光があるため暖かな陽気だった。小舟は穏やかな川を流れとは反対に昇っていく。

 咄嗟に体を触り確かめるが、特に目立った傷や痛みはない。

「あなたは、懲りない人ですね」

 背後から声が聞こえ、振り返るといつの間にかモルエルが小舟の縁に腰を掛けて優しく微笑んでいた。

「あんたは死んだんじゃないのか?」

「私たちにとっての死は、あなた方の死とは少し違うのですよ」

「てっきり消滅したと思ってた」

「消滅してますよ」

 クスクス笑いながら話してくるモルエルに懐かしさを感じながら、周囲を見渡した。

「いつかはこうなると思ってたが、今回だったとはな。まさか、俺の爺様が戦ったイギリス野郎の土地で死ぬことになるとは思わなかったけどな。爺様に会ったら、なんて言われるか。まぁ、あの人は地獄に落ちてるだろうから、会うことはねぇか・・・・・・この行き先は天国だよな?」

「この船の行き先は、まだ決まっていません」

 その言葉聞いてゲンナリする。思い返せば、確かに不道徳なこともしてきた。ただ、エクソシストとしての頑張りを評価してもらってもいいように思う。

「マジかよ。自分がぶち込んだ囚人のいる刑務所に行くのはごめんだぜ」

「あなたは頑張ってくれましたものね」

 相変わらずのモルエルに小さくため息をつく。

「でも、もう少しだけ頑張ってください」

 モルエルは小舟の縁から、手を伸ばして水面を触る。

「私はもう何もしてあげられませんが、今回はまだあなたの力が必要です」

「あんたに何かしてもらったことなんてあったか? ・・・・・・冗談だよ。睨むな。力がいるって言われてもな・・・・・・俺、死んだんだよな?・・・・・・死んで、ない?」

 微笑みが返ってくるだけ。

「門が開かれれば、指揮官の戻った悪魔達が人間界に押し寄せてくるでしょう。そして審判の日が訪れる。人間にできるのは、門を開かせないようにするしかありません」

「だが、門の場所も分からなければ、これからどうしたらいいかも分からない。悪魔を倒すのには失敗した」

「ヘンリーに聞いてみなさい」

「なら、俺の力でここから念でも送ってみるかな」

 しばしの沈黙。モルエルは表情を変えない。そして水面から手を離し、濡れた手を差し出した。

「ルーヴィック。あなたにはお願いばかり。でも、これが最後。あなたに、祝福を」

 彼はモルエルの手をしばらく見つめ、小さくため息をつくと、その手を取って手の甲に口づけした。


   2


 いきなり目を覚ましたルーヴィックにヘンリーは驚き、そして呆れたように声を上げる。

「あなたは、ゆっくり休むという言葉を知らないのですか?」

 ベッドから少し離れたところで正装をしたヘンリーが立っていた。

 見渡すとそこはヘンリーの部屋。ベッドに寝かされ、包帯などで手当てをしてある。近くの台には血の付いた布や器具、薬品が置かれていた。

「お前がやったのか?」

 台の上に向いた視線に気付き、ヘンリーが首肯する。

「ちゃんと消毒したんだろうな」

 少し声はかすれているが話せる。

「しましたよ。失礼な」

「感染症なんてごめんだぜ」

「あなたね。助けてもらったんだから、まずはお礼でしょう」

「馬鹿野郎。医者でもねぇ素人に体いじられて、礼なんて言えるか」

「この辺りのヤブ医者よりも腕はいいですよ。人間に処置したのは初めてですけど」

 なんだと! と起きて早々文句を垂れるルーヴィックにため息を吐きながらも安堵する。

「起きて早々、それだけ話せるなら大丈夫そうですね。でも、無理はなさらない方がいいですよ。今は麻酔が効いているので、痛みがないでしょうが、酷い怪我でした。でも、間に合って良かった」

 意識を失う前の光はヘンリーによるものだったらしい。傷ついたルーヴィックを背負って、自室へ運んで傷の手当てをした。

「どれくらい意識がなかった」

「丸一日です」

「そんなにもか?」

「バカ言わないでください。永遠に目覚めなくてもおかしくないレベルですよ。そうでなくても、最低でもあと数日は無理だと思っていました」

 制止するヘンリーの手を振り払いながら、起き上がる。自分の体でないようなふわふわした感覚と、鈍い痛みが見え隠れする。

「何があったんですか?」

 ヘンリーの問いに、ルーヴィックは大学でのことを話した。ヘンリーは黙って聞いていたが、火の矢の辺りで驚きが表情に出た。

「あなたのコートの状態を見て驚きましたが、あのコートの守りを破れる者が敵にいるとは思いませんでした」

 そう言いながら、脇に置かれたルーヴィックのコートだった残骸を見せた。それを手渡されたルーヴィックはため息をつく。

「コートのない状況で、耐えたのは奇跡だな」

「まさしく。ジャケットの胸ポケットに入ってたこれがギリギリ守ってくれていたのでしょう」

 ヘンリーが見せたのはリチャード・カーター教授の持っていた護符だった。そういえば、胸ポケットに入れたまま忘れていた。

「あなた、いつ祝福をされたんですか? 護符を施した人から直接受けなければ効果はないのですが・・・・・・」

 首を傾げるヘンリーに、教会でユリアと分かれる時のことを思い出す。恐らくその時だろう。そう話すと、ヘンリーは「まさに奇跡ですね」と声を上げて笑った。

「それで、火の矢を放った者を見ましたか」

 首を横に振る。

「でも、あなたの中で仮説はあるのでしょう。あなたの見解を教えてもらえますか?」

「ユリアの護符はちゃんと効果があったが、教授はやられた。そして、あの矢は神聖な像を破壊でき、俺のコートを焼いた・・・・・・加えて言うと」

 ルーヴィックはコートに鼻を近づける。

「悪魔どもの硫黄の臭いがしない。つまり悪魔じゃないって事だ」

「神聖な力を無効化できるのは、神聖な者だけです」

「つまり、この事件には天使が糸を引いている」

 重い空気が支配する。あり得ない仮説だが、否定できる反論をヘンリーは持ち合わせていない。そして、短い間だが、ルーヴィックと行動して彼の勘や予想の鋭さは知っている。

 ヘンリーは「そうですか」と一言言って黙り込む。

「違和感はモルエルが殺された時からあった。悪魔に簡単に殺されるとも思えないが、あそこには硫黄の臭いがしなかった。そして教授の死体にも」

 ルーヴィックはよろよろと室内を歩き、自分の荷物が置かれるテーブルまでたどり着く。ヘンリーが拾って運んでくれたのだろう。落とした武器も全部そろっていた。彼は愛用の拳銃を手にすると、隣のイスに腰を掛けながら、ヘンリーに銃を構えた。

「さて。それじゃあ、次はこっちの質問に答えてもらおうか。何者だ?」

「どういう意味でしょう?」

「お前の行動には引っかかるところはいくつかあった。ウィンスマリア教会に行くのを避けてたな。俺と一緒に行きたがらなかった」

「・・・・・・実は、アントニー神父とは喧嘩をしたことがありまして」

 歯切れの悪い回答だった。

「それにリチャード・カーター教授。お前、知ってたな」

 ヘンリーが口を開こうとした時に、ルーヴィックはくしゃくしゃの紙を投げ捨てる。それは丸められていたであろう便せんだった。そしてそこには「ヘンリー」の名前が書いてある。

「教授の研究室に捨ててあったよ。中身まで見つからなかったがな。それはお前の字だ。一緒に飯を食った時のサインと同じ。さぁ、話してもらおうか・・・・・・」

 真っ直ぐ睨むルーヴィックの視線を受け止めるヘンリーは、しばし沈黙の後、小さく息を吐いてそばのイスに腰を下ろす。

「そんなに睨まないでください。視線で穴が空いてしまいそうだ・・・・・・さすがですね、ルーヴィック。話さなければとは思っていましたが、どこから話していいものか・・・・・・」

 ヘンリーは目を伏せて、話し始める。

「まずは私の立場からお話ししましょう。私はあなたと同じエクソシストです。人間のために尽くしてきました。そしてその気持ちは今も変わりません。あなたは私を疑っているのでしょう。でも、私は敵ではない。これだけは、はっきり申しておきます」

 それでも疑いの目は変わらない。ヘンリーは少し寂しそうな顔をしてから、続ける。

「この国が、ルシフェルの煉獄につながる門を隠し、そして守ってきたことはご存じですか?」 

 首肯するルーヴィックを確認してから続ける。

「あれは人の手には余る物。災いしかもたらさない。だから、門の破壊を試みたことがあります。アントニー神父とは、その時に対立して以来、会っていません」

「そんな簡単に門が破壊されるとは思えんな」

「その通りです。結局、破壊する手立てがなく断念しました。しかしその結果、私は祖国から要注意人物になったわけです」

 ロンドン市警という肩書きは、彼を監視するためものらしい。門の破壊は看過できないが、貴重なエクソシストは失いたくない。とのことだった。

「リチャード・カーター教授は、私の協力者でした。一緒にあの門を研究したんです。そして教授は鍵を発見して、刻まれた文字やさまざまな文献を読み解いた。そこで二つの事が分かりました。鍵を起動させるには『ミカエルの指輪』が必要なこと、そしてその指輪と鍵があれば地獄の門を元あった無の空間へ戻せることです」

「あの指輪があれば地獄の門をこの世界から消せる?」

「えぇ。だから作ってもらったのです」

「作ってもらった? 何をだ?」

「ミカエルの指輪に代わる物を」 

「お前が? 誰に頼んだ?」

「あの指輪は神より与えられし神具です。人間では作れない。しかし天使なら、似たものを作れると思いました。モルエルはそうしたアイテムを作るのが上手でしたから。お願いしました。あなたとモルエルが出会うもっと以前に、モルエルと一緒にある事件を解決した事があり、彼女のことは信頼していました」

 鍵の出現で悪魔達が動くのは時間の問題だった。そのため、ヘンリーはアメリカへ渡りモルエルに事情を説明し、ミカエルの指輪の代替品をお願いしたのだ。もちろん、最初は首を縦には振ってくれなかったが、悪魔の活動が本格的になる前の、今のタイミングしかないと粘り強く説得した。結果、モルエルは一度しか効果が発揮できない指輪をヘンリーに用意したという。予定では指輪を持ち帰り、カーター教授と合流し、悪魔達が動く前に門をこの世界から消しさる予定だった。

 しかし、予想外のことが起きた。指輪をもらったその夜。モルエルが何者かに襲撃され死亡したのだ。自分も安全ではないと知ったヘンリーは、カーター教授に手紙と共に指輪を送った。手紙には、指輪で鍵が起動するかを確認し、起動したらこの二つを別々に保管して、自分(ヘンリー)を待つことを指示してあった。そして、悪魔の気配が近づき、身の危険を感じた時には、アントニー神父に全てを打ち明け保護してもらうように書いたという。

「どうしてお前はアメリカに残った?」

 ルーヴィックの問いに、ヘンリーは力なく笑う。

「モルエルが、あなたに力を求めるよう助言をしてくれていた、というのが一つ。そしてもう一つは、あなたをモルエル殺しの犯人だと疑っていました」

 ルーヴィックが感じたように、ヘンリーも彫刻となったモルエルの現場を見た時、硫黄の臭いがないことに気付いた。悪魔の仕業ではないかもしれない。それにイギリスの悪魔の動向には注意を払っていた。ここまで来ている可能性は低い(もちろんゼロではない)。そこでヘンリーが疑いの目を向けたのが、モルエルとの会話で出たルーヴィックというエクソシストだった。優秀な悪魔祓いであり、何より夜に会うとモルエルから聞いていた。

 仮にルーヴィックが犯人だとすれば、目的を探り、必要なら人間でも手に掛ける覚悟だった。

 しかし、彼を調べるほど、犯人とは考えにくかった。だからこそ、モルエルが信じたルーヴィックを信じることにした。あの船で話しかけたのだ。

 彼が犯人でないとすれば、天使を殺すほどの敵を相手にする必要がある。正直、一人で戦うことが不安だった。帰国後、計画は中止して、アントニー神父の元へ行き、全てを打ち明ける気さえあった。だが、ロンドンに着けば教授が死んでいた。鍵と指輪は行方不明。

 だからルーヴィックが指輪を見つけた時は舞い上がりたくなるほどうれしかった。あとはレイ・カーターから鍵を受け取りさえすれば、門を地上から消せる。

 そこまで話して、ヘンリーは一息つく。

「実は、こっそり指輪を拝借して、レイ君と合流。そのまま門を消しに行くつもりでした。でも、あなたは寝ない方ですから、隙がありませんでした。なので予定を変えて、まずは鍵の確保に専念しようとしたわけです。鍵を持ち帰ったときに、あなたに全てを打ち明かし、改めて協力してもらおうと考えていました。バカでした」

 ヘンリーは懐中時計を確認すると立ち上がり、部屋の隅に置かれた傘を手に持つ。ステッキ代わりに紳士が持つ黒い傘。取っ手には繊細な装飾が施され、持ちやすく工夫された形状だった。

「どこに行く気だ?」

 コートを片手に掛けるヘンリーを呼び止める。彼は振り返り上品なトップハットを被ると微笑む。美麗な顔つきのヘンリーの微笑はモルエルを思い出させるものがあった。

「私はこの状況を作り出した責任があります。最後に、敵が悪魔だけでなく天使もいることが聞けて良かった。対策を考えなければ」

「何の話しだ?」

「ごめんなさい、ルーヴィック。さきほど、ウィンスマリア教会が焼け落ちました」

 ルーヴィックは驚いて目をむく。

「今、見に行ってきたので間違いありません。はっきりとは分かりませんが、アントニー神父は亡くなった可能性が高い。悪魔達にあの神父が負けるとは思えませんが、天使が加担しているとすれば、納得です」

「なら指輪は?」

「指輪だけではありませんよ。私は愚かです。指輪は、あなたが襲われた晩に奪われたとばかり思っていました。だから、レイ君に鍵を持ってウィンスマリア教会へ行くよう指示をしました。つまり、指輪と鍵を同じ場所に集めてしまったわけです。詳細は分かりませんが、おそらく両方とも奪われたのでしょう」

「なら・・・・・・」

「えぇ、両方を手に入れれば、次にする事は一つ。門の開放です。でも、そんな簡単に奴らの思い通りにはさせませんよ。ジョンブルのエクソシストを甘く見ないでもらいたい。何してるんですか?」

 格好を付けたヘンリーをよそに、ルーヴィックは自分の銃や道具箱の中身を確認し始めた。

「まだこのイギリスがあるってことは、手遅れになってないって事だ。なら、まだできることはある」

「その体で行くつもりですか?」

「エクソシストだからな・・・・・・それに門の開放を阻止できなきゃ、終わりだ」

「その傷では無理です」

「お前らみたいなお茶ばっか飲んでる坊ちゃんには大怪我だろうがな、俺たちみたいな荒野育ちにとったら、こんなのはかすり傷って言うんだ。覚えとけ」

「これだからコーヒーなどという泥水のような物を飲む野蛮人は」

 自分の鞄から着替えを出してノロノロ着替えるルーヴィックを見て呆れ、そしてどこか安堵したような表情を見せた。

「お前にはいろいろ言いたいことがあるし、何発かぶん殴ってやりたいが、今は貴重な戦力だ。もし足手まといになるようなら、俺がお前の手足引きちぎって悪魔どものエサにしてやるから、死ぬ気で戦えよ」

着替えが終わり、近づくルーヴィックはヘンリーに威嚇するように言う。それをヘンリーは変わらず「はいはい」と軽く受け流した。

「まずは、あなたの薬が切れると思うので、痛み止めを渡しておきます」

 ヘンリーはテーブルの上の薬瓶をルーヴィックに手渡す。それを乱暴に腰の道具入れに押し込んだ。

「いいですか、あなたの体は麻酔で動けているだけです」

「お前は俺のお袋か。さっさと行くぞ」

 部屋を出ようとするルーヴィックを傘の柄で遮るヘンリー。意味ありげに笑みを見せる。

「その前に、そんな粗末な恰好をしていくつもりですか? 最後の戦いになるかもしれません。イギリスのドレスコードはご存じで?」

 ヘンリーがカーテンで仕切られた場所を引く。

「あいつらに、アメリカ流の乾杯の仕方を教えてやるか」

 ルーヴィックの牙をむくように笑った。

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