第950話 打ち切り

 治療を終える頃には、マノンは穏やかな寝息を立てていました。

 フルトとネロにマノンを任せて、僕は唯香の様子を見に行きます。


 マノンとお腹の赤ちゃんは大事ですけど、同じ様に唯香と唯香のお腹に宿った新しい命も大切です。

 影の空間に潜って、守備隊の治癒院へと移動すると、ヘルトが唯香の様子を見守っていました。


「唯香はまだ治療を続けているの?」

「わぅ、マノンに嚙みついた悪い奴は別の部屋に閉じ込めて、今は別の人の治療をしてる」


 さっきはマノンを心配して、少々ヒステリックになっていた唯香ですが、今は落ち着いて治療をしているようです。

 治療を受けているのは職人さんのようで、仕事中の怪我なのか、左腕に深い傷を負ったようで、その治療に来たようです。


「ゆっくり手を握ったり開いたりしてみてください」

「あぁ、動く……ちゃんと指が動くよ」

「血管と筋を繋ぎました、でも魔術で繋いであるだけなので、十日ほどは無理をしないで下さい。痛みが出たら、すぐに止める、いいですね?」

「ありがとうございます。一時はもう指が動かなくなるんじゃないかと思いやした」

「かなり出血していましたし、魔術では血は補えませんから、栄養のある物を食べて、体を休めてください」

「分かりました。本当にありがとうございました」


 職人らしいオジサンは、何度も何度も唯香に頭を下げてから、診察室を後にしました。


「うん、唯香は大丈夫そうだね。ちょっと、マノンを噛んだ患者を見てみようか」

「わふぅ、こっちだよ」


 マノンを噛んだ患者さんは、別室のベッドの上に縛り付けられていました。


「かなり暴れてたの?」

「来た時は暴れてたけど、だんだん動かなくなってきた」


 拘束されているのは、四十代か五十代ぐらいの太めのオバサンで、体のあちこち紫色の痣ができています。

 腕とか足だけでなく、首筋や顔にも痣が浮かんでいて、これがマダニ感染症の中でも致死率の高いSFTS、重症熱性血小板減少症候群の症状だそうです。


 さっきネットで調べただけなので、詳しいことは分かりませんが、血液中の血小板成分が減少することで血が止まりにくくなってしまうそうです。

 この紫色の痣は、全部皮下出血なのでしょう。


 こうして体の外から見える部分だけでなく、体の内部でも出血や炎症が起こっているのでしょう。

 臓器の状態の悪化や出血が死亡の原因だそうで、この人は僕が治療をしなければ、たぶん助からないと思います。


『ケント様、治療しなくてもよろしいのですか?』

「うーん……迷ってる」


 いつの間にか現れたラインハルトに問われても、決断をできずにいます。

 たぶん、治療すれば助かるような気もするけど、脳にダメージが及んでいたら、元通りには出来ないでしょう。


 それと、僕が無償で治療を行ってしまうと、後々悪影響を及ぼしてしまう可能性があります。

 今後、この人と同様の症状の人が現れた場合、僕が無償で治療するのが当たり前……なんて思われてしまうのは困ります。


 ここは唯香やマノンの領域であり、僕が勝手な行動をするのは控えるべきでしょう。


『なるほど、ケント様としても色々なお考えがあるのですな』

「うん……でも、色々理由を並べてみたけど、結局のところはマノンを危険に晒した人間なんて助けたくないって気持ちもゼロではないんだよねぇ。自分でも心の狭い人間だって思っちゃうよ」

『それは仕方のない話ですぞ。ケント様はSランクの冒険者ですが、ヴォルザードの領主でもなければ、役人でもないのですから』


 今回に限らず、これまでに何度も死にかけている人を見殺しにした事があります。

 逆に、頼まれてもいないのに、無償で治療を行った事も何度もあります。


 できるのに、やらない。助けられるのに、助けない。

 自分で自分が、物凄く傲慢な人間だと感じてしまいます。


 ラインハルトと話しているうちに、唯香は一日の治療を終えました。

 たぶん、魔力の残りギリギリまで治療を続けたのでしょう、最後の患者を送り出すと、唯香はもたれるように深く椅子に腰を下ろし、ふーっと深い溜息をつきました。


「お疲れ様、唯香」

「健人、マノンは大丈夫?」

「全身に治癒魔術を巡らせたから大丈夫だと思うけど、これから暫くの間は毎日治療するよ」

「うん、そうしてくれると私も安心できる」

「唯香は、噛まれたり、引っ掻かれたりしていない?」

「うん、症状を見て、これは危ないと思って、守備隊の人に対処してもらったから大丈夫だよ」

「守備隊の人は噛まれたりしなかった?」

「感染の危険がある患者さんを取り押さえる時には、フル装備でやってもらっているから大丈夫だと思う。傷を負ったら、必ず申告するように言ってある」


 唯香の話だと、日本では数年に一度ぐらいしか話題にならない狂犬病が、まだ普通に存在しているようです。

 全身に治癒魔術を巡らせるような治療を行えば、発症を抑えられるらしいが、当然治療費は高額になるので、魔物や獣に嚙まれたり引っ掻かれたりした程度では治療は受けないそうです。


「あれっ、待って……それじゃあ、もしかして僕も狂犬病に掛かっていたかもしれないのかな?」


 召喚された直後にハズレ判定されて、夜の魔の森へと追放された僕はゴブリンに襲われて食われました。

 あの中に狂犬病のゴブリンがいたなら、僕も狂犬病に掛かっていた可能性があります。


「健人は自分で自分に治癒魔術を掛けていたから、罹ったとしてもすぐに回復してたんじゃない?」

「あぁ、たぶんそうだと思う」


 ヴォルザードに辿り着いた後も、自己治癒魔術は頻繁に使っていました。

 そのおかげで、無茶をして倒れた事はありましたが、病気で倒れた事は一度も無いはずです。


「それで、唯香……あの患者さんはどうするの?」

「あのまま。治療はしない……」


 マノンを噛んだ患者への決定を口にする唯香は、複雑な思いを処理しきれていないように見えた。


「何か治療をしない理由があるの?」

「あの人、色々と罪を犯しているんだって」


 マノンに噛みつくなどの騒ぎを起こしたので、守備隊がオバサンの身許を調べたそうです。

 その結果、過去の犯罪や今現在手配されている複数の事件などが明らかになったそうです。


「えっ、どうやって逃げてたんだろう?」

「ヴォルザードも広いし、城壁を継ぎ足しながら拡張してきた街だから、ゴチャゴチャしている場所も多いんだって」

「あとは、歓楽街とか?」

「そう、守備隊でも巡回は行ってるそうだけど、日本と違って鮮明な写真なんか無いから、なかなか犯罪者を見つけるのは難しいんだって」

「なるほど……それで治療は中止になったんだ」

「うん、それに私じゃ助けられないと思う」

「唯香が万全の状態なら、助けられるかもしれないけど、他の患者さんの治療もしなきゃいけないから難しいよね」

「うん……」


 それでも唯香は、自分が助けられない事にジレンマを感じているようです。


「じゃあ、帰ろうか。もう、お腹ペコペコなんだ」

「ふふっ、私も」

「唯香には、二人分食べてもらわないとね」

「そうなんだけど、太り過ぎは駄目だから、ほどほどにしておく」

「僕もお腹出ないように気をつけなくっちゃ」


 本当は唯香に、僕が治療するかしないか聞こうかと思っていましたが止めました。

 守備隊の方針として治療を中断したようですし、唯香に聞けば守備隊の決定だとしても、唯香が治療打ち切りの判断を下したように感じてしまうと思ったからです。


 だから唯香には何も聞かず、守備隊の判断に従って僕も治療を行わないと決めました。


「今夜の夕食は何かな?」

「昨日はお肉だったから、今夜はお魚じゃない?」


 唯香が一緒なので、治癒院からは歩いて家まで戻ります。

 といっても、家から守備隊までは目と鼻の先なので、ゆっくり歩いても十分も掛かりません。


「お魚かぁ、ルジェク、仕入れに行ったっけかなぁ……」

「今日、学校から帰ったら美緒と一緒に行くとか言ってなかった?」

「あぁ、そうだったかも」


 ヴォルザードは、海までの間に魔の森が横たわっているので、海のものは手に入りませんが、闇属性のルジェクなら、コボルト隊と一緒という条件付きで港町ジョベートまで移動できます。

 おかげで、我が家は新鮮なお魚にありつけるんですよねぇ。


「お魚かぁ……ジョベート産はうみゃいからなぁ」

「夕ご飯が楽しみね」


 唯香と一緒に城壁のトンネルを潜りました。


「おかえりなさいませ」

「ただいま、ザーエ」


 ザーエの出迎えを受けながら門を通り抜けると、非番のコボルト隊やゼータ達が集まってきます。

 うん、やっぱり僕が何よりも先に、全力で守るのは、僕の家族たちですよね。

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