町の教会
亀子
第1話
祖母の家の近くに小さな教会がある。長年に渡り放置されているため、その姿は朽ち果てて無残なものだ。いつ建てられたのかはわからないが、相当昔であることは間違いない。なにせ私が小さな子供の頃ーもうニ十年以上前になるーには「朽ちた教会」としてそこにあったのだから。
「ばあさん」
私の声に祖母が振り向く。大正生まれの彼女はいまだ元気いっぱいで、耳もちゃんと聞こえている。
「そこに教会あるがんねぇ?あれっていつからあるの」
祖母はコップに並々と麦茶を注ぎながら答えた。
「ほりゃぁ、えらい昔からだわ。私が娘の頃からあるもん。」
娘の頃というのは多分、彼女がティーンエイジャーだった頃という意味だろう。それは確かに大昔だ。
ほんやけどねェ、と彼女は呟く。
「なんかエライ不思議なカンジやったわ。ずぅっと空き地やったところに、ある日突然教会が建ったんだわ。」
それが本当なら間違いなく不思議な話だ。しかしいくら小さいといっても、あの教会を一晩のうちにこっそり造るというのは無理な話だ。そのため私は祖母の言う「突然」とは飽くまで比喩であり、それくらい早く建物が完成した、ということだと理解した。
しかし彼女は言う。
「ほんとに一晩のうちにできとったんだわ。近所の人も『こんなもん、いつの間に建てやあた?』って驚いとったもん。」
その不思議な教会の主はまだ年若い、金髪碧眼の宣教師だったという。かなりの美形である上に礼儀正しく、おまけに日本語も堪能。彼はキリスト教の布教活動のため来日した、と話していたそうだ。
これほど条件が揃った好青年を、若い娘が放っておくはずがない。皆、争うように教会に詰め掛けた。流石に安易に洗礼を受ける愚か者はいなかったようだが、教会は毎日、若い女性たちで賑わっていたそうだ。しかし当時ようやく十歳なったばかりの祖母は、あまり興味を持てなかったという。教会にも、敢えて行こうとはしなかった。
けれどある日、教会の前を通りかかると呼び止められた。振り返ると、例の青年宣教師がいる。
彼は祖母に急ぎの用事がないことを確かめると、少しの間だけ話を聞いてほしいと言った。祖母は承知した。子供である自分にも丁寧に接する態度に好感を持ったのだ。
話の内容は、やはり宗教に関することだった。が、入信の勧誘でもなかった。まずは興味を持ってもらおうと思ったのだろう。イエス・キリストの一生や聖書の内容を、お話仕立てにしてわかり易く聞かせてくれたのだ。おまけに、これが意外なほど面白い。青年の語りが上手いのか、キリスト教の持つストーリーが面白いのか。わからないが、気づくと祖母は熱心に聞き入っていた。
だが、あるエピソードを聞いたとき、祖母は思わず青年の話を遮った。
「ねえ、ちょっと待って」
青年は形の良い口を閉じ、祖母の次の言葉を待った。
「『最後の審判のあと悪魔と天使が戦い、善が勝利し、クリスチャン以外は未来永劫地獄で苦しむことになる』ってどういうこと?キリスト教に入っとらんかったら、善人でも地獄行きってこと?」
青年の答えはyesであった。更に祖母は聞く。少し前に亡くなったひいばあさんは、心根の優しい、根っからの善人だった。しかしキリスト教徒ではない。彼女も地獄行きなのかと。答えは、やはりyes。
「ほんなタワケたことあらすかね!!」
祖母は思わず大声で言い放った。
「タワケたこと言ったらあかんわ。キリストさん信じとらんだけで、どんな善人でも地獄行き?ほんな話あるかね!ほんなこと言う、あんたの方が悪魔だわ!」
瞬間、青年の顔色が変わった。美しく整った顔が崩れ、醜悪さが現わる。彼は祖母を睨みつけた。視線で射殺されるのではないかと思うほど、激しい憎悪のこもった目だった。何かされるのでは、と祖母は身構えたが、彼は背中を向けると慌てた様子で教会へ駆け込んで行っただけだった。
残された祖母は少しの間、呆然とそこに立っていた。あまりの彼の変貌ぶりに驚いたのだ。人間の顔って、あんなに変わるものなのか?そう考えずにいられない、猛烈な変化だった。
そうして翌朝、青年は消えていた。なぜか彼が住処としていた教会は一夜にして朽ちた廃屋となり、つい昨日まで人が暮らしていたとは思えないほどの荒れようだったという。
「…ほんとにアレ、なんやったのかねェ…」
祖母はコップに残った麦茶を飲み干すと、ため息まじりにそう言った。
その後、教会は壊されるでなく別の用途に使われるのでなく、相変わらずそこに建っている。住宅地の真ん中にあり、土地もそこそこに広い。今の世ならコンビニや民家に変わってもおかしくないのだが、なぜか教会は教会のままそこにある。ずいぶん長い間、そこで朽ちた姿を晒し続けているのだ。まるでなにかの罰のように。
さて。実はこれまでの話は、もう十年も前にあった出来事だ。あれほど頑健だった祖母も年齢には勝てず、つい先日亡くなった。実は今、その祖母の葬儀の真っ最中なのだ。
葬儀だというのに参列者の表情は皆、穏やかだ。それは彼女が大往生した上、眠っている間に何の苦痛もなく亡くなったことに理由がある。おまけに亡くなる前日まで元気いっぱいだったのだ。全く我が祖母ながらあっぱれである。
ところで。実は私は怖い話が好きで古今東西の怪談や不思議な話を集めているのだが、その際にこんなことを聞いた。
西洋の死神や悪魔は、人間の魂を狩りによく地上にやってくる。彼らはあらゆるものに姿を変え、言葉巧みに人間を陥れようとする。しかし人間に正体を見破られると、彼らはそこに留まることができず逃げ出してしまうというー。
祖母が会ったあの青年宣教師は、悪魔だったのだろうか?だとしたら、はるばる日本まで来て手ぶらで帰ったことになり少々、気の毒な気がしないでもない。
そうして祖母はエクソシストでもないのに悪魔を追い払った烈女であり、私はその孫ということになる。そう考えるとなんだか可笑しくなってしまい、不謹慎にも私は葬儀中に笑いを噛み殺すのであった。
あの教会は、今もあの場所にある。もしかしたら永久に同じ場所で、町を睨み続けるつもりなのかもしれない。
町の教会 亀子 @kame0303
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