第2話 相棒現わる

   1

 天使と悪魔の戦いは遥か昔の話のこと。

 天使を率いる大天使ミカエルと悪魔を従えた堕天使ルシフェルの戦いは、ミカエルによってルシフェルが地獄の底(コキュートス)より更なる深い氷の煉獄に押し込められたことで、一旦戦いは終結した。ルシフェルを失って以来、悪魔は天使と睨み合った膠着状態が続く。表向きでは。

 追放された悪魔達はいつだって逆襲の機を狙っている。その攻防は水面下で常に繰り広げられたが、それでも互いに殺し合うほど愚かではなかった。悪魔達にとっては、ルシフェルのいないまま戦争を起こすことが無謀であると理解しているからだ。つまり天使が死ぬことなど『無い』に等しかった。

 今回のような表だった殺人(天使だが)は皆無だ。

 天使と悪魔が何かを企み、行動する時は大抵、天国と地獄の中間にあるここ。つまり人間界でせめぎ合うことが多い。ルーヴィックは、そういったオカルト的なのを専門にする捜査官だった。もちろん表だってそう名乗っているわけではないし、正式な任を受けているわけでもない。天使と悪魔は人間が思っている以上にこの人間界に来ているが、それを知る者はごく僅かなのだ。ルーヴィックも、以前は普通の捜査官だったが、偶然巻き込まれてしまい、専門にするようになった。

 人に見えないようなものを相手にするのだ。どれだけ頑張っても割に合うことはない。周囲からは変人扱いされ、立場はいつだって窓際。解決したところで表に出ることは滅多にない。おまけに相手は普通の犯罪者に比べて、遥かに強力で危険が高いときている。彼自身、よく今まで生き抜いてきたと自分を褒めてやりたい。


 古く小汚い、何の彩色もない作業場がルーヴィックの寝室だった。ここで悪魔との戦いに必要な物を用意し、調査する。もちろん捜査官として拠点となるビルがあり、そこには彼のデスクもある。しかし、誰も彼の話など信じないのだから、欲しい物は自分で用意するしかない。ただ、捜査官の利点は情報の多さ。集まってくる膨大な情報は、普通に生活していては手に入らない。

 彼は洗面台に向かい久しぶりに髭を剃った。

 正面の鏡に映る自分を見てげんなりする。

 酷い顔だ。

 無精ひげが無くなったことで威嚇するような獰猛さが薄れ、肉の落ちた頬に青白い肌が彼の幼く病弱そうな雰囲気を一層際立たせた。

 この不健康な肌と顔つきの原因はハッキリしていた。今回の捜査を始めて以来、約一週間。彼は一睡もしていないのだ。寝たくないわけではない。寝ようとは思うが、することが多すぎて寝る暇がない。

 まるで死人のような顔を摩りながらルーヴィックは洗面所を後にする。ベッドの上には旅行カバンが置かれ、着替えが入れられている。彼は(おそらく他人が見たら背筋をゾッとさせるであろうほどに)壁に貼り付けられた無数の写真や記事、資料、そしてそれらの関係性をクモの巣のように繋いだ紐を確認し、乱暴に外してカバンに突っ込んだ。

 最後に入れる一角、そこには一人の人物についての資料だった。

名前はリチャード・カーター。神学についてロンドの大学で教鞭を振るっており、本もいくつか出している高名な人物だ。年齢、出身、住所、経歴、研究内容など時間が許す限り全て調べつくした。それでも彼についての調査は十分とは言えなかったし、彼の著書は結局二冊しか手に入らず、他の書籍を読んでおくことができなかった。

彼はモルエルが死んだ晩から、リチャードについて調べた。彼に残された唯一と言っていい手がかりなのだから。彼は深夜にもかかわらず、必要な情報を得るため、思いつく全関係部署の担当を叩き起こしてまわったが、モルエルが何のために彼の記事を持っていたのかは、ハッキリとは分からなかった。

 もう少し考えに浸りたい気持ちを抑え、彼は全ての資料をしまうと、作業台の方へ歩み寄る。

 壁に寄せられた長テーブルの上には様々な機材や物が無造作に置かれており、僅かに片づけられた空間に武器が置かれていた。ルーヴィックはセミオートの拳銃を左脇のホルスターに、シングルアクションのリボルバーを背面の腰のホルスターに収める。いくつかの空の箱弾倉に、テーブルの上に転がる弾丸をはめ込む。退魔の銀を主に使い、彼なりにいろいろと混ぜ合わせた自信作だ。さらに今回の弾丸にはモルエルから流れ出た血も混ぜてみたが、どれほどの効力を持つかは不明。

 装填していると一つ弾丸が残ったので、ベルトのバックルの隙間に押し込む。いつもの習慣だ。彼にとってはお守りのようなものだ。装填し終わった箱弾倉を右脇のホルスターにしまった。それからカバンと腰に掛けた皮の道具入れにテーブルの上に置いた武器や物を投げ込む。聖水のアンプルに聖油の小瓶、天使の涙から生成した塩(どうやって涙を採取したかは企業秘密だ)の瓶。魔除けのペンタグラム。銀の杭を数本。聖書は持っていこうと思ったが、荷物がいっぱいだったのでやめた。

 カバンを閉めるとルーヴィックはジャケットを羽織り、守護の印のペンダントを首にかける。

 懐中時計を確認するとそろそろ出なくてはならない。カバンを手に、扉にかけられた焦げ茶色のトレンチコートを羽織りいつものようにツバ広の帽子を手に取ったが、今回は置いておくことにして元の場所へ戻す。最後に部屋を一瞥してから外に待たせた馬車へと向かった。


   2


 船で最短でもイギリス・リバプールへは二週間はかかる。

 ルーヴィックは今、イギリス行きの船に乗っていた。カーター教授に会いに行くためだ。持ってきた資料の整理などはこの数日で終わってしまい、今は手持無沙汰になっていた。久しぶりに睡眠をとることができたが、事件について気になることや乗り慣れない船の揺れのせいで熟睡できずにすぐに目を覚めた。そしてそれ以上に、気分が悪い。

 どうにも海を渡るという行為に変な感じがし、落ち着かない。ルーヴィックはフラフラしながら通路を進み、外へ出る。海からの潮風が突き刺すような寒さと共に彼の体をすり抜けていく。さすがに凍えそうな寒さの甲板には人は少ない。

 彼は手すりに身を預けて海を眺める。少し気分が良くなった。ただ海を見る彼が何を考えているのか……。事件について考えているのかもしれないし、もっと他の事を考えているのかもしれない。または何も考えていないのかもしれない。一つ分かるのは、寒さを感じていないわけではないこと。その証拠にコートの襟をしっかりと立てている。

「さぶっ」

 しばらくの間、感情も捨てたように海を見ていたルーヴィックは、急に気付いた様に口から出た。

「あの~」

 帰ろうかと踵を返そうとしていた時、ルーヴィックは呼び止められ動きを止める。今まで気づかなかったが、扉の所に一人立っていた。

 そこには驚くほどに端正な顔つきの者がいた。持っている上質な傘を杖の代わりにしており、頭にはトップハットを被る、いかにも品の良さそうな出で立ち。しなやかで柔らかそうな金髪の前髪はウェーヴして顔端を伝う。筋の通ったハッキリとした目鼻立ちに、ツンと先がとがるような顎。一瞬、男か女か分からなったが、タキシードに似た服装や話し方、仕草などから男と判断した。むろん断言するには目の前の者の裸を見るほかないだろう。

「ルーヴィック・ブルー連邦保安官?」

「捜査官だ。間違えるな」

 ルーヴィックは笑みを見せながら近づく目の前の男の発言を訂正した。疑心の眼差しを向けるルーヴィックに、男は気付き慌てるように口を開く。

「失礼、私はヘンリー。ヘンリー・プリーストと言います」

 そう言いながら、ヘンリーはルーヴィックの隣に立つ。

「少し早いですが、イギリスへようこそと言っておきます。ようやく粗暴で野蛮なアメリカを後にして、祖国へ帰れると思うとホッとします」

「何者だ?」

「ロンドン市警です。仔細あって今回、アメリカに来てました。あなたの噂は聞いてます」

「いい噂ならいいが」

「あぁ、あなたにいい噂があるとは存じませんでした……冗談です」

「構わないさ。しかしロンドン市警には心から同情する。どうやら人員が足りないようだな。女みたいなナヨナヨした奴でも警察になれるとは……冗談だ」

 あいさつ程度のやり取りを交わして、二人は一緒に船内へと戻る。

「それで? ロンドン市警様が何の用だ?」

 ついてくるヘンリーにルーヴィックは訊ねる。

「それはこちらのセリフですよ。ルーヴィック。一体、ロンドンに来て何をなさろうとしているのですかね?」

 初対面でいきなりファーストネーム、しかも呼び捨てとはいい度胸だ。

「ではヘンリー。こう答えよう。産業の頂点に君臨する偉大なイギリスを一目見ようと訪れる外国人は、そんなに珍しいか? それとも、諸外国からの訪問者はお嫌いかな?」

「まぁ、嫌いではありませんよ。ただ止めどなく移民を受け入れるような節操なしではないだけです」

「紳士淑女の皆さんには外から来た人間の空気は合いませんかな?」

「元々が植民地の寄せ集めでは、そこら辺が疎くなるのは仕方ないですね。やはり紅茶を飲まないような文化では、気品は養えません」

「税金の高い紅茶なんざ飲めたものじゃない」

「あぁ、薄い泥水のようなコーヒーばかりでは、味もわからなくなるでしょうね」

 なんとも人を小馬鹿にした、ああ言えば、こう言う奴だ。

「うー……女の尻に国が敷かれているようでは先が思いやられるな」

「いえいえ、国のトップが容易に暗殺されてしまうような国に比べれば」

 言葉を交わす度に一歩ずつ近づき、しまいには睨み合うような形になっていた。

「このままあなたと話していたい気持ちはありますけど、そろそろ本題に戻りませんか?」

「むしろこうしよう。俺は部屋に戻るから、お前は来た道を引き返す」

 ルーヴィックはヘンリーの返事も聞かずに通路を歩きだす。

「それはあなたの口から出た言葉で最もそそられる提案ですが、損をするのはあなたですよ」

 背後からヘンリーの声が聞こえたが、振り返ることもなく手を振って見せる。だが、ヘンリーの口から出た次の言葉は、ルーヴィックの足を止めるには充分だった。

「リチャード・カーター教授」

 ゆっくりと振り返ったルーヴィックの視線の先は、先ほどと同じ場所にヘンリーが薄ら笑みを浮かべて立っていた。

「私なら、お役に立てる」

「何者だ?」

「先ほど申した通り、ロンドン市警のヘンリーです。ただ、ロンドンではあなたと同じようなことをし、今回はあなたと同じものを追っています」

 近づいてくるヘンリーは彼のすぐそばで立ち止まり、身長はルーヴィックより少し低いせいで見上げるような仕草をして見せた。

「天使が死んだ。あってはならない非常事態です。今回は我々が思っている通りに、いえ、それ以上に危険な事件でしょう。敵は強敵です。おそらく私一人では敵わない」

「手を組みたいと?」

「あなたの噂は聞いていると言ったでしょ? 優秀なハンターだと聞いています」

「じゃぁ、俺があまり人と組まないのも聞いてるか?」

「ロンドンでは自分の国のようには動けませんよ。でも、私が一緒なら、話は別です」

 ルーヴィックは思案するような仕草を見せるが、結論はすでに出ていた。ヘンリーの言うとおりである。現地の者が手伝ってくれれば、それほど心強い物は無い。だが、簡単に彼を信用していいものか。

「なぜ、すぐ俺に接触してこなかった」

「あなたを調べていました。本当は天使の死を知り、すぐあなたに接触をしようとも思いました。しかし、今あなたが抱かれているような疑心がそれを阻んだ。一体、あなたはどれほど優秀で、どれほど信用に足る人物なのか。それを調べていました。だからこそ、あなたがこのイギリス行きを急に決めても対応できたわけです」

「カーター教授の事をどこで知った?」

 ルーヴィックの問いにヘンリーは歯切れが悪くなる。

「えー……それは……あなたが調べている資料を見て」

「どうやって見た?」

「えー……あまり大きな声で言うのは控えますが、忍び込みました」

「何?」

 素っ頓狂な声を上げたのはルーヴィックであった。

「いつ?」

「あー、先ほど……かな」

「俺の客室にか?」

「……えぇ」

「無断で?」

「自分の身分を言って、船長に鍵を」

「そんな簡単に鍵を貸すはずがない」

「まぁ、いろいろと……ねぇ。アナキストとか、テロの実行犯とか、なんとか?」

「この野郎!」

 ルーヴィックはすごい剣幕でヘンリーに掴みかかろうとするが、彼はルーヴィックの手をすり抜け逃げる。

「で、でも、安心してください。船長にはあなたへの疑いは晴れたと伝えてありますし、資料を見たと言ってもほんの少しで」

「他人を陥れるようなことを言って、勝手に忍び込んだのは事実だろうが!」

 あまりの興奮に若干、巻き舌気味になって逃げるヘンリーを追いかけるルーヴィック。

「今は、そんなことしている場合じゃないでしょうが!」

「お前が言うな!」

 しばらく追いかけっこを続け、乗客は奇異の目で彼らを見る。一見、ヒョロヒョロで吹けば飛びそうな体のヘンリーだが、思いのほか俊敏な動きをする。結局、根気負けしたのは自分でも驚くことにルーヴィックの方だった。

「もう、いい。もういいよ」

 踵を返し自分の部屋の方へと帰るルーヴィックの後ろで、警戒する小動物のようにテケテケとついてくるヘンリー。

「それで、先ほどの返答は?」

 問いかけるヘンリーだが、返答が無いことを確認すると続ける。

「確かに先ほどの無礼の数々は謝ります。しかし、今は互いにいがみ合っている場合ではないことは、あなたならば分かるはずです。これまで幾度となく悪魔達と戦ってきたあなたならば、今回の事件の裏に控える目的が、今までの規模とは比べ物にならない。もしかしたら、天使と悪魔は再度戦争を始める可能性だってあるんです。いえ、今回の事件を止めなければそうなるでしょう。そうなった時に、ここは? 人間界はどうなるんですか? この世界は混沌と混乱、欲望と絶望の坩堝になるんです。そうしないためには、誰かが止めなければならない。では誰が止めるのですか? 私達でしょ!」

 舌に油でもさしているのではないかと思うほどに、饒舌にヘンリーは話す。それを黙って聞くルーヴィックにも、彼が言いたいことは分かっている。誰も止めてなどくれない。天使に期待するのも皆無だ。天使は自ら動くことなど無い。奴らは良い言い方をすれば導くだけだ。悪く言うならうまく操る。天使達にとっては、世界という盤を眺めながら駒を動かす、チェスをしているようなものなのだ。だからこそ自分達で何とかする必要がある。この事件に一体どれほどの人間が気付き、関与しているのかはルーヴィックにはわからない。ただ、言えることは自分、加えて言うのならばヘンリーは最も事件に近づいている人間達の一組なのだと思われる。

 事件は加速している。ヘンリーの登場は、ルーヴィックにとってそれを顕著に感じさせずにはいられない。原因は天使が死んだせいか、それともルーヴィック自身が確信へと近づいているせいかは未だに確信に足る要素が不足している。ただ、イギリスへ向かうという行為はどうにも、イギリスの児童書になぞらえて言うのであれば、ウサギの穴に転げ落ちていくような気分だった。穴の底に待ち受けるのはイカれた帽子屋か、それともニヤニヤとやらしく笑う猫か……どちらにしても、ルーヴィックは考えうる限りの可能性を考え、対処法を見つけ、イメージを浮かべて置くだけだ。

「私がいればどこに行くにも迷いません。それに滞在中は私の部屋を使ってくれて構いませんし」

 考えに耽っていたルーヴィックが気付くと、ヘンリーはまだ話続けていた。このまま放っておけば、黙示録のその時まで話続けているかもしれない。まぁ、今回、自分達がしくじれば思いのほか、その黙示録は早く来るかもしれないが。

「うるせぇな。いつまでしゃべってるんだ」

 ルーヴィックの鬱陶しそうな声に、ヘンリーは押し黙り次の発言を待っていた。そんなヘンリーを見ながらルーヴィックは頭を掻く。何度も言うが、すでに答えなど出ているのだ。

「イギリスにつくまでに、その口はもう少し大人しくさせとけよ。ジョンブル」

 それを自分の申し出に対する肯定と受け取ったヘンリーは、背筋を伸ばし紳士らしくお辞儀をする。

「そちらこそ、乱暴な言葉遣いは控えてくださいね。ヤンキー」

 ニヤニヤ笑うヘンリーを一瞥して歩きはじめると、彼はルーヴィックの隣まで小走りでやってきて肩を並べるように歩いた。

 イギリスへ上陸前に、ルーヴィックは相棒ができた。

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