第431話 縄張り

 カラカラカラ……パシャン……ギッ……ギッ……ギッ……


 バッケンハイムギルドの受付嬢、チコは毎朝同じ音で目を覚ます。

 近所で一番早起きのネルバお婆さんが、裏手の井戸で水を汲む音だ。


 釣瓶を落し、綱を手繰って引き上げる。

 持ってきた桶が一杯になるまで、ネルバお婆ちゃんは4回ほど釣瓶を落としては引き上げる。


 その音が終わった所でベッドから起き上がり、朝の支度を始めるのがチコの日課となっていた。


「あと二回……」


 ネルバお婆ちゃんが水汲みを終えるまでの間、ベッドで微睡んでいるのが心地良いのだ。

 規則正しい水汲みの音が終わるまで……と、毎朝耳を傾けているのだが、この朝は少し様子が違っていた。


 二度目の水汲みが終わり、三度目の水汲みをするべく釣瓶が井戸に落とされた直後、これまで耳にしたことの無い、ヒョーっという調子の外れた笛のような音が聞こえた。

 それきり、水汲みの音は途絶えてしまった。


「あれっ? 私が数え間違えた?」


 チコは、自分が寝ぼけて水汲みの音の回数を数え間違えたのかと思ったが、何かがおかしい。

 ネルバお婆ちゃんが水汲みを終えたのであれば、釣瓶を落とす必要は無い。


 というよりも、使い終えた釣瓶は引き上げておくのがマナーだ。

 だとすれば、ネルバお婆ちゃんは水汲みの途中で、急な用事でも思い出したのだろうか。


 こんな早朝に、急用があるとも思えないが、チコは何かを忘れているような気がしてきた。

 そう、とても重要なことだったようなのだが、寝起きなので頭が良く回っていない。


 いずれにしても、そろそろ朝の支度を始める時間なので、ベッドから起き上がったチコは古いドアが軋むような音を耳にした。


「ギギィィィィィ……」


 それは人間にとって、根源的な嫌悪感を覚えさせる音だった。


「ギギャァ!」


 ベッドから飛び起きたチコは、裏の井戸が見下ろせる窓へと駆け寄った。


「い、いやぁぁぁぁぁ!」

「な、なんだ! どうした、チコ!」


 悲鳴を聞いて、ベッドを共にしていた幼馴染の家具職人も飛び起きて、窓際で震えているチコに駆け寄った。


「ぐぅ……なんだ、何でこんな所に……」


 井戸端には、口の周りや両手を血だらけにしたゴブリンが6頭、悲鳴を上げたチコを見上げている。

 その足下には、喉笛を噛み切られ、腹を食い破られて事切れたネルバ婆ちゃんの遺体が横たわっていた。


 チコの悲鳴を聞いて、近所の家からも住民が顔を覗かせ、そのうちの一人が窓辺に置いてあった花瓶をゴブリンに投げ付けた。


「あっちへ行け! この野郎!」

「ギャギャァァァ……」


 花瓶を皮切りにして、周囲の家々から色々な物が投げ付けられると、ゴブリン共はネルバ婆ちゃんの遺体を引き摺って逃走を始めた。


「お婆ちゃん!」

「この野郎、返せ! 戻って来い!」


 二階の窓から物を投げ付けた人達も、家を出て追いかけるだけの度胸は持ち合わせていない。

 冒険者ならばいざ知らず、一般人にとってはゴブリン1頭でも十分に危険な魔物なのだ。


 ゴブリン共がネルバ婆ちゃんの遺体を引き摺って姿を消した後、ようやくチコは忘れていたことを思い出した。

 今朝はまだ、警戒を解除する鐘の音が聞こえていない。


「おい、チコ。大丈夫か?」

「ど、どうしよう。街にゴブリンが……」

「街に入られたら、外出は禁止なんだよな? 警戒解除の鐘が鳴るまでは、家にいなきゃいけないんだろう?」

「そ、そう……」

「大丈夫だ。ここは二階だから、奴らは上がって来ない。俺が付いてるんだ、心配すんな」

「エベルト……」

「大丈夫だ。大丈夫……」


 ギルドの職員として情けないと思っても、チコは幼馴染の胸の中で震えることしかできなかった。


 ローシェ達、冒険者の雨中の奮戦も虚しく、バッケンハイムはゴブリンの侵入を許してしまった。

 学術都市バッケンハイムは、学問を志す者にとっては天国のような環境だと言われているが、ゴブリンにとっても暮らしやすい環境が整っている。


 ネルバ婆ちゃんのように不用意な行動をとる年寄りだけでなく、馬車を引かせるための馬や家畜の鶏、実験施設で飼われている動物、そして人の営みによって排出される残飯。

 食料が乏しくなってしまった森に較べると、ゴブリンの餌になるものが豊富にあるのだ。


 それに、バッケンハイムの街並みは、ゴブリンが身を隠すのに適している。

 迷路のように入り組んだ路地、放置されたままの研究施設、公園の植え込み、学院などの庭園、建物と建物の隙間……隠れる場所には事欠かない。


 成人よりも小柄で、汚れることなど意に介さないゴブリン達は、人では躊躇する隙間にも身体を突っ込み、道を探していく。

 つまり、時間が経過すれば経過するほど、ゴブリンの駆除は難しくなっていく。


「エベルト、私ギルドに行かなきゃ……」

「何言ってんだ。無理に決まってるだろう。見ただろう、ゴブリンが群れでウロウロしてやがるんだぞ」

「でも、街で何が起こっているのか知らせて、対処してもらわないと」

「駄目だ、行かせないぞ。絶対に駄目だ!」


 チコは、エベルトに強く抱きしめられながら葛藤していた。

 ギルドの職員としての責務を優先するのであれば、家を出てギルドに向かうべきだが、そこまでの出勤要請は出ていない。


 ただ、実際に街で何が起こっているのか、正確な情報が伝わらなければギルドとしても対処のしようがない。

 だが、家を出た時に先程のゴブリンが戻ってきて囲まれたら、チコには身を守る術は無い。


 かと言って、家具職人であるエベルトに護衛を頼むのは間違っている。


『あぁ、こんな時に……』


 チコの脳裏に浮かんだのは、仲の良かった冒険者フェルの顔だった。

 ぶっきら棒な話し方をして、悪ぶってみせていたけど、本当は面倒見が良く、優しくて、とてもシャイで、チコは頼りにしていた。


 違法なポーションに絡んだ事件に巻き込まれ、魔落ちしてしまった後も事件解決のために尽力してくれていたそうだ。

 事件に関わっていたSランク冒険者、ジリアンに一騎打ちを挑み、一泡吹かせたと聞いている。


 そして、事件で得た報酬をチコに残して、この世を去ったと聞かされている。

 婚約者でもあるエベルトの腕に抱かれながら、フェルの面影を追うなど不謹慎だと思いつつも、チコは回想を止められなくなっていった。


 チコが自宅から動けなくなっていた頃、ギルドにはゴブリンの目撃情報が次々と寄せられていた。

 昨夜、臨時の砦などに籠っていた冒険者達が、戦いを終えてギルドまで戻る途中でゴブリンの姿を目撃し、情報を持ち帰ってきたのだ。


 その中には、一度下宿に戻って来たローシェの姿もある。

 ゴブリンとの戦いも4日目となり、住民達は不安を覚えつつも、夜間外出禁止の生活に慣れ始めていた。


 ローシェ達が引き上げて来る時も、まだ警報を解除する鐘が鳴っていないのに、家から出ている人の姿を散見した。

 古書店を営む大家が、不用意に家から出たりしないように注意をするために下宿まで戻ったのだが、その途中でローシェは2度ほどゴブリンを見掛けている。


 更にギルドに来る途中にもゴブリンを見掛け、火属性の魔術で追い払った。

 普段のローシェならば、追い掛けて仕留めたかもしれないが、一晩臨時の砦に籠った後だけに、討伐しようという気力が湧いて来なかった。


 ローシェと同様に、ギルドに情報を持ち込んだ冒険者達も討伐に走り回る余裕は無さそうだ。


「どうするんだ。このままじゃバッケンハイムがゴブリンの巣になっちまうぜ」

「じゃあ、お前が行って討伐して来いよ」

「砦に一晩戦って、そのまま休み無しで働けって言うのかよ!」

「いっそブライヒベルグに移籍すっか?」

「むこうに着く前に、ゴブリン共に食われておしまいじゃねぇの?」


 冒険者達は集まってきたが、ギルドの職員はいつもの半分もいない。

 壁際で様子を眺めていたローシェは、このままでは埒が明かないと思い、先に朝食を済まそうと歩き出しかけて、カウンター前に現れた場違いな存在に目を奪われた。


 異国の踊り子のような布地の少ない衣装に身を包んだ人物は、ひょいっとカウンターに腰を下ろすと、冒険者達を眺めまわした。


「ふん、ゴブリン程度に入り込まれた程度で浮足立つな。街に入り込んだゴブリンは、誘き寄せてまとめて討伐するが、それは夕方からじゃ。一先ずは食って寝て英気を養え」


 ローシェは、この踊り子のような人物がギルドマスターとは気付いていないが、冒険者達がゾロゾロと酒場に向かうのを見て、後に続くことにした。

 とりあえず、今は補給と休息が必要だ。


 酒場での冒険者達の話題は、夕方どちらに行くかについてだった。

 街の外周を固める砦に入るのか、それとも街に入ったゴブリンの討伐に向かうかだ。


「ばーか、街中での討伐の方が儲かるに決まってるだろう」

「そうかぁ? あんまり集まるとゴブリンよりも冒険者の方が多いなんて事になりかねねぇぞ。ゴブリン1頭倒して、報酬はその魔石だけならば、砦に入る手当の方が良くねぇか?」

「あぁ、なるほど、確かに纏めて倒さないと、ゴブリンじゃ旨味は少ないか」

「それに、なんだかんだ言っても、砦の中は安全だしよ」

「それはあるな……おびき出すような話をしてたけど、予想外の方向から飛び出されたら噛み付かれるかもしれねぇからな」


 冒険者達の話を聞きながら、ローシェもどちらに向かうべきか考えていた。

 ただし、お金のためではなく、どちらの方が自分の力を有用に使えるかを考えている。


 バッケンハイムのギルドに登録されている冒険者が、総出で対処に当たっているし、領主家の兵士も現場に投入されている。

 それでも、雨天という悪条件だったとは言え、昨夜はゴブリンの侵入をゆるしてしまっているし、事態は好転するどころか悪化しているように見える。


 つまり、絶対的に戦力が不足しているのだ。

 街の外周を守るだけで手一杯の状況で、街に入り込んだゴブリンの討伐を行うとなれば、更に人員が不足するだろう。


 限られた人員の1人として、ローシェは自分の力がどちらの現場に向いているのか考えていたのだが、街に入ったゴブリンをどういった手順で討伐するのかが分からない。

 ただ、ローシェは火属性なので、バッケンハイムのような込み入った街中で使うのは危険を伴う。


 あまり威力の高い魔術を使えば、火災という二次災害を引き起こしかねないからだ。

 それを考えるならば、自分は街の外周防衛に回った方が良いとローシェは確信した。


 酒場で朝食を食べ終え、下宿へと戻る間にもゴブリンを見掛けた。

 果たして何頭がバッケンハイムに入り込んだのか、見掛ける頻度からして、かなりの数だと思われる。


 ローシェが下宿に戻ると、大家である年配の女性は静かに本を読んでいた。

 厳重な戸締りとは裏腹の、いつもと変わらない光景に、ローシェはホッと息をついた。


 ローシェは大家に帰宅を告げると共に、外には出ないように念を押してから、自室に戻りベッドに横になった。

 家の中までゴブリンが侵入してくるとは思えないが、そこかしこで姿を見掛けたせいで、街にいるのに野営しているかのような錯覚に囚われる。


 ローシェは、昼を告げる鐘が鳴るまでグッスリ眠った後、ゆっくりと時間を掛けて身支度を整えて下宿を出た。

 平時であれば、街を散策するなどして過ごすところだが、家から出られないならば、時間を潰す方法も限られてしまう。


 ローシェは下宿の裏口を出る時も周囲の様子を探り、安全を確認してから素早く表に出て、足早に表通りを目指した。

 いつもなら学生などで賑わう表通りも、今は冒険者の姿しかないが、それでも誰かが襲われれば助けに入るだろうし、開けた空間なのでゴブリンが出没する恐れは小さい。


 ローシェは周囲の冒険者達と同様に、ゴブリンを警戒しながらギルドに向かって歩いていたが、不意にある事に気付いて小さく笑いを洩らした。


「普段、森に入る時でも、こんなに警戒していないだろう……」


 駆け出しどころか、結構ベテランに思える冒険者まで、街の真ん中で周囲を警戒している姿が、やけに滑稽に思えてしまった。

 考えるまでもなく、街は自分達のテリトリーだ。


 縄張りを荒らすゴブリンなど、淡々と討伐すれば良い。

 ローシェは今夜も臨時の砦に詰めるつもりでいるが、その前に、どうやって街に入り込んだゴブリンを誘き出すのか聞いていくつもりでいる。


 夕方の集合時間を前にして、ギルドのカウンター前には多くの冒険者が詰めかけていた。

 勿論、平時のような依頼は無いので、皆が注目しているのは街に入ったゴブリンの討伐方法だ。


 ゴブリンを掃討して元の生活を取り戻せるのか不安に思う者、どちらが稼ぎが良いのか目先の利を追う者、己の力が発揮できる場所を見極めんとする者。

 ローシェが討伐方法の発表を心待ちにしていると、またあの踊り子のような人物が現れた。


「おい、ギルマスだ……」

「いよいよだな……」


 ローシェは近くにいた冒険者の言葉を聞いて、信じられない思いでカウンターへと目を移した。

 マスター・レーゼは、朝とは色も形も違うが、露出度の高さは変わらない衣装に身を包み、カウンターに腰かけて足を組んだ。


「これより、街中でのゴブリンの討伐方法を伝える」


 決して大きな声ではないのに、マスター・レーゼの言葉が室内の空気を震わせ、集まった冒険者は一様に口を噤み、居住まいを正した。


「街中の三ヶ所に家畜を殺した血を振り撒き、その臭いを風属性魔術で街へと流してゴブリン共を誘き寄せる。誘い出したゴブリンを殺し、更なる討伐のための餌とする」


 作戦としては至って単純だが、それだけに複雑な作戦よりも分かりやすい。

 街中の討伐に参加を求められたのは、風属性の魔術師達だった。


 血の匂いを街中に送り込んで、ゴブリンを誘き寄せる役目を担うらしい。

 風属性以外の者達は、どちらに行くか迷い始めていた。


 どちらに行く方が稼ぎに繋がるか、未だに迷っているらしい声が聞こえて来る。

 外周の方が楽だ、いや街中の討伐の方が儲かる……ザワザワとした冒険者の声が高まって来るのをローシェは少し苦々しい思いで聞いていた。


 儲けるも楽をするも、全てはゴブリンを排除することが先決だろう。

 割の良い護衛の仕事も、森での討伐も、今の事態が収束しなければ出来ない。


 何よりも、自分達の暮らす街の危機に際しても、己の利益ばかりを考える冒険者の浅ましさが鼻について、ローシェが苛立ちを抑えきれず、臨時の砦に向かおうとした時だった。


 カツ────ン!


 マスター・レーゼによって、力任せにカウンターに叩き付けられた長煙管は、ポッキリと折れて雁首が宙に舞った。


「そなたら、このままで良いと思っておるのかぇ?」


 別段、声を荒げた訳ではないが、マスター・レーゼの声には逆らい難い響きがこもっていた。


「この街は、一体だれの縄張りだ? いつからゴブリンなんぞの侵入を許可した? ゴブリンが我が物顔で歩き回り、人がビクビクと恐れて暮らすような状況を許しておくのかえ?」


 ギロリとマスター・レーゼに睨まれた者は、身を縮こまらせて俯いた。


「無様を晒すな! ゴブリンごときに縄張りを荒らされて、それでも目先の金しか目に入らないような奴は、街を守れないような奴は、冒険者など辞めてしまえ!」


 ローシェは、マスター・レーゼの言葉に胸のすく思いがした。


「私は砦に籠って、今夜こそは、街に近づくゴブリンを一匹残らず消し炭にしてやる」


 静まり返ったカウンター前でローシェが声を張り上げると、マスター・レーゼはニヤリと笑みを浮かべた。

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