眠り見るのは百合の花

@isako

またいつかどこかで、思い出すころに。

 各務かがみあきらを探していた。二人は、母国から遠く離れたこの土地に、合成でんぷんを売りつけるためにやってきていた。化学調味料でべったりと味付けされたペースト状のでんぷんを、煮たり焼いたり揚げたりして食べることができる。そういう商品。安価で、腹持ちがよく、高カロリーであったので、貧乏人に人気があった。


 遠く離れた国ではあったが、二人の故郷である本国に併合されておよそ100年が経つ。言葉は十分に通じていた。見た目は少し違う。街並みを歩けば、目立つはずなのだが、各務はもう三時間も街を歩き回って晃を探していた。船を降りてすぐ、まずは観光ですよね!と叫んで飛び出していった晃を、船酔いにノックアウトされていた各務は追うことができなかった。


「まぁ、ホテルの場所は晃も知ってるし、携帯も持ってるし、商談なんかあってないようなもんだし……」


 各務は南国特有のしけった暑さにうだっていた。これが私たちのルーツ? おばあさまはこんな国で生まれたの? 彼女は、初めてやってきた自分の人種的ルーツにあたるその国に、早くもうんざりしていた。帰りたい。祖国とよべるほどの情熱を感じない。シャワーを浴びて、冷たいビールを飲みたい。

 

 端末をいじくって晃に連絡を取ろうとするが、応答はない。この国も、それほど電波環境が悪いはずはないのに、なぜか画面は、各務が孤立している状況アイソレイティッドにあることを示していた。契約の問題か、設定の問題か、なんにせよ、各務はますますこの小さなテレビモニタのような機械のことを嫌いになった。


 べたつく汗は止まることを知らず、ブラウスの中はびしょびしょになっている。ジャケットを脱ぐと、異国の男たちが彼女に向けていた好奇の目が、ほかの色を帯びた。あんたたちにゃもったいないわよ。各務は頭の中でそう毒づいた。彼女は、男を、ヒトの雄体を性的に捉える能力が欠けていた。もはや、それを「能力」と呼ぶ時代は終わっていたが、各務はそれをであると考えていた。

 ――男とやって、ちんぽぶち込まれて、赤んぼ産むなんて勘弁。私には生殖の能力はない。


 うざったい熱と視線を振り切って、各務は予約していたホテルにチェックインした。晃・Goldbergが来ているか尋ねると、上品なメークと香水に身を包んだ異国の女は、完璧な発音と文法でそれを否定した。晃がきたら、自分に連絡を入れるように頼むと、また女は完璧な発音と文法でそれを了承した。


 ホテルの部屋は、各務の評価基準からしてまずまずの空間だった。十分な広さ、清掃もきちんと行われている。なにより、空調がよかった。彼女はこれまでに三度、質の悪いエア・コンディショナに喉を破壊された経験がある。

 荷物を降ろしてジャケットとスラックスを吊るすと、あとのものはぽいぽいと脱ぎ捨てて床に放り投げた。そのままバスルームに入って、冷たいシャワーで汗を流した。頭の奥に残る船酔いの感覚も和らいでいった。

 

 彼女はルームサーヴィスでサンドイッチとコーヒーを頼んだ。女性従業員に持ってきてもらいたい、と頼むと、それは受け入れられた。こういうとき、女でいることは便利であると感じる。ただそれは、女でいることの不愉快さと裏表でぴったりとくっついているとも思っていた。

 

 料理を運んできたの若い女だった。高校生と見間違いそうになるほどに幼い女だった。各務は裸にバスローブだけという恰好で彼女を迎えた。各務は女にしか見せない笑顔で礼を言った。少女はなまった発音で「どういたしまして」と言った。各務がわざとはだけて見せていた胸元にちらと目をやると、顔を赤らめて逃げるように去っていった。各務は満足して、ソファに腰掛けてサンドイッチを齧った。


 料理を半分だけ食べて、各務は眠った。起きたのは夕暮れだった。晃がやってきた様子はなかった。フロントに電話して確認すると、やはり完璧な発音と文法で、晃はまだこのホテルに辿り着いていないことが伝えられた。各務の携帯にも連絡はなかった。電波は十全な状況に復旧していた。「バカ女が」各務はひとり毒づいた。


 簡単なストレッチのあと、日課のトレーニングをして、彼女はまたシャワーを浴びた。それから簡単なメークをして、カジュアルなパンツスーツに着替えると、部屋を出てホテル併設のダイニングバーに向かった。その時間までに晃が帰ってくることはなかったので、夕食を一人でとることに決めた。


 カウンターに座って、ドラフトビールと牡蠣のバターソテーを注文した。ビールを3杯飲む間に、二人の男が各務の隣に座って話しかけてきた。どちらもこの国の人間だった。彼女は、相手の顔を見ないまま、サブサハラ・アフリカ諸国の経済的困窮と本国が推し進めようとする諸国の民主化の関係について語ったあと、またそれらの諸国がエートスとして抱える因習や文化がどのように民主化の妨げになるのかを、相手の顔が青ざめるまでの早口と、わざとらしいほどの晦渋さを以て語ったあと、相手に意見を求めた。どちらの男も、会話に値するような意見を出すことはなく、水をかけられた野良猫のように素早くそこを去っていった。


 料理を平らげると、この国の退屈さにまたもやうんざりし始めた。さっさと部屋に引き上げて本でも読もうかと考えていた。彼女は、仕事で訪れた見知らぬ土地で好みの女と一晩過ごすことを一つのゲームとして自分の課題に設定していた。相手がでなければ、なおさら気分がよかった。侵略こそが彼女の生きがいだった。それは彼女の国でもっとも基本的な生存方法だった。その呼吸のなかに生きてきた自分自身も、侵略に熱い血をたぎらせるようになったのは、不思議なことではない。そう考えていた。


 彼女は、ほかの誰の人生と同じように自分の人生に意味がないことを知っている。金を稼いで、身体を美しく保って、頭の中に毎日文字を継ぎ足して、そして美しい女と眠る。彼女はそれが人生の目的であると考えていた。


 暇すぎて人生について考えていたせいで、彼女は自分の隣に座った女のことにしばらくの間気が付かなかった。女は現地の言葉でなにか酒を頼んだ。みたところ、それはコークハイのようだった。


 女は各務のほうをちらりと見た。目が合って、彼女は笑った。


「外国のひと? 仕事で来たの?」

「そう。仕事」

「頭よさそ~。大学出てるでしょ」

「大学? 大学に行ってないひとなんかいるの?」

「うひゃー。すごいこと言うねぇ。本国のひとはレベルが違うや」


 各務の基準からして、女は美しいとは言えない顔をしていた。まずまずというところだった。彼女が東洋人を好まない、というわけではない(実際各務は、東洋の女の小さな身体や、豊かに黒いアンダヘアを好んでいた。人々が香りの強いチーズを楽しむように)。その女は、各務と同年代のようにも見えたし、また彼女よりもはるかに若いようにも見えた。


 そして、各務には、女がこちらに好意を抱いているというのが話しぶりや目つきで分かった。100%の精度というわけではなかったが、各務は、同族や、少なくとも自分を性的に捉えている女を、短い会話から判断することができた。


 各務としては、この女と夜を過ごすつもりはなかった。条件がそろえばこのレヴェルの女を抱くこともあるが、その夜、彼女はとくに飢えてもいなかった。あと数時間もすれば晃がホテルに到着するだろうし、もしそうならないのだとしたら、ベッドで彼女の乳首を噛んでいる暇などないからだ。あちこちに電話をかけて、あの愚かな同僚を探しに行かなければならない。

 

 晃のことを考えれば、狩りハンティングにどうも身が入らず、まずそちらの問題のほうを片付けなければならないと思うようになった。ますます彼女への苛立ちが高まるばかりだが、どうもこの目の前の女から離れることができなかった。そこまでリビードをつぎ込むのにふさわしい美貌も持たない。話がうまいわけでもないし、ここ限りで、この先二度と会うこともないだろうこの女に、各務はなぜか惹きつけられるものを感じていた。もっと話していたいと思った。そんな各務のゆらぎを捉えたかのように、女は怪しく微笑んで言った。


「ねぇ。わたしのこと、覚えてる?」


 各務は女の顔を改めて見た。日に焼けた黄色人種の顔。小さい目と、小さい鼻、そして大きな口。見覚えがある、そう思った。


「どこかで?」各務が問い返したが、女は答えないで、ただ笑っていた。


 幼い頃に、こういう顔をみたことがある、各務にはそんな気がした。うんと幼い頃。言葉を覚え始めてすぐ。そのくらい記憶や意識があいまいな時代に、この女を知ったような。


「もう少し話していると、思い出せるかも」女は自信たっぷりにそう言った。あなたに私が思い出せるかしら? というふうに。


 各務はシーヴァス・リーガルをロックで注文した。喉を通っていった冷たい琥珀色が、胃の中で熱の花を咲かせる。


「あなたどこかで見たことある。本国にいたの? プリスクールの頃かしら」


「さぁ? どうでしょう……」


「ちょっと。教えてよ。なんだか怖い」


「すぐ教えたらつまらないでしょう」


 微笑んで、女はカウンタの上の各務の手に自分のものを重ねた。各務は、女の手の恐ろしく冷たいのに、驚いた。


「あなた恋人は?」


 各務に恋人はいない。どのような意味でも。「いない」即答した。


「ほんとうに? ここだけの話だからさぁ」


「いないわよ。ほんとうにいない。いまは」


「じゃあ気になってる子は? いるでしょう?」


 各務は嘘をつく。特に、プライヴェートの話題において、面倒を避けるために嘘をつく。それはもはや習慣的なもので、彼女にとって本当のことを話すのと同じくらい意味のあることだった。しかし、その時は彼女に嘘をつかせるものが働くことはなかった。それは、この女とは文字通りこの場限りの関係でしかないだろうという確信のせいかもしれないし、あるいは女の持つどこか奇妙な存在感のせいかもしれない。とにかく、各務は誰にも言う必要のなかった、言うことができなかったことを、話し出してしまった。


「へぇ! 同僚の女の子!」


 女はわざとらしく驚いた。各務には、彼女が初めからそのことを知っていたかのように思えた。


「でも、そこまでの関係になってるのに、恋人じゃないんだねぇ」


「……あの子は、遊んでるだけなんだよ。あの子にとって、私とのセックスはじゃれあいみたいなものなの。お菓子を食べるのといっしょ。ハイスクールにすることのない女の子たちが、放課後に、興味本意でお互いとキスをすることの、延長線でしかない」


「そして、あなただけはそうじゃないのね。それをお菓子と呼ぶには、あまりにも……。それで、どう思ってるの? 悲しい? 辛い? 憎い?」


 各務は、彼女の不躾な質問に苛立ちを覚えた。だがそれは、質問が各務にとってもっともセンシティヴなところに触れたことも意味していた。


 ――あなたに、あなたに答える必要はない。


 女の冷たい手が各務の手を掴んだ。


 冷たい。氷のように、痛いくらいに冷たい。そして女は、真っ黒の瞳で各務を見つめた。各務のなか全てを見通そうとしていた。各務はようやく彼女を恐れた。この真っ黒の瞳は、光を受けていない。闇が、なにもなさからくる闇がこちらを除いている。


 各務は思わず女の手を振り払った。


 女はあっさり手を離した。


「続きはまたにしましょう」


「あなたにはもう会うことがないわ」


 ――ハハ! と店内に響くような大きな声で女は笑った。各務の他だれ一人として、その声に反応しなかった。


「そんなまさか。前に会ったときのことを、あなたは覚えていないだけ」


 女はスツールから立ち上がって、各務に背を向けた。そのままひらひらと手を振って勘定もせずに去っていった。各務は、呼び止めることも追い掛けることもできなかった。


 女と入れ替わるようにして、晃がレストランの入り口から顔を覗かせた。各務と目があって、叫ぶ。


「メグ!」


 大きなスーツケースを品なくがらりがらりと引きずって、晃は各務の座る席まで走ってくる。他の客のいくらかが、それを見咎めるように睨んだ。


「ああ。メグ。メグミ。ごめんなさい。私、携帯を失くしてしまったんです。それで、道もわからなくなって、それで連絡がつかなくて。心配させましたよね? ほんとうにごめんなさい」


 いまにも泣き出しそうな晃の顔を見て、各務はふと涙を流した。


「!? メグ! 私ったらほんとうに! あぁ。ああぁ。ごめん、ごめんなさい。メグ。メグ……」


「……違う。気にしないで。確かにあなたが迷子になって私はすごく困っていたけど、もういいの。ちゃんとここまで来れたんだから。よかったわ。ごはん、まだでしょう? ここで済ましちゃえば? 味は悪くない」


 晃は、さっきまでとはまた別の種類の表情であさっての方向を見つめて言った。


「あー。いや、ここまでの道のりに、その、例の、全自動のスシ・レストランがあって……ほら、お皿がいったり来たりして、おもちゃの特急車両がスシを運んでくれるお店……Youtubeで一緒にみたやつ……その、我慢できなくて……」


 各務は酒の残りを一気に飲み込むと、立ち上がって勘定を済ませた。


「メグ! ごめんなさい! 歩き回って、もう、お腹ぺこぺこだったんです!」



***


 その夜、各務は夢を見た。起きたときには夢の中身のほとんどを忘れていた。夢の中で誰かが言った。「お前は死と話をしていたね」各務にはそれが何のことかわからなかった。


 ホテルのベッドの上、彼女のとなりには半裸の晃が眠っていた。午前4時少し前。起きるにはまだ早い時間だった。


 各務は晃の寝顔をしばらく見つめたあと、もう一度眠ることにした。彼女はもうなにも覚えていない。ただまどろみのなか、恐ろしくも懐かしいものに触れたという感覚が、あいまいな世界のなかに溶けていくのがわかった。

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