トリニティ~地獄編~

檻墓戊辰

第1章

第1話 嵐の予感

 十九世紀と呼ばれる時代にも、ようやく終焉の兆しが見えてきた頃。

 骨まで凍りつきそうな寒い夜に、一人の天使が死んだ。


 南北の対立が集結し、強大な国家が誕生。高層ビルが建ち始め、急速な経済、技術成長を見せるこの街は、今や進化を超える勢いで成長を始めている。躍動する人々の行き来がその繁栄の兆しを予想から確信へと変化させる。

 移民も大勢やってくることもあり、街は人でごった返していた。

 だが、これほどまでに人口密度が高まっているにも関わらず、相変わらずこの街の冬は凍えるほどに寒かった。降りやむことを忘れたかのようにシンシンと降り続ける雪は、街を白く染めるだけでなく、わずかに残った石造りの街の温もりすらも容赦なく吸収する。

 誰も一秒と長く外になどいたくはない。皆は足早に室内へと消える。ある者は家に、ある者はパブやサルーンと呼ばれる飲み屋に。それは五番街から北に住む富裕層も、ゲットーやスラムなどのテナメントに住む貧困層も変わらない。

 外を出歩きたくない理由は寒さだけではない。もうすぐ、辺りは完全に暗くなるのも要因の一つだ。むしろ、こちらの方が理由としては、大きいかもしれない。ガス灯が照らす夜でも、一人で出歩いて安全なほど治安はいい方ではない。特に女はそうだ。

 そんな人々の群れをかき分けながら、ルーヴィックは駆け足で街中を進んでいた。それは決して慌てた様子ではなく、誰かに追われているような雰囲気でもない。むしろそのしっかりとした足取りは追いかける側の威圧感さえ感じられる。とは言っても、彼の前に誰かいるわけではない。

 ブーツにはめ込まれるスパイクがまるで獲物を狩る猛獣のように、滑りやすい地面に食い込む。

 つば広な帽子を深く被り、ブラウンのトレンチコートの襟は立てられながらも前のボタンは留めてない。その下には黒のジャケットにグレーのベスト、白いシャツと品のよさそうな格好。だが、その帽子のつばの奥より見える悲観的でありながら、どこか挑発的な碧眼に、無精ひげ、おまけに肉が削げ落ちたような痩せた(やつれたと言った方が適切かもしれない)顔や体付きはお世辞にも紳士とは程遠かった。歳は二十後半から三十前半だろうが、見方によっては、酷く老けても見える。

 一見、ギャングなどを連想させる風貌だが、彼のコートの奥に、ジャケットの胸ポケットに掛けられたバッジが彼の身分を証明している。彼は連邦捜査官だ。

 彼はあらかじめ道筋を把握しているかのように通りを突っ切り、路地の角を曲がり進む。次第に街灯は数を減らし、まるで闇が手招きしているかのようにルーヴィックの行く手を覆う。気温も気持ち下がったような気もした。

 彼がようやく足を止めたのは木々が多く生い茂る公園。街灯がいくつも見えるが、そのすべての火が消えており、一層の冷気と暗闇がその公園の異様な空気に拍車をかける。普通の者ならば踏み入れるどころか、そそくさと立ち去ってしまうが、彼は白い息を吐くと帽子の位置を直し直しジャケットのボタンを外す。

 そして公園の中へと足を踏み入れた。

 慎重に、しかし足早に公園の中を踏み分ける。公園の奥へ進むほどにその歩調は速くなる。まるで何か嫌な予感を察知するかのように。自然と彼の手はジャケットの中のホルスターに収められる銃のグリップを掴んでいる。

「モルエル? モルエル。どこだ?」

 ルーヴィックの声に対する返答はなかった。背筋が凍りつくほど寒気を感じるのは決して気温が低いからだけではないだろう。

「おい、返事をしてくれ…」

 再度呼ぶ声には、明らかに焦りの色があった。先ほどまでの老けた感じが吹き飛び、今度は反対に子供のような雰囲気になるルーヴィックだが、それでも絶えず周囲を警戒する目や体の動かし方は機敏であった。

 子供のような雰囲気は一瞬で消え去り、手をかけていた銃を引き抜く。この時代には珍しいセミオートの拳銃だ。怪しく黒光りする銃身にはきめ細やかな装飾が施され、その全てはよく見れば十字を初めとする魔除けの数々であった。

 鋭く周囲を観察し、再度口を開こうとした時だった。声が聞こえる。否、それは声というよりも悲鳴。むしろ悲鳴のようなものだった。なぜならば、それをもし仮に彼以外の者が聞いていたならば、声ではなく黒板を引っ掻いたような不快な音だと証言したはずだからだ。しかし、彼にはそれが悲鳴とわかる。

 彼はそれを聞くやいなや、弾丸よりも速く駆け出した。

 彼の中で胸を締め付けられるような感覚。手袋ごしに握ったグリップには力が入り、汗ばんでいた。

 茂みをはらった先は開けた場所。その真ん中には人影が一人倒れていた。微かにもぞもぞと動く影には唯一、人ではない所があった。背中に翼があるのだ。

「モルエル……」

 倒れる者の正体に気付いたルーヴィックは思わず近づこうと踏み出したが、まだ周囲に気配を感じ、彼は手に持つ銃を構え、迷わず引き金を引く。静まり返った夜の街に銃声が鳴り響く。

 暗く距離があったこともあり、手応えはなかった。その影の気配はすでに消え失せていた。追いかけてもおそらくは見つけられないだろう。しばらくルーヴィックは銃を構えたまま固まっていた。呼吸すらも忘れたかのように。銃口から煙が上がらなくなった頃、ようやく彼は銃を下ろした。

「大丈夫か? やられるとは、らしくないな……」

 そういって横たわる天使・モルエルを抱きかかえ、息を飲む。天使の体は各部位から石化し始めていた。大理石のように白っぽい滑らかな石へと姿を変えているのだ。

 モルエルはブラウンの髪に光りそうなほど澄んだ薄い青い瞳が特徴的で、天使ならではの男とも女とも取れる顔立ち、体つきであった。

 モルエルの胸元より溢れる血(人間で言うならば)は白銀に輝いており、苦しそうに胸を上下させるたびに止めどなく溢れる。見れば傷は何カ所もある。確実に殺意のある攻撃だった。血は体中、至る所から流れている。

「ああ、なんて愚かなことを……」

 今にも泣きだしそうな目をルーヴィックに向けながら、擦れる声、だがよく通る綺麗な声でモルエルは呟く。

「……早く止めなければ」

「ああ、だがまずはお前の傷を何とかしないとな。どう手当すれば……」

 人間用の応急手当をするルーヴィックの手に、モルエルが自らの手を乗せ遮る。

「ルーヴィック……心して。あなたにご加護があることを祈ります……カギは、ロンドンに」

 モルエルが彼に手を差し伸べた時、モルエルは完全に彫像と化していた。美術館に展示される高名な芸術家が渾身の力で創り上げた物のような、そこには美しい天使の像があった。差し伸べられた手はあたかも助けを求めるかのよう。泣いてしまいそうな歪めた顔は、まさに絶望に嘆き悲しむ。そんな悲痛な彫像であった。

 ルーヴィックは差し出された手の中にある紙切れを取り出して広げる。そこには顔写真のついた新聞の記事があり、一人の男の名前があった。

「リチャード・カーター教授」

 笑みを向ける眼鏡の壮年の男を見ながら、ルーヴィックは思わず声に出していた。

 ルーヴィックはこの男を知らない。だが、モルエルは最後にこれを残したのは、それが手掛かりだからだ。彼は目に焼き付けるかのように顔写真を見た後、ポケットにしまい、帽子の位置を直してから立ち去っていく。そこには天使であった彫像が寂しく残された。


 凍てつくような寒い夜。一人の天使が殺された。

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