第15話
エル・ヴァイオレッタと呼ばれていたエリアに佇む要塞じみた街、太陽が昇り始めて自然の照明が街を照らすと住人たちは活動を始める。農作業に従事する者、壁沿いに伸びる監視台に立つ者、建物の修繕や子供に朝食を用意する者、彼らは明日と己の生存を信じて生き続けている。
街の中でも目立つ大きな建物であるレイが住むホテル、その廊下に靴底が床を叩く乾いた音が響いていた。固い靴底のモスグリーンのブーツと黒いタイトジーパンを履き、薄手のシャツに上着を羽織りながら背筋を伸ばした美しさを帯びる姿勢で廊下を歩くミア。
彼女が立ち止まってドアを押し開ける。するとすでにカーテンが引かれて窓から差し込む日差しが床を照らし、その光の一部を窓際に佇むレイが遮っていた。
「あら、おはよう。起きるのが早いわね、体は大丈夫なのかしら」
感情が含まれない抑揚の死んだ聞き取りやすいミアの声、その声に振り返るレイもまた表情はどこか感情が希薄で、それでいて感じられるのはただ諦めだけであるようだった。
「大丈夫みたいです。手足に力も入りますし、お腹にも違和感はもう無いです」
ホープヴィレッジの出来事以降、時々体の中で蛇が蠢く様な違和感を抱いて激しい勢いで嘔吐してしまうことをミアに伝えていた。それはニーナには伝えていないことであった、ミアにもニーナには伝えないで欲しいとまで告げていた。
今では朝日に照らされる彼の顔に肉が戻り、岸壁のような細かな陰りも殆ど無くなっている。窓に添えられた手もかつては五指の骨が浮き上がっていたのが目立たなくなっていた。
「彼女ならもう出発した、別れは言ったの?」
「いえ、もう最近は話すこと自体少なくなってしまったので言いにくくなってしまいました」
「そう、意外ね。仲が良さそうに見えていたんだけど、喧嘩でもしたのかしら」
そう言うとミアはポケットから煙草の入ったパックを取り出し、丁寧な手つきで一本抜き出すと口に咥え、マッチを使って火を点けた。その間一切レイに視線を向けることは無かった。
窓の外では地平線に重なった防壁から太陽が分離される寸前の風景が広がっている、しかし彼が目を向けて見ていた、思い描いていたのはニーナの姿、彼女の表情と背中だった。
「一つだけ教えてくれませんか」
「私が教えられることなら」
決して重なることの無かった二人の目線、常にすれ違う様なギリギリを蠢く焦点、その視界。
「この世で最も、何よりも愛しくこの目で見たいと思う人の顔が、見れば最も汚濁を啜る様な嫌悪する記憶を想起させる時、僕はどうすればいいんですか?」
ミアは煙草から唇を離して彼の言葉を聞いていたが、その言葉で顔を上げて彼を見た。
彼女の瞳孔が狭まり、しかし目は見開かれる。
佇むレイの姿は蠱惑的ですらある程に神聖なベールを帯びていた。聖母を彷彿とさせる魅惑の思い悩む表情のレイを、街を照らす太陽が背を支える様に煌々とした光でシルエットを浮かび上がらせていた。
「見れば救われたあの人の背中と微笑み、それが今は癒しだけではなく汚濁じみた記憶をも僕に与える。ニーナさんという世界をもう直視できないのが苦しい――」
「……」
ミアは目を伏せて作戦前日にニーナが語ったあの日の出来事を思い出す。
ニーナは自分の全てを彼に捧げ、彼を思うが故に彼の元を離れることを決断したのだ。
深く重く絡み合った二人の世界、関係。そしてそれをも揺るがし脅かすこの世界、痛み。
想像を絶する壮絶な彼らの呪いというには足りない程に魂を染め上げた、汚染しつくしたお互いへの愛、これほどのものを見ることになったミアは戦慄した。
「まるでブラックホールだな、お前たちの関係は」
自嘲気味に笑みを漏らしながらつぶやくミア、そして虹彩を上げ鋭く細められた眼がレイを真っ直ぐ見据える。
「だがそこまで彼女が大切で、想い続けているなら。自分には必要だということぐらいわかっているだろう、それどころか居ないことにはもう耐えられない筈だ」
ドロドロに混ざり膨らみ、そして混濁したインクの如き底無しにどす黒い感情の渦が噴き出す先を失い、レイはミアを見つめて眦から涙の線を引いた。
「今も昔も生きる上で苦しみや痛みから逃れることはできない、だが何もそれだけで生きねばならないというわけでもない。お前は一人で居たら恐らく耐えきれない苦しみだけの人生になる、だが彼女と一緒に居ればお前の生は痛みと苦しみだけではなくなるんじゃないか」
レイはただ見えるモノを霞ませ、聞こえるモノにノイズを混ぜ、触る感触をも遠のかせた痛みに取りつかれ、それを振り払おうと必死だった。
――
『現在施設内の監視システムを再起動中、ログを見ている限りではやはり半分以上が信号無しで使用不能なようです。今使用不能のカメラの個体番号と地図を照らし合わせているのですが、殆どの壊れたカメラがB棟のモノですね』
管理室や会議室、社員やスタッフが休憩、会議に使う部屋といったものを含んで入り口もあるのがA棟、そして発電設備や実験場として使われているのがB棟、その外見は殆どA棟そっくりではあるが、大きさは1.5倍ほどで地下を含めれば3倍をも超える広さを持つ。
A棟からB棟へ入るための連絡通路、透明の強化ガラス越しに鉄骨が見える武骨な橋、その入り口にニーナ達は辿り着いたところで無線機に耳を傾けていた。
「了解。そのまま作業を続けて起動ができ次第報告を」
『了解、通信終わり』
ニーナは耳のインカムに押し当てていた手を離し、振り返って部隊に向き直った。
「これよりB棟に入る。軍と市民が避難した時に彼らが集められたのはB棟だ、言うまでもないだろうが最も危険な場所だ、気を抜くなよ」
各々がマスクを被っており目だけが露わになっていたが、彼女の言葉で目を泳がせたり不安げに目尻を下げる者は一人もいなかった。
二つの分隊は再び隊列を組みなおして整然とした並びで連絡通路を抜けていく。彼らは進んでいくとドアに到達して一旦立ち止まり、適当な間隔を完璧に保ちつつライフルを構えて照準越しの視線と共に銃口を向けてB棟に入っていった。
B棟の室内に入るとすぐに雑然とした様子が目に入った、四人で横並びのまま歩くこともできる広い廊下は壁に沢山の注意書きや知らせの紙が貼られており、さらには弾痕や飛沫した血が乾いた黒いシミも沢山目につく。床は避難した市民の私物が散乱している、衣服や食べ物の包み紙に空き缶詰、一見して何かもわからない書類や電子機器と細かなパーツ、それらを収めていたのであろうプラスチック製の折り畳み式ボックスの残骸、そして最早見慣れた死体の数々。
B棟の三階は状態が酷く四階が見える程に天井が崩れて進めず、部隊はすぐに二階へと降りていった。
隊列を組むニーナ達は左右で分隊ごとに分かれて進む、火気厳禁といった様々な注意書きのプレートが貼られたドアが幾つも続く。部隊はそれらを一つ一つノブを慎重に掴んでから回し、動けば素早く乗り込んで安全を確認、また適切な手段によって安全にしていく。
たとえどれだけゆっくりと足の下ろす先を気を付けて歩く彼らでも、紙くずやゴミといった物に擦れる、枯れ葉を抱える木の揺れるような音は漏らしてしまう。
第一送電管理室がある地下二階を目指して階段を降りていく、ハイペリオン発電所の機密を含む情報を保存していた二階のサーバールームを抜け、施設の外に敷き詰められたソーラーパネルであるアレイの直接的操作やその状態を管理する一階に降りる。
厳しい目つきで銃口と同じ方向を睨み、機械のように上半身を揺らすことなく滑らかな動きの下半身で進み続ける彼らは、とあるものを目にして不安が胸の中に絡み始めるのを感じていた。それは奥へと、地下へと進むごとに爆発痕が見つかるということだった。
爆発痕の殆どはドアを中心に散見され、壁の一部を吹き飛ばして焦げ跡を残し、また一部は床や天井をも抉って黒く焼き、爆風で色々なものを吹き飛ばして嵐の後のような乱雑な有様だった。どこもかしこも大小様々な弾痕と死体、それに数えきれないほどの木の実と見紛うような薬莢、それらを見れば激しい戦闘があったことが容易に想像できる、彼らは手榴弾や爆発物をも使って戦っていたのだろうと考えた。
これから一体どれほどの激しく容赦のない戦いを強いられるのか、彼らは冷や汗を手の甲で拭いながら頭に浮かべ、そして振るい払うという思考を繰り返していた。
暫く前からインカムに届く管理室でカメラを見ている者たちからの報告、その内容からは今のところ敵の姿は見えないというものだったが、B棟の地下に近づくにつれて壊れ落ちたカメラが沢山目に入るニーナ達を安心させることはできなかった。
するとニーナとは別の人物が率いる第二分隊がドアの前で立ち止まり、ドアのノブを掴んで回し開くことを確認した。するとインカムに管理室からの通信が入る。
『その部屋のカメラは一台生きているようでこっちから様子が見える、奥は一面がガラスでできているようで中はテーブルや椅子が散乱しているだけで感染者の姿はない』
ニーナたちは別のドアに近づきノブが動かないとわかると少し離れた反対側のドアに目をやる。
彼女の視線の先で第二分隊の隊員が休憩室とだけ書かれたプレートの埋め込まれたドアを押し開き、部屋の中へと流れ込んでいった。そして同時に激しい爆音が轟き、休憩室と書かれていた部屋の中から爆風が噴出して一階全体が地震のように揺れる。
爆音と爆発の衝撃でニーナは咄嗟にしゃがみ左手で頭を庇う、何かもわからぬ破片と埃が撒き散らされて天井からも欠片が落ちる。
彼女が目を開くと先程第二分隊が開いたドアが吹き飛んで廊下に転がっていた、休憩室のドアが無くなった入り口は大きく破損して焦げ、辺りの壁には細かな穴が開いていた。
休憩室の入り口から一人だけ上半身を廊下にはみ出させて倒れている、目を開いたままの顔の半分は血まみれの真っ赤で怪我はよく見えず、右腕は肘から先が消滅してチェストリグはスポンジのように血を含んで血で濡れていた。
まだ突入していなかった第二分隊の隊員二人が赤子のように床を這う、だが脳震盪を起こしているだけで目立った外傷はなかった。
「クレイモア地雷……」
ニーナが両目を見開き戦慄した表情でそう呟く。これまでの道中で見かけた爆発の痕と弾痕に見えたものはクレイモア地雷自体の爆発と、撒き散らされた鉄球による痕だった。
爆発で施設が揺らされて爆音が施設内だけではなく、休憩室の吹き飛ばされた窓の外へも響いていった。
そして爆発の後の刹那、爆音で耳鳴りの止まぬ中で突如一斉に施設のありとあらゆる場所から感染者の咆哮が発せられた。彼らの腹の底から全力で絞り出される怒号の様な声はあまりに力強く、その数多の咆哮は目を瞑っていればすでに周りを囲まれているかのような錯覚と恐怖感を生んだ。
「走れっ! 一刻も早く地下に向かうんだ、急げ! 全員動くんだ!」
ニーナはいち早く動き出すと、爆発でしゃがみ茫然とした技術者の襟首を掴んで引き上げ、指示を吠え上げた。
そして隊員たちは素早く立ち上がっていき銃を構え直し、廊下に連なるドアを全て無視して廊下を駆けていく。技術者三名を進行方向に向いた五名と背後に銃口を向けた四名が挟み込んだまま進む、技術者の三人は冷や汗を全身に掻いてびしょ濡れの手で機材の入ったケースを抱きかかえて必死に足を動かす。
『やばいぞ……連中一体どこに隠れてたんだ、とんでもない数の感染者がそっちに向かってる』
「そんなことはわかってる! もうすぐそこまで声と足音がしてるんだっ!」
前衛の五名が最高スピードで部屋を蹴り開けていき銃口を慎重かつ素早く巡らせながら走る。
感染者が一斉に動き出した施設中から爆発音が次々と聞こえ、その一つ一つで施設が揺れて天井から破片やガラス、照明が降ってくる。
「隊長来ます!」
後衛から悲痛なまでの声が聞こえてニーナは一瞬振り返る。一階の動脈ともいえる太く広い廊下の奥から悪夢を見る大人が発するような叫び声、怒号が段々と近づいてくる。ニーナには錯覚かどうかも判別がつかない、建物が揺れているような感覚に襲われていた。
そしてニーナが凝視していた廊下の最奥、扉や上階への階段もあるそこから黒い触手のような影の塊が蠢きながら姿を現す、それは徐々に膨張し廊下を埋め尽くし始めていた。
「キ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛」
今なお増え続ける何百もの雪崩れ込む感染者の叫び声が廊下を満たし、ニーナ達に迫る。
「走れえええええええ!」
隊員たちは走り出す、だが後衛の者たちは銃を持ち上げて必死に撃ち続けた。
5.56mm弾や7.72mm弾、9mm弾、12ゲージが嵐のように感染者の群れに叩きつけられる、それらは胸を突き内臓を掻き回して背中から全てを引き摺り出す、頭を突き頭骨を砕きながら脳みそを後頭部から噴出させる。全力で前屈みに走りながら撃たれた者は勢い余って前から倒れる、そして後ろから続く者が既に死んで今倒れようとしている者の背中を踏みつけて前へ前へと猛進する。
ひたすらに撃ち鳴らされ続ける銃声と止まぬ咆哮が地獄のような狂騒を奏でる、だが決して感染者の打ち鳴らす足音は止まない。
先頭を走るニーナは必死に進み続けて次々と現れる感染者の胸を撃ち抜き、続けて銃声がまだ聞こえるほどの一瞬の間に頭も撃ち砕く。細い円筒状の薬莢が次々と零れ落ち、地面で跳ねて金属音を立てる。
目の前まで迫ってくる血と怒りの咆哮を吐き散らす感染者たちを、歯を食いしばり汗をこめかみに浮かべたニーナが薙ぎ払うように射殺する、彼らの体から噴き出す血と弾丸が廊下を赤い痘痕まみれに変えていく。
不意に廊下のドアが激しく開け放たれ、感染者が飛翔する蜂のような勢いで怯え切って叫び声を抑えるのに必死だった技術者の一人に突っ込んだ。感染者はその突進で技術者を壁に叩きつけ、同時に首筋に齧り付いて皮膚と筋肉、血管をまとめて食いちぎり彼の首筋に半円の傷を作った。血が噴き出して洪水時の排水溝の如く溢れ出す。
「ぎやあああああああアアアアアアヴォオオオオエエエエエエエエエッ!」
真っ赤な血液を口から溢れ出させる激しい嗚咽と叫び声はすぐに怒りと狂気に染まった絶叫に変わる。血を垂れ流す口、滔々と流れる血の涙、感染者となったその男は絶叫を上げた次の瞬間には隊員に走り寄った。
すでに振り返って感染の一部始終を見ていた隊員は持ち上げていたAKMSUの引き金を引く、フルオートで飛び出す7.62mm弾が先程の飛び出した感染者の顔に孔を穿ち、胸骨と下顎に命中してその奥にある肺や心臓脳幹を蹂躙しつくして挽肉に変え、背中から吐き出させて確実に死なせた。
大口径の弾丸で顔が失われた頭部が地面に触れるより先に、隊員は続けてもう一人の感染者の胸を撃ち抜く、射出孔からドロッとした血が垂れ流される。
やがてニーナが最奥のドアを蹴り開けると、そこは地下一階へと伸びた階段があった、だが下からも叫び声が微かに届く。
「くそ……階段だ、急いで降りるぞ!」
隊列を一切崩さぬままに護衛九名と技術者二名が階段を駆け下りる、だがその間にも一階から雪崩の如き途方もない感染者の波が押し寄せてきた。狭い一枚のドアだけが閉じられる階段への入り口に彼らは殺到する、チューブから絞り出されるゼリーのように階段に流れ込み、また数体はドア淵に押し付けられて肋骨を砕かれて体が破け散った。
狭い入口だろうと階段だろうと、一切勢いを緩めず疾駆する彼らは両腕を振り回し、少しでも遅いものを引き摺り倒して踏み潰しながら押し寄せてくる。
後衛の四名が巧みに弾幕を切らさないように装填を交互に二名ずつ行いながら撃ち続け、同時に階段を駆け下りていく、彼らは銃をきつく握りしめて引き金に掛かった指に恐怖という力が掛からないように歯を食いしばりながら不屈の精神で戦う。
前衛五名と技術者が階段を降り切って地下一階に出る。地上とは違いパイプや配線が剥き出しの天井と武骨な壁で囲まれた廊下が伸びている、そして大型の台車や機械に加え地上と同じように死体と血とゴミが散乱していた。
奥から直ぐに数十人の感染者が全力疾走してくるのがニーナ達の目に入った、長い廊下を走る彼らの姿はすぐに段々と大きくなり、近づいてい来る。ニーナは地下一階に踏み込んだ時点でずっと銃口を持ち上げてドットサイトを覗き込んでいたM4A1を素早く、まるでフルオートの様な速度で一発ずつ撃った。まだ十分な距離の保たれていた感染者たちは脳と頭骨、頭皮の破片を空中で血と共に撒き散らしながら頭を揺らし、次々と前のめりに倒れ込んでいく。
獣じみた前屈みの疾駆で両手を荒々しく振り回しながら、アスリートのような速度で走る感染者をドットサイトで捉えて射殺する、彼らは勢い余って車に撥ねられたかの如く床に転がった。
「さっさと入れ、援護する!」
振り返ったニーナと前衛の隊員二名が階段の方向に銃を向ける、既に一階と地下一階の中間にあたる踊り場まで感染者の波が押し寄せていた、転げ落ちる者もいれば一階からそのまま真っ直ぐに落ちてくる者もいる。
後衛の者たちが踵を返して慌ててドアを潜っていく、その間ニーナ達は絶え間ない銃火を撃ち放ち続けて波を押しとどめる、だが先頭の者を射殺してもそれが倒れるより先に後ろから迫る者がその死体を突き飛ばす、溢れ出す洪水は勢いを弱めることすら無い。
だが何とか彼女たちが撃ち続けている間に後衛四名が地下一階に入った、彼らがチェストリグの背中を掴まれるギリギリの距離でなんとかドアを潜るとニーナが声を上げる。
「グレネード三つ放り込むぞ!」
その一言で意図を理解した隊員二名がチェストリグに引っ掛けられていたM67破片手榴弾、MK3手榴弾を掴み出し、ニーナが階段に向けて放り投げるのに合わせて投擲した。
全員階段から離れて顔を背ける、その一瞬の間にも感染者の嵐の如き呻き声、叫び声が近づくことに隊員たちの背中が震えが上がりそうだった、しかしすぐに爆音が三度轟く。
一度目の爆発で階段への入り口から数人の感染者が吹き飛ばされて廊下に転がる、彼らは爆発で気絶することも怯むことも無くニーナ達に真っ赤な目と顔を向け、口腔を覗かせて血を吐き出しながら咆哮を浴びせた。だが彼らが顔を上げたと同時に直ぐ二度目三度目の爆発が階段で起き、手榴弾の破片と爆風が彼らの体を蹂躙し壁に叩きつけ、粉みじんにした。しばらくして階段が崩れ落ちる音がする、金属が擦れ千切れる甲高い音が彼らに逃げ道が消滅したことを知らせる。
「構うな進み続けろ!」
だがすぐに立ち直った隊員たちはさらに奥へと進んでいく、地下二階の送電管理室に最短で辿り着くためには階段をただ降りるのではなく廊下を通っていく必要がある、それに感染者のうねる波を押しとどめるにはある程度のスペースも必要であった。
敵の殆どは地上から地下へと流れ込んでいた、最早施設の周りに潜んでいた感染者も爆発音を聞いて我先にと駆け込んでくる。
ニーナ達は廊下を抜けていきながらも前後に弾丸の雨を降らし続けている、彼らの「装填!」という声が繰り返し廊下に響く。
三人の感染者が水中で溺れているかのように、両腕を激しく動かしつつ全力疾走してくる。ニーナは直ちに全員の胸に二発ずつ反動を感じさせない上半身の動きで撃ち抜いた、敵は床や壁に体を叩きつけながら転がりのたうち回るが、素早く頭部を撃ち砕く。だがその瞬間にドアが荒々しく開け放たれて感染者が飛び出してきた、ドアが開き始めたときにはそちらに銃口を向けつつあったM4A1を発砲、左肩に直撃して黒々とした弾痕が開く。感染者は体を翻して勢いよくそのまま壁に突っ込んだ。ニーナはその胸に一発撃ち込み、続けて顔面を狙って引き金を引いた。胸の被弾で跳ねた頭部に孔が穿たれ、壁に血が広がった。
銃の吐き出す薬莢が廊下の床にぶちまけられていく、薬莢の零れる金属の軽い音と発砲の激しい音が鳴り止まない。
その時不意にマガジンを抜き捨てたニーナが一人の隊員に声を掛ける、顔は彼の方向を見ていながらも手はチェストリグからマガジンを抜き取って銃に差し込みボルトリリースを叩いていた。
「スミス、再装填してから先に進んで軽機関銃で援護しろ! このままじゃ押し切られる、絶対に頭だけを撃て。ルーク、ドムは奴についていけ!」
「「「了解!」」」
弾が切れていたM249軽機関銃を背負うスミスと呼ばれた隊員は後方に向けていたM4A1の銃口を上げ、走りながら銃を持ち換えてM249のフィードカバーを開け放って空の給弾箱を投げ捨てた。
ニーナは彼の代わりに振り返って後方に銃口を向ける、緑色のドットが浮かぶ薄い透明のレンズは廊下の後方奥を捉える、だがそこに見えるのは赤と黒、そして茶色といったひたすらにくすんだ色。二メートル以上はある天井まで感染者の波は高くなっていた、撃たれた者こけた者遅かった者、それらをひたすらに踏み越えて前に突き進み続ける彼らという濁流は廊下を埋め尽くさんとしている、両腕を壁に押し当てて体を前へ前へと引っ張り、足を大きく伸ばして人体の限界を忘れさせる速度で走る。
うねる彼らの波は最早人型の群れと認識できない程あまりに膨大な数となっていた。ニーナは脳をフル回転させて己の動体視力を試すかのように、必死に波の中の顔を見出し、同時に正確無比な射撃で撃ち抜いていった。ドットサイトの枠の中、緑色のドットを必死にうねる人海の中から見出した顔に合わせて素早く引き金を繰り返し引く、銃が反動で後方に突き出されて薬莢が右側へと蹴り出されていく、そして撃たれたらしき感染者は血を噴出させてまた波に飲み込まれていく。だがどこを撃っても誰かしらに着弾するその中、顔だけを撃つのは彼女であっても難しかった。
それからすぐに後方からの支援射撃が始まる、廊下に放置されていた机の上にバイポッドでM249を展開、スミスはひたすら引き金を引き続けてなぞる様にうねる波の中から浮かぶ顔をサイトに浮かぶ照準で狙う。止めどなく吐き出される薬莢とベルトリンク、銃声の金切り声が永遠に感じられるほど長く発せられる。十字にマズルから迸るマズルフラッシュが彼の目に焼き付く。
援護することを指示されたルークは廊下の部屋から次々と走り出てくる敵をブッシュマスター製アサルトライフルのACRで撃ち抜いていく、飛び出した瞬間に体に弾丸を浴びた彼らはその勢いのまま壁に衝突して床に転がる、一瞬でも隙があればその頭をも撃ち抜いていく。
ドムはB&T製APC9のフォアグリップとピストルグリップを必死に握りしめ、手の中で激しく暴れる銃を抑え込む。しかし苛烈な弾幕を掻い潜って飛び込んできた、若い女性であった感染者が顔面の半分を真っ赤な肉々しい蜂の巣に変えながらもドムの防具の無い上腕に歯を立てた。皮膚を貫き、筋肉を裂き、口腔に溢れる血をその裂け目に流し込む。
「ぐああああああ! くそがああああああ!」
ドムはAPC9のピストルグリップから一瞬で手を離し、拳を感染者の鼻先に叩きつけるが食い込んだ上下顎は一切緩まない。彼は大腿の革製ホルスターからルガーP08を引き抜き、感染者の眼球を銃口で押し潰して引き金を引いた。後頭部の一部が吹き飛び艶やかな赤に染まった脳みそが噴出し、血が勢いよく迸り始めた時、ドムは銃口を引き抜いて自分のこめかみに押し付けると躊躇なく撃ち抜いた。
地獄から溢れる悪鬼を迎え撃つような災害に似たこの戦闘の中、誰かが瞼を閉じた刹那には仲間の誰かがすでに死体か敵に変わってしまい、もう第一分隊の半分が銃を手から零れ落としていた。
弾丸が飛び交う廊下の中、刻一刻と感染者の壁が迫ってくる、既に何百発もの弾丸が飲み込まれていた。
暫くすると進行方向から湧き出てくる敵は少なくなり、ニーナ達はひたすら後方、地上からうねりながら押し寄せてくる敵を迎え撃った。
ニーナの使うM4A1はフリーフローティングのバレルであり、なおかつフォアグリップを掴んでいた、だがすでに余りの発砲数の多さからバレルとハンドガードが熱くなっておりその熱がフォアグリップを握る左手にも伝わっていた。周りの他の隊員の中にはバレルが薄い赤色にまで変化するほど熱くなっている者もいた。
彼らは後方に向けて銃弾の壁を織り成しながら階段に向かって進んでいた。だがその時、ニーナは不穏な音に気が付いた、銃声と爆音、そして彼らの足音と叫び声がこべり付いた耳に届く軋む音。彼女は同時に床が揺れ始めていることにも気が付く。
突然、彼女たちが銃口を向ける方向の廊下を埋め尽くす感染者の壁が一瞬だけ消えた。彼らのあまりの数の多さからなる過重量に床が耐え切れず、地下一階の床がニーナ達の目の前からその奥まで抜け落ちたのだ。それでも感染者たちのうねりは一切止まらず、ホースから流れる水の様に地下一階の廊下から飛び出して地下二階へと流れ込んでいく。
廊下の崖淵に立っていた一人の隊員の足元が崩れ落ちた、本人とその様子を見ていた仲間が声を出す暇もなくその隊員は地下二階へと消えていく感染者の波に呑まれた。
隙間が見えない程無数の感染者が下へと落ち、最初に落ちた者たちは床に倒れてさらに上から落ちてきた者に潰されて多くが死んだ、だがすぐにその死体によるクッションが形作られると、下に流れ込んで生きていた者たちが動き出し近くの空間に押し寄せていった。
『おいおいおい、嘘だろ止めろ止めろ止めろ!』
するとインカムに悲痛な管理室からの通信が入った。
管理室では地下二階で生きていた監視カメラの映像を大型モニターに表示させ、全員が無意識に立ち上がって目をくぎ付けにされていた。
「どうした? 何があった?」
『送電管理室にあいつらが雪崩れ込んで設備を破壊している』
管理室で施設の状況をモニタリングしているPC画面には次々とエラーが表示されていた、それは送電システムだけではなく他の無数のシステムまでもが破壊されて機能停止に陥っていると知らせるものだった。
地下二階に放出された感染者の濁流は人が入れる空間のすべてに押し寄せ、行き渡って部屋に並ぶ設備に衝突、押し退け踏み潰し破壊しつくしていた、その洪水の如き見境の無い災害的破壊は目を疑うような勢いだった。
送電室には数多くの操作盤や配電盤が広い部屋に立ち並んでいたが、流れ込んだ感染者の波はそれら全てを押し倒し飲み込んだ。
そして施設内は暗転した。
全ての照明が消え、辺りに灯っていた警告灯も消え、管理室のモニターやPCの全てがダウンした。隊員たちが一人一人、ゆっくりと無意識な動作でチェストリグに取り付けられたライトを点ける。
『たった今全ての蓄電池への接続が破壊された。この施設での電力利用はもとより、外部への送電も不可能になった――』
目の前から下へと風の唸りの様な叫びを上げる敵の波が流れ込んでいく中、銃口を下げていた隊員たちだったが、通信を聞いて全員表情を凍らせて戦慄した。
『作戦は、失敗だ』
その一言を最後に通信が切れる、ニーナは耳のインカムに押し当てていた左手をゆっくりと下ろした。彼女も思考が真っ白に塗りつぶされてしまった、何もかもが予想を超えた最悪の事態で飲み込まれ、破壊され、希望は失われたのだ。
指揮所で通信を聞いていたベクターはその内容を信じられず愕然とし、指令室内の他のメンバーも全員絶望の色で表情が塗り固められてしまった。
だがニーナは奥の階段から段々と聞こえてくる感染者の呻き声に気が付き、我に返って眉間に力を込め、己の精神を奮い立たせて体を動き出させた、そして声を張り上げる。
「工兵でも誰でもいい爆薬を用意しろ! このままだと奥から噴き出してくる連中の波に押しつぶされる、階段を落とすんだ!」
「で、でも……」
ニーナが目を向けた大きなバックパックを背負ったルークは、狼狽えた様子で目を見開いて彼女を見つめ返していた、彼が持つACRが震えで振動しているのは一目でわかった。
ニーナは彼に近寄って左手で襟首を掴み、引き込むとその額に自分の額を叩きつけた、頭部同士が離れないまま目と目が直ぐ傍で合う中、ニーナの憤怒に染まった殺意を漂わせる眼が彼を睨む。
「動け。怯えたままこんなところで無駄死にする気か、さっさと爆薬を用意して階段と天井を吹き飛ばして道を封じるんだ」
額から伝う血で瞬きを繰り返すルークは一瞬だけ怯えたまま硬直していた、しかし彼もまた目に力を込めて瞳の色を取り戻すと声を張り上げた。
「は、はい!」
彼は階段のある方向に駆け出していき、彼に触発された数名もその後に続いた。
胸元とライフルに取り付けられたライトで道を照らしながら部隊は奥へと進む、完全な暗闇に包まれた廊下はライトが照らす円の中以外は全く見えない。視界が極端に奪われながらも今なお流れ込み続ける感染者の濁流から発せられる狂い怒り、叫ぶ声が自分たちを囲むような状態は、常人であれば瞬く間に気を失うか、発狂しかねない地獄と言うほかない状況だった。
彼らは真っ暗な廊下の奥で扉を蹴り開け、地下二階へと伸びていく階段を見つける。長方形の空間が縦に、その中に壁に沿う様な階段がある。
ニーナを先頭として部隊は急いで階段を降りると彼女を含めた数名が地下二階の廊下に飛び出して迎撃の準備をする、そしてその背後ではルークと数名が慎重かつ素早く爆薬を用意して階段と壁に設置していった。
ライトの光ですら最深を照らせない廊下の先、真っ暗な奥から何十奏にも重ねられた叫び声が段々と近づいてくる。ニーナたちはひたすらに照準器越しに十字やドットの浮かぶ暗闇を睨みつける、だが彼らのライトに照らされて赤く光る眼がその闇の中に浮かび始めた、阿鼻叫喚の顕現とも言える様な溢れ出す感染者の群れは充血した真っ赤な目を光らせて彼らに迫る。
だが感染者の鮮血を帯びた目がニーナたちを捉えた時、爆薬を設置し終えた隊員たちは信管を繋いだコードを引きながら地下一階へと戻っていた。
「設置完了、下がってください!」
「了解! 行くぞ、急げ!」
先頭に立っていたニーナが最初に階段に戻り駆け上がる、それから次々と慌てて隊員たちが地下一階へと戻っていった。最後の一人が階段を上り終えた頃には叫び声は直ぐ傍にまで来ていた。
「爆破っ!」
先程のクレイモア地雷とは比べ物にならない爆音と衝撃が轟いた、地下が揺れてニーナ達の体は一瞬浮き上がり全身の鼓膜や肺胞、空気や液体で満たされた内臓を揺さぶる。その衝撃波は脳にも激しい力を叩きつけて意識すら奪いかねない。
だが何とか耐え抜いた彼らの傍らでは、階段に通じるドアから爆風と破片や塵が爆散していた。なんとか持ち直したニーナは立ち上がり、銃を構えながら階段を覗き込む、すると階段が破壊されたのは当然ながら、天井と周囲の壁も適切な高さと間隔で爆破されたことによって残骸が一階への足場となることもなく、二階から階段へと通じてる入り口だけが完全に埋められ封じられていた。
安堵できる状況とは言い難かったが、それでもニーナは大きく息を吐いて銃口を下げ、そして振り返って隊員たちに向き直った.
隊員たちは緑に輝くケミカルライトをいくつも床に転がす、真っ暗な地下でぼんやりと弱弱しく小さな範囲を照らす。
すると彼らから少し離れた場所に一人の隊員が佇んでいた。彼は銃をスリングから外して床に置き、マガジンも床に並べてチェストリグを脱ぎ終えたところだった。最後に拳銃をホルスターから引き抜く。
「分隊長、すみません――」
彼はそう言うとニーナの返す言葉を聞くことも無く、隊の仲間の眼前で下顎に銃口を押し当てると同時に引き金を引いた。辺りを満たす叫び声にも掻き消されない低く叩きつけるような銃声が轟き、彼の頭部が爆発して血と脳みそが飛び散った。それら肉片は弾丸とともに天井に叩きつけられ、潰れたトマトのように赤々とした筋張った肉と液体を垂らす。
「わ、わたしも――」
生き残っていた最後の技術者は彼のその様子を見ると慌てて握られていた拳銃を乱暴に引き剥がし、口の中に押し込むとフロントサイトを口腔に食い込ませながら引き金を引いた。発砲の圧力で無様に頬を大きく膨らませ、後頭部が弾け散って射出孔から弧を描いて血が流れ出した。。
しかしその一部始終を見ていた他の隊員たちは誰一人として取り乱したり、驚く様子を見せる者はいなかった。
エル・ヴァイオレッタまでの旅路の中、まだ完全には壊れていない街で救助を続ける中、必死に生き残ろうと生存者同士で協力し合う中、それら様々な状況で精神の限界に直面して自ら命を絶つ者は最早珍しくもなかった。それどころか誰しもが次は我が身と、決して気の休まらぬこの世界で生きる上で意識に残ってもいるのだった。
一時の言葉無き間、ニーナは静かに他の隊員の顔を見回す、隊員たちもまたお互いに顔を見合わせていく。それはしばらくの間の様子見、一人が決断すればそれに引き摺られる者もいる、彼らの経験則が来るかもしれないその時を待った。
だが誰もそれ以上のことはしない、自分たちの銃のグリップをきつく握る感触を確かめ、そして不安を拭い去る己の精神力への信頼を確立した者たち――ニーナ含め五名だけが残る。
「こちら第一分隊、残存人数五名――」
管理室と指令室両方へとそう静かにニーナは伝える、薄い緑がケミカルライトから広がり淡い光が床と壁を照らして間接的に隊員たちの眼を暗闇に浮かべた。
――
「でもなレイ、彼女のことも考えてやれよ」
「――っえ?」
「あいつはお前を想い、お前の為に傍を離れることにしたんだ。あいつはお前の意志をたぶんまだよくわかってない。だからもう危険なことが無いとなれば、自分が傍に居ることはお前の為にならない、傍に居るべきではないと現実を見つめた理性で結論を出す。だから今ここで話しているのは私なんだ」
「……」
レイは返答に窮してしまう、改めてミアに言われて気が付く、彼は自分自身のことしか考えていなかったことに。自分は自分の痛みに苦しみ、目を背け、逃れようとし続けていたのに。ニーナは一人でレイのことを、その未来を真剣に深く考え、自分ができる辛い最善とする選択を実行したのだ。
「第三者の私だからお互いのことを考える君たち二人とは別の見方ができる、だから私にはわかって言えることもあるんだよ。レイ、君にだってわかるはずだ、彼女には君が居なければダメだということが」
かつては一時の気の迷いとも言えるニーナの行動によってレイは生き永らえた。今では逆にニーナにとってもレイは必要なのだ、それを彼女自身が自覚している、それでいてレイと共に居続けることを止めようとしている。
「勿論君たちだって考えて行動しているのだろうけど、やはり後悔の無いように慎重にどうするか決めな」
優しさの滲むミアの目を見ていられなくなったレイが顔を背ける、するとその時ミアがポケットに入れていた無線機が鳴る、彼女はすぐに応答する。そして彼女は目を見開き、ただただ信じられないといった表情を示し、一人考えに耽り始めたレイを尻目に部屋から足早に出ていった。
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