第12話

「じゃあ、あのガソリンスタンドを少し見てくるから」

「……うん」

 外を眺めるレイは車の窓に寄り掛かり、人形じみた静けさのまま唾をのむような小さな返答をする。

 ニーナは車を降りると彼を一瞬見てからM4A1を助手席から掴み上げてドアを閉めた。

 二人の車は多少の植物で飾られた山、そして申し訳程度のガードレールで囲まれたアスファルトの道路をひたすらに走っていた。その途中で上り坂と下り坂の境界に位置する場所に小さなガソリンスタンドがあった、そこはコンビニエンスストアと呼べるほどのものも無く。従業員一人だけで機能する程度のスタッフルームと、休憩室や自販機と言ったサービスしかなかった。

 ニーナはマズルにAAC製SR5サプレッサーを装着したM4A1を持ち上げ、銃口を微かに下げつつサイト越しにではなく裸眼で当たりを見回し、慎重な動きでキャノピーの下に入って計量機に近づいていく。ノズルを掴んでレバーを引いてみるが何も出てこない。彼女はノズルを地面に放り投げて客用の休憩室に向かう、休憩室の隣にはピットルームがあるが今はシャッターが下りていた。元々はガラスの自動ドアがあった場所を潜り抜け、店内に入ると中には耐熱シートやブルーシートが地面に散乱し、バッグや衣服も転がっている、また枝の燃えカスと焦げた火を使った形跡もあった。ガラスや砂利、虫やネズミの死骸を踏み潰して奥へと進んでいく。

 余計な音は立てないようにゆっくりと足を動かして一歩一歩進み、銃口も自分が見ている方向に向け続けている。スタッフルームへのドアを蹴り開け、踏み込む前に瞬く間に銃口を中へ巡らせて安全を確認した。中にはロッカーと簡易ベッド、小さな机、それに積まれた段ボールと小さな個室トイレへのドアしかなかった。ロッカーを一つ一つ開けてトイレも確認するが人も感染者も居ない。一旦サービスルームに戻るとカウンターの裏から通じるピットルームに入る、中には殆ど分解されてフレームしか残っていない赤のミニバンが中心に鎮座し、周りには車のパーツや工具が散乱している。

 建物の中でピットルームの天井が一番高く小型クレーンが取り付けられていた、だが見上げたニーナは予想したものが見つからず不満ではなく意外といった様子で眉を動かした。

 外に出るとガソリンスタンドの背後は木々の生い茂る急な坂が続いている、所々で裂けて意味をなしていないフェンスがその境に並んでいる。坂の下を見下ろすと緑色の植物の中に馴染まぬ赤や青といった色が見えた。目を凝らすとそれは人間の着る服の色、だがその服を着ている者はすでに死んでいた。転げ落ちたのか逃げようとして失敗したのか、ともかくニーナはこの場所を使っていた最後の者がどうなったのかを確認できたので少し安心した。何者かが居た形跡があるのにその存在自体を確認できないのは無視できない程に不安であり、放置するのは危険なものだと彼女は認識していた。

 休憩室に戻って放置されているバッグや道具を調べる、だが使えそうな道具や武器、食料も無くライターすらオイルが切れている始末だった。

 しかし一つのダッフルバッグを漁ると男物の衣類が見つかる、汚れも目立つし擦り切れて穴もあるが、病衣のまま町を出たレイには新しい服が必要だった、それは彼女にとって一番良いものだった。

 既に数日車を走らせてエル・ヴァイオレッタまであと数マイルという位置だったが、ニーナはこのガソリンスタンドで休息をとることにした。ここまで順調かつ素早く目的地に近づくことができたが、それまで休むにしても寝るにしても車の中ばかりだったのだ。彼女はなるべく広い空間で足を延ばせるような場所でレイを休ませたかった。彼の様子を見ればもっと早くそうするべきだったが、彼のためにも彼女自身の心境としてもあの町からは一刻も早く可能な限り距離を取りたかったが故にひたすら走ることになったのだ。


 ニーナがガソリンスタンドを調べに車から離れてしばらく経った頃、ゆっくりと車の後部ドアが開いてふらふらとおぼつかない足取りでレイが地面の上に立った。眩い太陽の光に目を細めて辺りを見回し、次の瞬間には目を見開いて口を手で抑えながら近くの草むらに走り寄ってから勢いよく嘔吐した。

 胃がめくり上がる様な激しさで胃の中身を口から迸らせ、レイ自身が自分だとは思えないような低い嗚咽が口腔から溢れ出し、それは最早感染者の叫び声すら彷彿とさせる。何度も鼓動を激しくさせたレイが全身を震わせながら地面に吐瀉物を叩きつける。

 嘔吐と共に涙も止まらず、そんな自分に情けなさと無力さを胸に滲ませたレイは全てを吐き切って地面に膝をついた。既に胃の内容物は空になって唇から滴るのは過剰に分泌された唾液と胃液のみ、胃液の不快な味が口の中に広がる。それからしばらくして流れ続ける涙は地面にこぼれて染み込んでいく。

 抑え込んでも漏れてしまう悲痛な嗚咽が止まらない、それでもなんとか涙と口の周りの吐瀉物と唾液を拭って顔を上げた。呼吸を整えてから立ち上がって膝についた汚れを払い、慎重に綺麗に見える様に服を整えるとレイは急いで車に戻って静かにドアを閉めた。


 太陽が地平線に姿を隠し始めて最後の夕日が段々と細くなり、やがて消えてしまった夜。

 ニーナたちは光が漏れ出さぬよう散らばっていた布で割れたガラスの入り口や窓を塞ぎ、客用のサービスルームの床に耐熱シートと大きな二人が入れる寝袋を置き、枝で作った小さな薪を囲んでいた。揺らめく炎と共に二人の影も背後の壁で揺らいでいる、冷える手を伸ばして温めるニーナの目の中に煌々と火が浮かぶ。

 だが灰色のコンクリートに似たブロック状の携帯食を手に持ってただじっと見つめたまま座るレイの目は暗く陰っている。

「食欲がないか?」

「あ、いや……」

 声を掛けられて少しやつれた顔を上げてレイはやっと一口齧りつく。無表情のまま機械的に顎だけを動かして咀嚼する彼の様子に、ニーナは眦を下げる悲し気な表情を隠せない。

 町を出てからも彼はずっと虚脱状態が続いていた、心が引き抜かれてしまったような生気の無い目は彼女を見ることも少なくなっている。

 ニーナはそんな彼にどうすれば良いかわからず、具体的な行動を起こせないでいた。

 夕食を終えて窓に降ろした布を退かして月がもう高いことを確認し、寝袋の準備を始めた。大きな寝袋の側面にチャックが取り付けられており、温めてやりながら傍に居るためにレイと二人でその中に入る。

 ニーナの目の前には目を瞑ったレイがいた、だがいつも通りの規則正しい呼吸を続けており、それは寝息とは違った。彼は町の一件以来不眠症となってしまい寝ることが難しくなっていた。町を出てすぐの頃は目を瞑ることすらしなかったほどだが、彼女が手で瞼を降ろさせて眠れなくとも休ませるようにしてからは時々浅い眠りにはつけるようになっていた。

 幾ら心と体が疲れ果てていようと深く眠ることができず、ただその疲労が蓄積される一方の彼の頬は痩せ細りつつある。

 すると不意に彼の口が小さく動き、弱々しい声を出した。

「もし次の街が本当に安全だったら、ニーナはどうするの?」

 彼女があの屋敷を出てからずっと悩んでいたことをレイは問う。

 今まで常に命の危険がある環境でただ生き残ることだけを考えて全力で取り組んでいた彼女だったが、もしそんな必要がなくなってしまえばかつてのような生活は無くなる。彼女は新しい在り方を求められてしまうのだ。

「私はまずレイが安心して暮らせるかどうかだけを考えているよ、その後のことはその時に考えるさ。レイは街で何かしたいことはあるのか?」

「……わかりません」

「そうか……だがその時になればきっと何かしらやりたいこともできるさ、心配ない」

 最後の言葉は彼だけにではなく自分にも向けた言葉、ニーナにはその自覚があった。

 デリルが言っていた言葉「あなたは彼の為にはならない」それが頭から離れなかった、その上町では取り返しがつかないような傷をレイに負わせてしまい、益々その言葉が彼女に圧し掛かっているのだった。


 ――

 

 太陽が姿を見せて日差しが地表に降り注ぎ、ニーナとレイが眠る場所にも微かながら光が差し込む。太陽が昇ったことで荒れ果てた街を徘徊する感染者は近くの日陰や建物に隠れ、街は太陽の明るさと温かさとは対照的なまでに冷たく静かなものとなる。

 アスファルトの道路にはガラスや車のライトカバーの破片が散らばっており、太陽の光を受けて煌めく。感染者の夜が終わり、鳥や犬といった動物たちも姿を現す街と世界に僅かな生気が戻る。燃え枯れ、朽ち果てた樹の痩せ細った枝が地面にひびのような影を生み、朝の風が残された木々を揺らして葉を飛ばした。

 ニーナは目覚めると静かに荷物をまとめて周囲を確認する、ガソリンスタンド近くには感染者や動物の姿も気配も無い。彼女は窓の隙間から背後に目を向ける、寝袋に包まったレイが穏やかな寝息を立てていた。M4A1を掴み上げてピストルグリップを右手で握りながら彼の髪を左手で撫でる。もうずっと風呂に入れていないのも原因として考えられるが、間違いなくストレスが大きな要因で髪は乾き荒れ始めていた。

 頬に手を移すもかつてのような柔らかくマシュマロを彷彿とさせる感触が失われている、指紋に引っかかる程に角質が残り乾燥しつつある肌は色も黒ずんでいる。

 彼はやっと眠れているが出発しなければならないそう自分に言い聞かせた。彼を起こして朝食を食べさせてから鎮痛剤を飲ませ、右手の傷の様子を見る。幸い右手は有機保護シートからの出血も無く、順調に治癒が進んでいるようだった。

 サービスルームから出てキャノピーの下でニーナは紙パックから煙草を押し出し、それを咥えるとフリント・ホイールを何度か回して火を点けた。眩い朝日に目を細め、辺りを見回しながら紫煙をため息のように深く吐く。再び咥えて軽く吸う、煙草の先端からペーパーと葉がチリチリという音と共に燃えた。

 海岸沿いにひたすら続く道路は塩分の含まれた風が流れ、放置された車や大きく挙げられた看板を錆びさせる、そして車の傍や道路の真ん中に転がっていた死体をも素早く腐敗させていった。片車線を遮る横転して焼け焦げた黒い煤にまみれた大型バスの周りにも、這っている姿で倒れた焦げ跡の残る白骨死体がバスを中心に扇状に散らばっている。

 タイヤが黒ずんだ骨を踏み砕き、道路に花びらのような骨片が散乱する。

 果てしなく続くかに見える殺伐とした道が地平線に向かって伸び、二人を乗せたL-ATVは真っ直ぐに走り抜けていった。

 拍子抜けで何もない道をひたすらに走り続けるL-ATVだったが、やがて坂を上ってから下り始めたところで停車した。ニーナは何も言わずM4A1と双眼鏡だけを持って車から降りる。

 彼女は首からM4A1をスリングで提げながら双眼鏡で遠くを見つめる、レティクルの浮かぶレンズに映るのは防壁のカーテンに囲まれた小さな街だった。

 防壁はホープヴィレッジの粗雑なガラクタから作られたものではなく、ニーナの屋敷に使われていたもののさらに大型なモデル。高さは屋敷にあったものの1.5倍程で強化アルミ合金らしき表面には幾らか大きな傷や血の染みが見える、だが彼女が観察する限り機能に支障がでるような大きな損傷は見受けられない。上部には隙間なく有刺鉄線が張り巡らされ、防壁の内側には外を見渡せるような剥き出しの高台の通路が作られていた、その見張り台の上をライフルを持った数名が規則的に行ったり来たりしているのも見える。

 防壁近くや街周辺に目を向けても動く生き物や感染者は見つからない。

 街の中は葡萄園が広がっているのが一番に目に入る、さらに幾つかの大きな民家や倉庫らしき建物、そして尺度が狂ったかのようにただ一つ大きく建てられた工場があった。

 工場は葡萄園の緑や木から作られた建物が多いその街の外観を一切無視した黒く重々しい色合いの建物、そして武骨過ぎる程に黒々しい煙突が四本そびえ立っている。だが吐き出される煙は見えず、今は稼働していない様子だった。

 街の中には走る車や人間らしく感じられる動きで歩く人々が見える、葡萄園にも出入りする人間が多く見え、まだ栽培が続けられているようだった。

 ニーナがただ静かに双眼鏡で街の観察を続けていると、防壁から漏れる音に偶然引き寄せられた鹿と感染者が町の直ぐ傍に放置されていたボロボロの木製の小屋に飛び込んだ。防壁の内側で見張り台の上を歩いていた男がそれに気が付き、無線機でどこかに呼びかけた。すると数分後二台の自転車に乗った男達が姿を現した、二人とも背中に銃器を背負ってチェストリグを身にまとっている。彼らは見張り台に立つ男の目下で自転車を止め、降りながら銃器を構えると耳を抑えて無線を聞きつつ胸に差した無線機に口を寄せて交信する。

 交信を終えた二人は小屋に向かって行き慎重な動きで中に踏み込んでいった、しばらくして大きな銃声も無く中からは一人の感染者の死体と鹿の死体を引き摺る二人が出て来た。二人は草が無い砂利のみの場所にまで引っ張っていくと地面に重ねる様に転がした鹿と感染者の死体に小さなボトルで液体を振りかけ、火のついたマッチ棒を投げて死体を燃やした。

 彼らは燃え尽きるのを見守ることも無く手慣れた様子で一連の作業を終えると自転車で街に戻っていった。

 それからニーナも車に戻ると再び車を走らせて坂を下りていき、やがて道を逸れてアスファルトの道路から道ですらない荒野に入る。車は街の見張り台からは見えない植物が生い茂り適度な距離も取れている位置に停車してエンジンを切った。

 ニーナは一度大きく息を吐いてから辺りを見回し、それから上体を捻って後部座席に座るレイのほうへと向いた。

「今日はここに止めて車の中で夜を過ごす」

 道を外れて木々に囲まれた中車が止まり、窓の外を不思議そうに見つめていたレイがニーナの顔を見る。

「街をもう見つけたの?」

 普通の人間なら気が付けない程に微かな震えを含むレイの言葉、ニーナは目尻をやや下げて穏やかな面持ちで彼の頬を撫でて肌の温もりを感じ、逆に彼にも自分の感触を伝える。

「ああ、だから夜に少し様子を見てくる」

 自分の声には不安を滲ませないようにとハッキリとした声色で告げ、その意志を真っ直ぐ彼の目を見つめる自分の目と表情からも示す。

「……うん」

 レイは何かに耐えきれないと言いたげに彼女から顔を背け、俯く。ニーナは一瞬よりどころを無くし、ただ宙に浮いた手を引くと車から降りる、そして後部席に移った。

「夜まではずっと傍に居るから」

 そう言ってニーナはレイを抱きしめるが、彼の目は彼女を見ていなかった。傍から他人が見ればレイを彼女が抱擁によって慰めているようだったが、彼らの精神的な関係は異なった。

 力不足で彼を直視しているようで直視できず、不安定な精神が徐々に見え隠れしつつあるニーナ。そして想像を絶する恥辱と苦痛を身に受けてしまい、しかもそれを彼女に全てを見られてしまったことが深く消えない傷となったレイ。お互いがお互いを直視できていない状況、ズレた何かが始まりつつあった。

 後部席で頭を寄せ合うように抱擁し合う二人、夕暮れの光が細くなり始め夜が近づく空の下に止まった車。

 車の周囲には樹が生え、地面には土くれと石と雑草があり、その中に半分白骨化した感染者の死体もある、それは人も獣も見つけられず人間を越えた活動力を持っていても餓死した者。

 彼らとて自分たちだけで自分たちを維持できないでいた、激怒に染まった狂気を身にまとい、目につく全てを壊す破壊衝動の限界を失った苛烈な暴力をもってしても足りない。


 横になっていたレイは目から涙の雫を横へこめかみへと走らせ、その透明な雫はシートに落ちていく。ニーナは僅かに目を見開いて驚き、刹那に動くことを忘れてしまっていたが涙を眦から拭った。

「どうしてこんなに痛くて苦しいの?」

 レイの悲痛過ぎる程にか細い声。

「世界がこんなになってからずっと僕は怖い、苦しい、それに胸が引き裂かれたみたいにギシギシと痛むんだ」

「それは……」

 ニーナは声が出せない、それ以上の言葉を紡ぐ勇気が出ない。

 今の世界はひたすらに辛く苦しい。それに理由はなく、できることは何も無いと。

「そう、この世界は酷い苦しみばかり。でも私たちにとって大事なのは痛いこの世界より、私たち二人という世界の方。そうでしょ?」

「うぅ……」

 目をきつく閉じて涙を溢れさせるレイ、呼吸を荒くさせて嗚咽と歔欷が止まらない。

 ニーナは彼の体と頭を引き寄せて抱きしめ、その涙を自分の胸で受け止める。涙をぬぐうのではなく、流すことが今の彼には必要だった。

「あなたを守るのは私、私を守ってくれるのもあなた。私たちは私たちさえいれば安全」


 ――


 レイはひとしきり涙を流してから穏やかな眠りについた。

 それから何も言わず暫く彼の頭を撫でていたニーナだったが、ゆっくり体を動かして車を降りると身なりを整えた。外は既に闇夜に包まれて月だけが煌々と天上に浮かんでいた。

 ニーナはバックパックから取り外した鞘に収まったマチェットを腰に固定し、スリングでM4A1を背中に担いでからGEMTECH製 Lunar-45サプレッサーを取り付けたMEUピストルのスライドを引く。静かにドアを閉めて辺りの木をかき集めて車に覆いかぶせて目立たないようにした。そしてMEUピストルのトリチウムサイトと月明かりを反射する眼球を煌めかせながら夜の闇に溶け込んでいった。

 月と太陽が入れ替わって空が明るくなると見張り台で監視していた者が交代し始めた、疲れた顔であくびをかみ殺すライトを握った者たちの代わりに十分な睡眠と食事を摂った人間が見張り台に立つ。

 すると一人が防壁の外に伸びる雑草も草も殆ど生えていない自然に作られた道の中央に人が倒れているのを見つけた、双眼鏡を取り出してよく見ると身なりはボロボロで遠目にも顔や服が血で濡れているのがわかった。それは明らかに感染者の死体であったが、その場所に転がっているのは不自然であった。感染者の死体は死んでいてもウイルスが残っていて危険なので、見つけ次第一つ残らず死体は焼き払うのが規則となっていた。

 だが時々獣に殺されたり負傷によって道端で感染者が死んでいることもあり、見張りの男はさほど驚くこともなく無線で事情を本部に伝えた。

 暫くして防壁の外に自転車に乗った男二人が横たわる死体に近づいてきた、彼らは仰向けの死体を視認すると少しだけ距離を置いて自転車から降りる。そしてそれぞれが銃を構えて慎重に近づく、一人は死体に目と銃口を向けて進みつつもう一人は辺りを見回してカバーしていた。

 すぐ傍に寄るとその死体は本当に死んでいることがわかった。恐らくは五十台の男性らしき感染者はチェックのボロボロになったシャツを着て、血で汚れて擦り切れたベージュのズボンを履き、額には窪んだ弾痕が穿たれて後頭部が大きく破裂していた。

 目と鼻と口、さらに耳からも血を流してその痕が顔に残った感染者の死体、一人はしゃがみ込んで的確に撃ち抜かれた頭部を凝視していたが、その死体から腐臭とは違う妙な匂いがすることに気が付いた。そしてもう一人は立って辺りを警戒しながら時折その死体に目を向けていたが、突然背中に衝撃が走って前に吹き飛ばされて顔から地面に倒れ込んだ。一人が倒れると同時に響く圧縮された空気が放出される音、そして弾丸がチェストリグの上から肩甲骨を守る防弾プレートに衝突する音。その衝撃が肺にまで届いて酸素が押し出されると声を出すどころか呼吸すら瞬間的に難しくなる。

 しゃがんでいた男が慌てて立ち上がり持っていたAK103のバットパッドを肩に押し当て振り返った、だが背後から音も無く近づいていたニーナの姿を見ることができないまま胸を撃たれて背中から倒れ込む。二人目も同じように胸を撃たれたことによる着弾の衝撃が肺を襲った。

 ニーナは倒れ込んだ二人に歩み寄ってまずライフルを蹴り飛ばし、背中から倒れ込んだ男の眉間を殴り付けて気絶させて、もう一人を後ろからアームロックで首を締めあげ、前腕と上腕で頸動脈を抑え込んで意識を奪った。

 二人のチェストリグを襟首当たりで掴み、林の中に引き摺り込むと火の点いたライターをあらかじめガソリンを掛けておいた感染者の死体に放り投げて燃やした。

 素早く二人の持ち物を調べる、ポケットの中を漁りチェストリグに取り付けられたポーチも全て開けた。だが出て来たのは煙草やライターにゴミとマガジン、そして無線機のみ。

 ポーチから無線機を引き抜いてインカムも抜き取って自分の耳に押し込んだ、その時突然ノイズが走って声が流れ出した。

「……った今……感染……報……」

 音が切れてよく聞こえず急いで手元の無線機を操作する、街からはそう遠くなく電波を遮るものも無いので通信自体は届いている筈だった。ニーナはキーを打っていきノイズを軽減させる機能のスケルチレベルを下げていく、そしてノイズが入らず声だけが鮮明に聞こえるレベルに調整した。

「繰り返す、こちら本部のベクター・ライオネル。南の方向から接近している感染者三体を発見したという報告を受けた。他の場所からも近づいてきているかもしれない、現在監視任務に就いている者、そして調査の為外に出ている者も十分に警戒してくれ。以上」

 流れてきたのはハッキリとした自信と責任感を持った男の声、歳は恐らく三十台で声からもまだ若さを失っていないように感じられる。そしてニーナにはその声に聞き覚えがあった、過去同じようにこの無線機AN/PRC-152越しに彼の声を聴き彼女もまた応答したのだ。

 一瞬迷いながら目を泳がせていたニーナだったが、すぐに覚悟を決めると無線機を操作して送信のボタンを押した。

「こちらニーナ・ハーロウ大尉。ベクター・ライオネル中尉、応答願います」

 暫く空音が続き聞こえていないのか、それとも警戒されているのかと彼女が考え始めた頃インカムから声が流れ出した。

「こちらベクター・ライオネル。現在は少佐だ、間違えないでくれよ大尉殿?」

 応答を聞いてニーナはクスリと笑う、同じタイミングでインカムからも笑う声が聞こえた。

「久しぶりだなニーナ、もしかして近くに来ているのか?」

「そう、北の方向からそっちに向かってる。ゲートが見えるからそこに行く」

「わかった、俺が迎えに行こう」

「ありがとう。それと悪いんだが、二人分の担架を用意してきてほしいんだ」

「わかったよ、南の方に異常があったから二名調査に向かっているという報告は俺も聞いている。君のことだったとはね、大丈夫用意する」

「本当にありがとう、通信終わり」

 安心したニーナは大きく息を吐いてから移動の準備を始めた。

 エル・ヴァイオレッタの安全圏と呼ばれる街の南には鋼鉄製の両開きゲートが守る入り口があった。二メートル以上の高さで五十口径をも防ぐ分厚さで侵入者を阻むゲート、その一部がスライドして内側から両目が覗いた、その眼球は一瞬当たりを見回してから目の前を凝視して閉じた。

 重々しいロックが何重にも解除されていく音が門から響き、甲高い鉄の擦れる音と共にゲートが内側に引かれて開いていく。

 外に見えてくるのはL-ATVとその傍でM4A1を携えて立つニーナ、彼女は得意げな笑みを浮かべてゲートが開くのを見つめていたが、やがて彼女は視線の先に見えたものに気が付き表情を曇らせた。

 ゲートの内側で彼女を待ち構えていたのは歯を見せ、派手な笑みを浮かべるラテン系の浅黒い肌をした男。男は短く切り詰めた黒髪で車椅子に座り、その両脚は膝から先が失われていた。

 男の傍には茶髪の姿勢正しく立つ彼と同じ程度の歳であろう女性、男とは対照的に冷たく感情を抑え込んだ目をニーナに向けていた。

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