第1章2
やってしまった。また言葉を使ってしまった。
他に誰もいない自宅で、綾は後悔のため息を漏らしていた。先輩と男にひどい苦痛を与えてしまった。いくらあの人たちが間違っているにしても、他にやりようがあったのではないか。隠さねばならない秘密の力なのに、また噂も広がってしまう。文原綾は変だ、異常だと。
でも、彼女の胸に刃物が突き刺さることには二度と耐えられなかったのだ。それが絵であろうとも、今度こそは彼女を守る。二度と? 今度こそ……? かつてそんなことがあったろうか。
ふと浮かんだあやふやな疑問の追求は止めて、もっと重要なことを考えることにした。先輩たちは確かに言ったのだ。今大人気のゲームであるペイガン・ゴッド、その同人作品には出来次第で良い値がつく。なかでも油絵のイラストは珍しいらしく、ネットオークションで大評判になった。最終的に高値で落札したのは一般人ではなくブローカーで、ツクヨミという知る人ぞ知るやり手ブローカーだという。そのツクヨミとやらが連絡をとってきて、残りも全部持ってこいと命じられたのだそうだ。
先輩がまず持ち出した三枚の絵は、もうブローカーの手に渡っている。取り戻すには、ブローカーに渡りをつけるしかない。
聞き出せたツクヨミなるブローカーの連絡先はメールアドレスだけだった。荷物の受け渡しは私書箱経由で、ブローカー本人とは会ったこともないという。とりあえずツクヨミ宛に学校のPCでメールは出してみた。返事のメールさえあれば、力を使い、メールから真の言葉を読み取って、相手の居所を探り当てることも無理ではないだろう。絵の行方が心配でならないが、今は返事を待つことしかできない。
それにしても、どうして自分の絵がゲームのキャラだと言われるのだろう。男から取り上げた雑誌を開いてみる。ゲーム紹介のページには、そのペイガン・ゴッドが掲載されていた。ペイガン・ゴッドとは、地球からは見えないもうひとつの月である
この刃物を描いたときのことは、はっきりと記憶にある。そのときの絵では、少女は大勢に襲われて危難に陥っていた。このままでは少女は救われず、次の絵に表れてくれなくなる。恐怖にかられた綾は、彼女の手にまず杖を持たせた。それでも安心できず、杖の先端から鎌のように刃を伸ばした。次に描いた絵では、少女は鎌を構えて自ら敵に踊りかかっていた。彼女を戦士としてしまったことに綾は後悔した。それからの彼女は常にその刃物を構えた姿となってしまった。この鎌と、イラストの鎌はそっくりだった。そんな偶然がありえるのだろうか。
と、綾のお腹が鳴った。次の大きな問題が綾を呼び出す。そう、お金も食料もないのだ。父を操り、捨てられてしまった自分には。
綾は、数々のアルバイトを首になってきた。生きていくためのお金を、もう普通の方法では稼げそうにない。自分が得意なことといえば、ゲームの腕ぐらいだ。かくなる上は。
綾は覚悟を決めた。力を使ってでも、お金をゲームで稼いでやる。
塔之原市の繁華街にあるその大型ゲームセンターは、対戦格闘ゲームのメッカである。時間もいい頃合、会社帰りの客たちで熱く対戦が盛り上がっている。
その男もまた、勝ち抜いて次の対戦相手待ちをしていた。のんびりコンピュータ相手に
「わッ!」
やたらにきれいな女の子が突然、目の前に顔を突き出してきたのだ。うろたえる男を、二つの目がにらみつけ、
「勝ったほうが百円」
ロングの銀髪に深い
「なんだって?」
「負けたほうが勝ったほうに百円。お腹空いてるんだから二度も言わせるな」
勝手に怒っている少女は、男の了承を待つこともなくゲーム台向かいの対戦席に座った。小さな声でゲーム台に向かって、
「……お願い。ご飯のために私を勝たせて」
と呟いてから名残惜しそうにコイン投入音を鳴り響かせる。格闘ゲームの対戦が始まった。
女の子は確かめるようにスティックを動かし、ボタンを二、三度押してみる。女の子のキャラクターがぴょこぴょことパンチを空打ちする。
もしや素人なのかと男が様子を見ながら近づいていったとき。
「それだけ聞けば十分ね」
女の子がゲーム台に呟くや、目にも留まらない速度で手が動いた。
女の子のキャラクターが突然ラッシュをかける。怒涛の連撃で殴る、蹴る、投げる。訳も分からないうちに、あっけなく男のキャラクターは倒れていた。
少女、文原綾の手がずいと突き出される。
「百円」
ようやく男は事態を飲み込んできた。
百円玉を綾の手に置き、もう一枚を格闘ゲームのコイン投入口に叩き込む。自分とて上級プレイヤーだ。不意打ちでさえなければ、こんな子に負けはしない。
妙な賭けゲームが始まったことに気付いた客たちが集まってくる中、男はまず負けた。次も負けた。負け続けた。哀れにも百円玉を残らず献上することになり、力なくよろよろと席から逃げる。
面白いイベントの匂いにプレイヤーが列を成し始めた。次々に挑み、返り討ちにあっていく。
「まじかよ! 動きは素人くさいのに、こっちの動きをきれいに読んできやがる。」
「おお、すげえ! またパーフェクト勝ちかよ!」
「これってさ、まさか、伝説の、一夜にして全ハイスコアを塗り替えたっていう」
「あのAYAだってのか!」
騒ぎは拡大する一方だ。ゲームセンター中の客がその一角に集まり、熱気がすさまじいことになってきた。
少女、文原綾は一人ほくそ笑む。しめしめ、うまく乗ってくれた。ご飯ご飯、炊きたてご飯。
父が綾を恐怖して出て行ったのが半年前。貯金は尽き、とうに電気もガスも水道も止まっている。高校の学費はおろか、食費もない。
あまりにお腹が空くとなぜだか食欲は一点集中するものらしくて、とにかく今は炊きたてご飯を食べたいモードだった。暖かく、かぐわしく、深い味わいに満ちたご飯。最後に食べたのは、いったい何日前のことだったろう。
かつて一度、このゲームセンターで本気を出してしまったときには大騒ぎになりかけてしまい、それからというものゲームを断ってきた。誰にも説明しようがない自分の能力を、表沙汰にはしたくなかったのだ。しかし空腹は抑えようがない。学校で人を操るよりは、ゲームに勝つぐらいなんてことないだろう。
百円玉は台の上に乗り切らないほどだ。この調子なら、生活費に到達する日も近い。初めて遊んだけど、もうこのゲームは支配できた。能力を解放したこの私が負ける訳はない。
新手がまた挑戦してきた。
「ついにランカーが!」
観客が期待に沸く。
トップレベルの腕を持つランカークラスがいよいよ勝負に乗り出してきた。このゲームセンターに巣くう強豪連が、綾を実力者と認めたのだ。
画面にはレアアイテムでカスタマイズされたキャラクターが登場し、熟練した動きで攻め込んでくる。
ミドルレンジの攻撃で飛び込み、隙の少ないショートレンジ攻撃を連続してからフェイントで投げにつなげる。上位ランカーである彼の必殺パターンだ。そのことごとくを綾は避ける。
彼は驚愕した。コンボのひとつも知らないとしか思えない少女が、複雑に組み上げた連係攻撃を読み切ってくる。あらゆる予測の裏を書かれて彼のキャラクターは地に伏した。パーフェクト負けだ。理解できない。とても人間技とは思えなかった。
そう、それはいわゆるところの人間技ではなかった。綾はもともとゲームが得意とはいえ、その才能だけで初めてのゲームに勝てるほど甘いものではない。
他の者にはまったく聞こえないが、綾だけはゲームからの声を受け止めていた。
……〈そこで三フレーム有利〉…… 〈上段攻撃と投げ技の自動二択が成立〉…… 〈投げで二百七十度の方向に倒れる〉…… ……〈無敵フラグをセット〉……
耳で聞くのでもなく目で見るのでもない、感応するというのが一番正しい表現だろうか。
天才的ドライバーは車の声を感じ、一体化して走るという。綾はゲームの声を聞き、ひとつになって戦っている。人間技で勝てる訳はなかった。
文原綾には秘密があった。人や物には絶対的な真実を秘めた言葉が宿っていることに、綾は気付いていた。誰から教えられるでもなく、ごく幼いころからだった。綾はその真の言葉を聞き取っていくうちに自然とその使い方も覚えていき、今ではその言葉で相手を操ることもできる。
机、本、食器に車。人が作った物には真の言葉が宿っている。それは相手がゲームの筐体であっても例外ではなかった。
誰に言っても信じてもらえないので、いつしか綾はこれを秘密にしていたが、ご飯が食べられないのでは仕方ない。一線を越え、秘めていたこの能力を解き放ち、お金を稼いでやる。
また一人ランカーを倒した綾の耳に、ざわめきの中から言葉が飛び込んでくる。
「あの子に負けると百円。でも勝つとデートしてもらえるんだってさ」
「勝つと付き合ってもらえるそうだ」
「勝つとあの子が彼女になってくれるってよ」
「勝ったらあの子をものにできるんだってさ!」
「勝負! 勝負! 勝負!!」
「――ええええ?」
綾は椅子からずり落ちそうになった。
話がすっかり歪んでいる、周囲の熱気はもはや異様なレベルに達し、男たちの目は血走っている。綾がなにを言っても、こうなっては聞いてくれそうにない。
綾には恐るべき展開が読み取れた。
このゲームは負け抜けだ。負けない限り終わらない。どんなに綾が強かろうと永遠に勝ち続けてはいられないだろう。そしてこのゲームセンターはただいま夏休みスペシャル二十四時間営業中なのだ。
墓穴だった。それもとっておきのサイズだ。
暑さもあいまって綾の頭はくらくらする。ご飯も食べていないのに、いくらなんでも体力が続かない。あと何人に勝てるのか。
スティックが汗で滑り、喉はからからに渇いてくる。さすがに三時間以上も戦っているとあって限界は近かった。それでも綾は気力を振り絞る。
誰かのものになるなんて絶対にごめんだ。そしてご飯をいただくのだ。
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