羊飼いたちのサイエンス

琥珀 燦(こはく あき)

羊飼いたちのサイエンス

 この草原の、曇り空が大好きだ。

 ちょうど今ぐらいだけ、ラベンダーいろの空を、綿雲が飾るくらいの。

 広い広い草原に、雲のかたちを、風の流れを、目で追いかけて…。柔らかな日差しと水をいっぱいに含んだ、草や木の、土の、甘いにおいを大きく吸い込んで。

 ひと呼吸ごとに子供のころの自分に、戻って行くようだよ。この世界が、この星が、きちんと呼吸して、生きているんだなぁって、…体いっぱいで感じていた、あのころの僕に。


 …真昼(マヒル)は、五年ぶりの故郷の空を見上げていた。

 ごつごつとした大きな岩がいくつか突き出ていて、その中の一番大きなのによじ登って。

…あのころ、この岩は、『王様の椅子』なんて呼ばれていたんだ。実に座り心地のいい形なのだが、大鷲が羽を休めに来る危険な場所でもあるので、座っているところを大人に見つかると、物凄く怒られたっけ。

 てっぺんに座ると、丘の向こうの、懐かしい街が見える。あの、街の真ん中に、目立って赤いトンガリ屋根の境界があって。その隣が、彼の生まれた家。

「真昼―っ」

 岩の下から、彼を呼ぶ声。見下ろすと、すらりと背の高い少女が、微笑んで手を振っている。

「…星花(セイカ)?」

 そよ風に流れる、彼女の夜空いろの髪に見惚れながら、真昼は懐かしい名前を呼んだ。

「こんなところで道草なんて食って。おうちはもう目と鼻の先じゃない。お母さまがお待ちかねよ」

 星花は、隣の教会の牧師の姪。生まれてすぐ両親を亡くし、同情した真昼の母が何かと面倒を見ていた。今は、すっかり弱ってしまった僕の母の身の回りの世話をしてくれている。

「汽車は、夜明け頃には着いたんでしょ? あんまり遅いから様子見に来てみたら、王様の椅子に誰かが座っているのを見たから」

 星花は、大きな瞳をぱちぱちさせながら、こちらを見上げている。高い岩の上から、彼女のそばを狙ってひょいと飛び降りると、彼女は軽い悲鳴を上げて笑った。

「あの椅子に人が座るのを見るの、五年ぶりよ。あなたが、ここを発つ日の朝、ここから二人で夜明けを見た、あの日以来」

「うん、さっきも『王様』がここに座ってたのを見たよ」

そう言うと、星花の顔色がさっと変わる。

「大丈夫だよ。それが不思議なんだ。…草原を横切るあの道を歩いていたらさ、この岩が見えてね、懐かしくて近寄ったら彼がいて、目が合ってしまったんだ。昔と変わらない鋭い目でね。金縛りみたいに動けなくなってしまった。でもさ、その目が怖いっていうより、懐かしいような気持ちになってね。…彼もしばらく僕をじっと見つめて、急に飛び立ったんだ。まるで古い友達に席を空けてくれるようにね」

 夢見心地の真昼に、星花は溜息をついた。

「ふーん。それから二時間もそこに座って空を見てたの?」

「え? もうそんなになるの?」

「変わらないね、真昼ったら」

 カナリヤみたいな声で、星花が微笑う。

 星花は、美しくなった。海のように波打つ長い黒髪も、淡いみどりの瞳も。子供のころの星花は、青柳みたいにひょろりと背が高くて男の子みたいだったのに。

「何してたの? そんなに長い時間、あの岩の上で」

「うん、思い出していたんだ。僕が始めに飛びたいって思ったのはこの空だったんだなあって…」

 自分より頭一つ分大きくなった真昼を、星花は眩し気に見た。パイロットの学校に行くために五年前、都会へ旅立った彼を見送った時、二人は同じくらいの背丈だったのに。

「地上に影を滑らせながら、悠々と飛ぶ『王様』を追いかけてよく走ったっけ。あの鷲は、いつからか、僕の未来の姿になっていた」

 子供の頃そのままの、きらきらした目で話す真昼を見つめながら、星花は小さな真昼の姿を思い出していた。草の上に寝転んで、二人で雲を数えたね。大空を鏡のように映していたあなたの青い瞳が大好きだった。

「僕は、知らなかったんだ。この空は、どこまでも広くて大きくて高くて深くて。僕にはこの空さえ充分に広い広い世界だった。でも、この空のずっとずーっと向こうには、もっと大きくて深い、果てのない星空が広がっているんだって」

 そういえば…都会へ旅立って半年後の彼からの手紙は、星花をひどく驚かせたっけ。

『…僕は、パイロットの学校に進学するのは止めるよ。空を飛ぶことを諦めるんじゃないんだよ。もっと、もっともっと遠くへ飛ぶんだ。星花、僕は科学の学校に行って、宇宙飛行士になる。そう決めたんだ』

 少し興奮しているのが伝わってくる、大きな文字を目で追いながら、星花の胸の鼓動も早くなった。流れる雲を追いかけて、大鷲を追いかけて、とうとう彼の夢は大宇宙にまで翼を広げてしまった。…そんな彼の自由な情熱が、いとおしくも寂しくも感じられて…。あの夜、満天の星の下、星花は一人、草原で泣いた。

 切ない思い出を隠すように星花は明るく言った。

「おめでとう。三年後の、パイオニア号の搭乗員に決まったって、昨日宇宙開発局から報せが届いたわ。この間の手紙にはそんなこと全然書いてくれなかったでしょ? 休暇をもらったから帰るってだけで。お母さまをびっくりさせようとしたんでしょ?」

 すると、真昼の表情が突然曇った。おや?と思った次の瞬間、星花は真昼にぎゅっと抱きすくめられていた。

「星花、一緒に都会で暮らそう。この草原の甘いにおいを連れて、僕の部屋へおいで」

「どうしたの? 突然」

 星花が瞳を硝子玉のように丸く見開き、真昼の空いろの目をじっと覗き込む。急に帰ってくるなんて手紙が来たから、何となく心配してはいたけれど…。

 真昼、疲れた目をしている。夢を見るのに疲れた瞳。…いつも遠いどこかを見ていた真昼が、初めて星花をみてくれた。それはとても幸せに思うけれども。

「プロポーズはとても嬉しい。でも…都会に行ってしまったら、きっとわたしのからだからも草のにおいは消えていくわ」

 星花の言葉に、真昼は小さく溜息をついて肩を落とす。星花はしばらくのあいだじっと黙って、まっすぐ彼を見つめていた。

 やがて真昼は重く語り出す。

「夢を…見たんだ。パイオニア号が、音も影もない暗黒の中に吸い込まれて行く夢。僕は悲鳴すら上げられない恐怖を感じた。搭乗員に決まったのは、目覚めたその朝だった」

 そう言って真昼はやっと顔を上げ、星花に問い掛ける。

「人類は、思い上がっていないだろうか。科学なんて『夢』という甘いオブラートで隠した征服欲を振り回して、自然の秩序を破壊しているだけのものではないだろうか。いつか、人類はとんでもない罰を受けるのではないかな。…僕はね、怖いんだよ星花。その罰を受けるのは僕たちの船かもしれない」

「真昼、…空は優しいわ。どこまでもどこまでも優しい。あなたが空を目指す想いは、この空が育てたのよ。それは大宇宙(おおぞら)が、この世界の仲間としてあなたを呼んでいるんだと思うの」

 にっこりと微笑む星花。真昼の心に巣食う闇を吹き飛ばしたくて。真昼もつられて、悲し気に笑う。

「星花の笑顔は、心強いね」

「五年の間に、あなたを待つことには慣れてしまったわ。寂しくて、この草原で何度も泣いたこともあったけど、もう怖くない。だって、わたし、こんなに真昼が好き。子供の頃からずっとよ。二度と会えないなんて有り得ない。真昼と出会ったのも、真昼を好きだと初めて感じた場所もここだった。わたし、こんなに優しく二人の運命を結んでくれた草原に心から感謝してる」

 星花が、眩しい。真昼は思わず目を細める。瞼を閉じ、風に髪を靡かせ、佇む少女の姿は、真昼さえまだ見たことのない大宇宙をとうに知り尽している者のように輝く。

「真昼の夢は、わたしの夢でもあるのよ。だから、どうか恐れないで。わたしは、ここであなたのために祈っています。真昼、ここはあなたの故郷。あなたの心が帰る場所。私たちの恋を育ててくれたこの草原で、わたしはあなたの帰りを待ちましょう」

 そう言って大きく深呼吸したあとこちらを見て微笑んだ星花の姿が、緑の風の中に溶け入りそうに思われ、とても尊いものに、真昼には思えた。


宇宙飛行士は星空の中で眠るとき緑の草の夢を見るんだって。

真昼も、やがて宇宙の大海原に、愛しい少女の笑顔を思い浮かべて眠るのでしょうか。

『…遠い遠い昔、天鵞絨(ビロード)の星空に星座を描いた羊飼いたちのように、私はあなたの夢を未来へと繋いでゆきましょう。

…大地から遠く離れて浮かぶ船の中、わたしを強く想っていて。わたしがいるこの草原を夢に見てね。風にそよぐ草と私が歌うララバイを聞いて眠ってね。

そして、あなたは必ず、ここに帰ってくるのよ…』

【END】

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