第589話 裏話アンサンブル
ベックはヴォルザードの学校を出た後、荷運び人夫を二十五年以上続けてきた。
周囲の者からは、手に職を付けておいた方が良いと言われていたが、鍛冶屋も建築屋も親方と反りが合わず、気楽な荷運びの仕事を選んだのだ。
幸い、親譲りの丈夫な体は、背丈こそ大きくは無かったが、荷運びとして人並みに仕事をこなすには何の問題も無かった。
古い借家で嫁も子供もいない独身、家賃と税金さえ納めてしまえば残りの金は自由に使える気ままな生活が性に合っていた。
ところが、そんな生活が一変したのは二ヶ月ほど前のことだった。
その日も、いつもと変わらぬ倉庫の荷運びをしていたのだが、突然腰に激しい痛みを感じて立ち上がる事も出来なくなってしまった。
幸い、二週間ほどで日常生活は問題無く送れるようになったが、荷運びの仕事への復帰は難しかった。
こうなると、手に職も無く、四十の大台を越えたベックに出来るような仕事は見当たらなかった。
ギルドの掲示板には見習いの仕事はあるが、見習いとして雇うのは二十五歳までというのが常識だ。
余程の事情があれば、三十歳ぐらいまでなら見習いとして雇ってもらえるかもしれないが、さすがにベックの年齢では難しい。
働けなくなったら死んじまうだけだ……などと、酔った時にはほざいていたが、いざ働けなくなったら死ぬのが怖くなった。
腰さえ治れば働けるようになるし、そうしたら貯金を増やして老後に備える……などと考えても体は思うようになってくれなかった。
わずかな貯金は底を尽き、金になりそうな物は売り払い、いよいよ切羽詰まった時にその女を見掛けたのだ。
少々雰囲気は変わっていたが、ベックがその女を見間違える事はない。
以前、たった一度会っただけだが、強烈な印象が残っていた。
まだベックの腰も万全で、荷運び人夫としてバリバリ働けていた頃の話だ。
仕事上がりのベックに、女の方から遊ばないかと声を掛けてきたのだ。
ベックは、いわゆるイケメンとは対極に位置するブサメンだ。
ガキの頃から女にモテた事など一度も無く、荷運びの先輩に連れられていった娼館でも、良い思い出は残っていない。
そんなベックに声を掛けてくるなんて、余程の物好きか、からかっているのだろうと思ったのだが、魂が抜けているかのような女の雰囲気が妙に気になった。
この若い女こそが、リーゼンブルグの兵士に凌辱されて自暴自棄になっていた綿貫早智子なのだが、ベックがそんな事情を知る由もなかった。
その上、当時の早智子は髪を脱色していたから、噂になっていた黒髪黒目の少年少女の一人だとも気付かれなかったのだ。
「いくらだ?」
「いくらでもいいよ」
その日、ベックの手持ちは二百ヘルトにも満たない小銭だけだったが、女はそれで構わないと言った。
「どこでやるんだ?」
「そこらでいいんじゃない?」
女はベックから金を受け取ると、裏路地の奥へと歩いて行き、自ら胸をはだけ、下着をずらしてみせた。
名も知らぬ女は、ベックの近所に住んでいた同い年の女にどことなく似ていた。
容姿も優れず、学業も怠けていたベックは、その頃から女になどモテるはずがないと諦めていたので恋心も抱かなかった。
それでも、年頃になれば異性を意識するようになり、学校を卒業した翌年に女が結婚したと聞いた時には、喪失感のようなものを抱いた。
幼馴染の女に娘がいたら、丁度この女ぐらいだろうか……結婚前の幼馴染は、こんな体をしていたのだろうか……そんな若い女を人が通りかかるかもしれない路地裏で汚す行為に、ベックは異常な興奮を覚え、童貞のようにあっという間に果てた。
異常な興奮状態に陥ったベックとは対照的に、若い女は喘ぎ声一つ洩らさなかった。
女の瞳の表面には、目を血走らせたベックの顔が映っていたが、それは存在として認識されているようには思えなかった。
事が終わると、女は何事も無かったようにベックを置いて去っていった。
「何なんだ……何なんだ、お前!」
ベックが大声で呼び掛けても、女は振り向きもせずに雑踏に紛れて消えた。
娼館の女に蔑むような目で見られた事なら何度もあったが、存在していないように扱われた事は無かった。
それが自分を汚した男という存在に対する、早智子の歪んだ復讐だと知る由もないベックにとっては、生涯で一番の快楽と屈辱を同時に味わった記憶として刻まれた。
もう一度、次は屈服させてやろうと、ベックは仕事を休んで数日女を探し回ったが、二度と巡り合う事はなかった。
その女が目の前に現れたのだから、周囲の状況も手持ちの金さえも確認せずにベックは声を掛けた。
雰囲気が変わった女は、ベックを見て怯えたような表情を見せた。
人違いだと言い張ったがベックには確信があったし、何より女の態度がベックの嗜虐心を煽った。
今日は思い知らせてやれる、自分の存在を体の奥底まで刻んでやるとベックは意気込んだが、分厚い肉の壁に遮られた。
自分よりも若く、遥かに逞しい男に襟を掴んで吊り上げられ、恐怖のあまり無様に失禁した。
長年荷運びの仕事を続けているベックだが、荒事に関してはからっきしで、自分よりも弱い相手にはどこまでも強く出れるが、自分よりも強そうな相手には早々に頭を下げて生きてきた。
だから、逃げ出した。恥も外聞もなく、尻尾を巻いて逃げ出した。
逃げ出したのだが、裏路地に入ったところでベックの腹の中に怒りが湧き上がってきた。
一度ならず二度までも、自分に屈辱的な思いをさせた女に対するドス黒い感情が、ベックの腹の中で渦を巻いていた。
ベックは路地の入口へと戻り、二人がいる広場の様子を窺った。
男には敵わないが、女が一人になった所を狙えば、訳なく手籠めに出来ると考えた。
どこに住んでいるのか、後をつけて確かめてやろうと女を見張り始めたベックは、不意に腰の辺りを叩かれて路地の奥を振り返った。
「あの子に酷い事をしたら許さないからね」
「あぁぁ……喋るコボルト……」
黒い毛並みのコボルトは、ベックに警告を残すと影に潜って姿を消した。
喋るコボルトの飼い主が誰なのか、ヴォルザードに暮らす者なら知らない者はいない。
ヴォルザードを魔物の極大発生から救った英雄、史上最年少のSランク冒険者、魔物使いケント・コクブ。
華やかな表の活躍の陰で、領主さえ手を焼く歓楽街のボスを三人とも屈服させた恐ろしい噂も絶えない。
これまで、ケント・コクブに逆らったがために、人知れず魔の森の奥へと連れ去られ、跡形も無く消された裏社会の人間は数知れないという噂をベックは何度も耳にしている。
ヴォルザードに生まれ育った者にとって最悪な死に方とは、魔物に食われて死ぬことだ。
「冗談じゃねぇ……あんな女に拘って死ぬなんて御免だ」
ベックが逃げるように家路についたのを見届けて、コボルト隊は早智子の見守りに戻った。
◆ ◆ ◆ ◆
メイサを学校に送り出した後、アマンダは店で出す新しいメニューの試作に取り掛かった。
これまでヴォルザードは最果ての街などと呼ばれ、冒険者にとっては稼ぎの良い街として知られてきたが、食材に関しては乏しい街だった。
魔の森を間近に臨み、農耕地は限られているために、手に入る食材の種類にも限りがあったのだが、状況が変わりつつある。
近頃、手に入らなかった野菜や鮮度の良い川魚が出回るようになっているのだ。
野菜は主にブライヒベルグから、川魚は隣国リーゼンブルグから届けられるものだ。
食生活が豊かになったのは、かつて下宿していたケントのおかげで、アマンダは我が事のように鼻が高い。
食は庶民にとって大きな楽しみであり、食材が豊富になれば料理人として腕の振るう甲斐が増えるが、同時に新しい料理を出せなければライバル店に後れをとる。
これまで以上の研究、工夫が必要になっているのだが、元々料理が好きなアマンダにとっては然程苦にはなっていない。
野菜は生の状態で齧って味と食感を確かめた後、茹でて味の違いを確かめ、パスタとの合わせ方を考える。
魚も三枚に下ろして、一枚は塩焼き、一枚はムニエルにして味の違いを確認する。
「あぁ、駄目だね。火を通し過ぎて食感が悪くなっちまったよ。魚は少しクセがあるからムニエルには向かないね……」
調理と味見を繰り返しながらも、アマンダは自分が集中出来ていないことに気付いていた。
注意力が散漫になっているのは、店で働いているサチコが気になっているからだ。
サチコは気立ても良く、細かい所にも気が回り、客あしらいも上手いし、アマンダからすれば非の打ち所がない娘だが、辛い過去を抱えている。
以前、アマンダの店に下宿していたケントと共に異世界から召喚され、捕えられていたラストックでリーゼンブルグの騎士によって凌辱された。
その後、自暴自棄になり、ヴォルザードに逃れてきた後には、見境なく男に体を開いていた時期があったそうだ。
今、サチコのお腹の中にいる子供も、父親が誰なのか分からないらしい。
殆どの友人達が元の世界に帰還を果たす中で、サチコは安心して子供を産み、育てるためにヴォルザードに残った。
普段は気丈に振舞っているが、内心大きな不安を抱えているのを、一人で乳飲み子だったメイサを育てながら店を切り盛りした経験のあるアマンダは察していた。
辛い時には遠慮せず周りの者を頼るんだよと、アマンダが口を酸っぱくして言い聞かせても、甘えるのが下手なのも良く分かっている。
そんなサチコが気になるのは、昨日の昼に店を訪れた常連が話していた噂を耳にしたからだ。
「リーゼンブルグの騎士が来ているぞ」
「なんでも王女様が輿入れしてくるらしいぞ……」
「輿入れって、相手は?」
「魔物使いに決まってんだろう」
リーゼンブルグの王女様をケントが嫁にもらう話は、アマンダも耳にしている。
貰い手ならいくらでもいる王女様よりもサチコを嫁にもらえば良いのに……と、アマンダは思うのだが、男女の仲を周囲の者が押し付けるのは野暮な話だ。
以前アマンダは、冗談めかしてケントに貰ってもらいな……などとサチコに言った事があったのだが、もう十分すぎるほど世話になっているからと寂しそうに笑うだけだった。
ケントにはケントの考えがあり、サチコにはサチコの考えがあるのだろうが、近くにいる者とすればヤキモキするのだ。
「あぁ、今日は駄目だね。こんな日は普段できない掃除でもしてた方がマシだね」
調理は感覚を研ぎ澄まして、頭を使ってやらないと上手くいかないが、掃除はむしろ無心でやった方が綺麗になる。
試作品で早めの昼食を済ませると、アマンダは店の外の掃除を始めた。
勿論、普段から掃除は欠かさないが、開店前のバタバタしている時間に短時間で済ませているので行き届かない場所もある。
壁の埃を払い、窓を拭き、店の前を箒で掃いていると、気になっていたサチコが見慣れない男性と歩いて来るのが見えた。
「サチコ!」
「あっ、アマンダさん!」
アマンダが声を掛けると、サチコは連れの男と一言、二言、言葉を交わして別れた後に歩み寄ってきた
「どこかで見たような人だねぇ……」
「最近常連になってくれた人ですよ」
サチコは、店の常連からも評判が良い。
サチコ目当てで通ってくる男もいるが、当人に恋愛する気が無いようだ。
「何かあったのかい?」
「えっ、いやぁ……大した事じゃないです」
「丁度、お茶にしようと思ってた所だから、寄っておいで」
「今日は料理の試作はいいんですか?」
「なんか気分が乗らなくてね……」
「あぁ、そんな日もありますよね」
何か揉め事でもあったのかとアマンダは推測したのだが、サチコは普段と然程変わらない様子だった。
だが店に招き入れて話を聞くと、やはり一悶着あったらしい。
ただし、悪い話とちょっと良い話の両方みたいだ。
「それで、どうするんだい? 安息の曜日に逢引きに誘われたんだろう?」
「逢引きって、まぁ、そうなのかなぁ……でも断ろうかと」
「何だい、気に入らなかったのかい?」
「いえ、リュークは私なんかには勿体ないかと……」
「何言ってんだい、何も遠慮する事なんか無いだろう」
「でも、ねぇ……」
サチコが自分のお腹に視線を落としたのを見て、アマンダは大きな溜息をついた。
「そりゃ、あんたは自分でも馬鹿な事をしたって思いがあるんだろうさ。でもね、サチコ。だからと言って、あんたが幸せを望んじゃいけないなんて事は無いんだよ」
「でも、こういう話って、男の人からすれば嫌だろうな……って思っちゃって」
「話してみたのかい?」
アマンダの問いに、サチコは無言で首を横に振った。
「話してごらん」
「でも……」
「リュークさんだったよね? あの人は真っ直ぐに向き合ってくれたんだろう? だったら何も言わずに断るなんて失礼じゃないのかい?」
「そう、ですね……」
「そりゃあ、サチコにとっては辛い話さ。でも、その話を聞いても真っ直ぐ向き合ってくれる人ならば、お付き合いしてみても良いんじゃないのかい?」
アマンダとすれば、サチコの背中を押しているつもりだが、当人は一歩が踏み出せずにいる。
「もし、もしリュークが私を受け入れてくれても、将来この子が生まれて、その後で、私とリュークの子供が生まれたら……この子への愛情が薄れてしまうんじゃないか、この子をリュークが愛してくれなくなるんじゃないかって……怖いんです」
「はぁぁ……なんだい、そんな先の話を気にしてたのかい?」
「でも、あたしにとっては大事な話なんですよ」
「そりゃ大事な話だよ、大事な子供の話だからね。でも、今考えても答えなんか出ないだろう。そんな悲しい未来が訪れるかどうかは、サチコ、あんた次第なんだよ」
「あたし次第……ですか?」
サチコは、真剣な表情でアマンダの話に耳を傾けた。
「そうだよ。あんたは、お腹の子供を産んで育てると決めた。決めたんだから、目一杯の愛情を注いで育てる。そうすれば、ちゃんと子供には愛情が伝わるんだよ」
「でも、リュークは……」
「男だって同じさ、この人と決めたら、目一杯の愛情を注いで良い旦那に育てるのさ。愛して、愛して、愛して……それでも駄目だったら」
「駄目だったら?」
「そんな男は蹴っ飛ばして捨てちまいな」
「えぇぇ……いい話を聞いてると思ったのに」
「何言ってんだい、大事な話だよ。あんたが、あんたとして自立していれば、たとえ下らない男に引っ掛かったとしても蹴っ飛ばして捨てられるんだよ。ちゃんと一人で子供を育てていけるんだ。いいかい、サチコ、幸せってのは誰かにしてもらうものじゃない。自分の手で掴み取るものだよ」
「自分の手で……掴み取る……そうですよね」
サチコの表情から憂いの色が消えたのを見て、アマンダの口許にも笑みが浮かぶ。
「それで、どうするんだい?」
「そうですね、折角ですからリュークと向き合ってみます。国分より良い男だったら考えようかなぁ……」
「そりゃまた、随分と基準が高いんじゃないのかい?」
「そりゃそうですよ、あたし、いい女ですし」
「あははは……そうだったね」
この後、女二人のお喋りは、メイサが帰宅するまで賑やかに続いた。
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