第7話
「ニーナさん落ち着いて!」
レイが必死にニーナの腰にしがみついて懇願する一方、彼女は握っているSIGP220の銃口にあるネジ山にサプレッサーを、手術前の医師の如く手慣れた動作で取り付けていく。その表情もまた冷静過ぎる程で感情が消え去っている。
そして彼女の目の前には木製の椅子に座らされて両脚、両腕を手錠で拘束された女性がいた。
勢いよく拳銃のスライドを引く音が響き渡る、それは裁断機のような鋭い金属が擦れる音。その音に体を震わせた女性は懇願する。
「お願いします、撃たないでください!」
「お前は一体何者だ、何処から何しに来た」
レイが震え上がる程平坦な低い声で質問を投げかけるニーナ、サプレッサーが取り付けられたSIGP220の銃口は女性のこめかみに突きつけられていた。女性は押し込まれる銃口で頭を傾けている。
ニーナは銃口を押し付けながら、鼻先が触れ合いそうな程に距離を詰めて女性と向き合う。
「名前はデリル・クラーク! エル・ヴァイオレッタの安全圏から来た医者です! 」
デリルは叫ぶように答える、見開かれた目は乾燥して涙を滲ませ始めていた。
「医者がなんの用だ、こんな誰も居ない閉鎖された街に」
名前を答えたところでニーナがデリルの頭部に銃口を押し付ける力は一切緩まない。
「救難信号の調査です!」
「何?」
救難信号という予想していなかった言葉に戸惑うニーナだったが、ふとベルトを強く引き続けていたレイに視線を降ろした。
「この人は危なくないと思う……手錠なんて外して普通に話そう? ね?」
暫くの間ニーナは真っ直ぐと彼の目を見つめていたが、やがてゆっくりと銃を降ろす。そしてもう一度、今度はデリルの眉間に銃口を押し付けた。
眉間に冷たい銃口を押し付けられて硬直し、デリルはただ目を見開いてニーナの冷め切った殺意の溢れる目を見返すことしかできなかった。
「余計な素振りを少しでも見せたら殺す」
殺気を隠そうともしないニーナはそう言うと今度こそ銃口を降ろしてデリルに背を向け、同時にレイはリビングのテーブルに置かれていた鍵を持ってきて手錠を外し始めた。
「大丈夫ですか?」
デリルはきつく締められて痕が残った手首をさすりながら答える。
「ええ、どうもありがとう。あなたは?」
「レイ、レイモンド・ハーズビルムです。あの人はニーナ・ハーロウ」
「さっさと話を続けろ。それとレイは離れるんだ」
ニーナは流し目でデリルを睨めつけつつP220をテーブルに置くが、右手は腰に収められたMEUピストルのグリップに乗せられている。
「私たちはサンフランシスコの北、沿岸部から救難信号が発信されているのを探知したので、調査と救助をするために来ました。でも沿岸部に向かうと残っていた船は三隻で、一隻は空。別の一隻からは救援信号を発信した人たちの死体、そして最後の一番大きな船には武装した者たちが乗っていたのです」
「それで襲われたと」
「はい。仲間の二人はその場で殺されて、私だけはなんとか街の中まで逃げ込めたんですが……」
「この辺りは誰も居ない、それは私が確認していたんだが。海を渡って上陸してくる連中が増えてきたようだな」
ニーナは意図的にレイに視線を向けないようにする、彼もまた微かに俯き顔を逸らしている。
「恐らくは私たちの街を目指しているんだと思います……」
「だろうな。だがまさか外の連中を助けようとするほど、お前らの街に余裕があるとは」
「いえ現状では物資も十分とは言えず、何より人が足りていないのです。人手が無ければ街の維持も難しいです。でも葡萄園が多かった私たちの街は元々人が少なく、また略奪も多くなかったから今でも利用できています。それにこうなる前までは州境やメキシコ国境に建てられる壁の製造工場もあったので、それを使って街を囲っています。だから今は街で感染者に襲われる危険性はありません」
「ともかく助けを求めていた連中はとっくに死んでいた、お前たちは無駄足だったわけなんだからさっさと街に帰れ」
ニーナは吐き捨てるようにそう言い放つ、だがその時外を眺めていたレイが振り返って彼女に声を掛けた。
「ニーナさん、外が――」
防壁の開かれた窓、その薄汚れて透明度が下がっているガラスに水滴がポツポツと叩きつけられている。朝から暗い雲が多かった空は、今ではどんよりと濃い煙のような雲で覆われ、日差しは殆ど地上に届いていない。雨がガラスを叩く音はますます耳障りに増えていき、ぶつかる雨粒も大きくなっているようだった。
「雨か」
雨音にかき消されそうな程小さな声で呟き、レイの目を見つめ返すとニーナは彼の言いたいことを暗に察した。
「流石に私も雨の中出ていけとは言わない、だがいつでも出られるように準備はしておけ」
雨は人間の動きから出る音を雨音で誤魔化してくれるが、その音自体が感染者を刺激する。しかも空がどんよりと曇っていれば日差しも無いので、彼らは屋外で積極的に動き回ることが多くなる。
二人のアイコンタクトを横から見ていたデリルは、喜びの表情を隠せていないレイに微笑みかけ、声を出さぬまま唇の動きで「ありがとう」と伝えた。
「レイ、そういえば昼食の準備をしている途中じゃなかったか」
「あっ――! ごめんすぐ用意するね!」
「いや、別に急かしたわけじゃないぞ」
焦って訂正しようとするニーナだったが、レイはその言葉を聞くことも無くキッチンに走って行ってしまった。
「仲が良いんですね。兄弟ですか? それとも親戚?」
「どっちでもない、あんたらの街に向かおうとしていた一団の生き残りだ。感染者に囲まれて隠れていたところを私が助けた、それで今も一緒に暮らしているだけだ」
「そうだったんですか……でも彼は元気そうで良かったです。こんな世界じゃ子供は恐ろしい程簡単に死んでしまうことが多いですから」
過去の記憶を眺める寂しげな目をしたデリルだったが、彼女は視線を感じて顔を上げると、恐ろしい剣幕で睨め付けてくるニーナに驚き硬直した。
「あいつの見てくれは元気かもしれない、だが内面は粉々になる一歩手前なくらいにボロボロだ。まずこんな状況でああも元気であること自体がおかしいんだ」
「それは一体どういう意味ですか」
「出会ってすぐの頃は心が壊れる寸前だったんだよ。それが今じゃあんな風に振舞っているのは酷い無茶みたいなものだ。反動と言っていい」
「そんな……」
「あんた医者だろ、そんな能天気でいいのか」
「……」
「私は医者であっても外科医だ。精神科医じゃない」とは言えなかったデリルは小さく俯き視線を降ろした。
「なら彼も街に行くべきです、街は安全ですし同い年ぐらいの子供もいます。彼の精神的療養も可能です」
「いやダメだ、あんたらの場所が安全だと信用できない。治療ができるとも、ここから出るリスクに見合うとも思えない」
「でもここに引き籠っているのは彼にとっても良いとは言い難いはずです、それはあなたも当然わかっているでしょう?」
「いいやお前はわかってない、レイに必要なのは確実な安全と安心だ。あいつの心はもうこれ以上命の危険に耐えられないだろう、その傷が完全に治るまでは私が守り抜く」
――
雨が激しく窓を叩く音で騒がしい中、三人は一つのテーブルを囲んでいた。テーブルに並べられた真っ白い皿の上には缶詰の料理、ソースが掛けられた薄切りのスパムに卵の粉末、そしてコーンが盛り付けられている。
「何かおいしいものを作ろうかなって思ったんだけど、どうしても上手くいかなくて……」
レイの前に並ぶ料理は二人より明らかに少ない、元々小食な彼は失敗した料理を食べていたので既にある程度腹は満たされていた。
「いや十分だろう。私は皿自体、使おうだなんて考えもしなかったからな」
顔を伏せて上目遣いに二人の様子をうかがうレイと彼の頭を撫でて褒めるニーナ、それらはデリルの目にとても仲の良い兄妹や血縁関係のある親しい二人のように映ったが、言葉にできない曖昧でぼんやりとした違和感を彼女は胸に抱いていた。
「安全圏ってどんなところなんですか? 僕も行こうとしてはいたんですけれど、よく知らないんです」
「ええっと、そうね。元々はエル・ヴァイオレッタっていう名前の小さな町。葡萄園とその持ち主の家が多くて、一応葡萄とかワイン目当ての観光客を相手にする観光施設もある場所よ。今では葡萄園以外にも畑を広げて食料を作ってる。実際は街と言うより村にも見えなくもないさっぱりした場所」
「どれぐらいの人が居るの? 沢山?」
「そうね……五、六百人ってところかしら。私みたいなのが外へ出て生存者を探しているからどんどん増えているの、最初は数十人だった私たちがあの街を立て直してなんとかここまでにしたという自負があるわ」
「お前みたいに外へ行ってよく生きてるな、他の連中も含めて」
「言っておくけれどこんな事態は今までになかった、あの連中はそんじょそこらの武装したサルベージャーとは違う。そんな連中だったら今まで何度も見てきたし、私たちヴィジランテが迎え撃ってきた。だけどあの連中は高度に組織化され、街から街へと感染者を殺しやり過ごし、生存者が持つ物資の略奪を繰り返してきたに違いないわ。相当な手練れ、尋常じゃない戦闘力を全員が持ってるはずよ」
「そうかね」
あからさまな冷笑を滲ませてニーナは立ち上がり、食事を終えた皿を持ってキッチンに向かう。
「世界は益々危険になっている、それも我々が想像もできない程に。だからこそあなたたちも安全圏に来るべきだと思います」
「……レイ、私はちょっと外で煙草を吸ってくる」
外の空気が吸いたかったニーナは、いつも室内でも構わず吸う煙草を口実に外へ出た。
彼女の背中を見送ったデリルはレイに向き直る。
「あなたは安全圏に行きたい?」
「行ってみたいです。でも行かないと思います」
「そう、ここの生活は大丈夫なの?」
「……? 安全で食べ物もあって、それにニーナさんもいる。僕はとても幸せです」
「あなたが本当に彼女を慕っているのはわかったわ」
「あんなことになってしまったけれど、ニーナさんはただ少し不器用で。初めてあった人にはそう見えないかもしれないけど、すごく優しいんです。クラークさんも助けてくれましたし」
「そうね。でも、たぶんそれはあなたが居たから、あなたのおかげとも言えるかもしれないと私は思うわ」
「え? そんなことはないと思いますけど……」
一瞬の沈黙で満ちる、デリルは首を傾げるレイの顔をじっと穏やかな表情で見つめ、考えていた。私は一体彼のためにどうするべきなのかと。
「きっと神様のおかげだわ。私とあなた、そして彼女を引き合わせてくれた。そういえばレイは神様に祈ったりはする?」
「僕は――」
「神は不在だよ。祈るまでもない、祈った結果も祈らなかった結果も目の前にある」
いつの間にかに戻ってきていたニーナは、短くなった煙草を吸いながらリビングの入り口の壁に寄り掛かっていた。
「あなたは無神論者だと?」
「さあな、だが今じゃ祈るより寝るほうが建設的だと感じてるだけだ」
忌々しいといった表情で眉間に皺を寄せ、腕を組みながら紫煙を吐くニーナ。
「レイ、私は見回りと銃の手入れをする。片付けを頼む」
「はい! もちろんです!」
じっとりと重い空気を無視するようなレイの明るい声がリビングに響く、ニーナは彼の様子を見て微かに満足げな笑みを浮かべて玄関に向かって行った。そしてドアが開かれて閉まる音が聞こえてからデリルは再び話し始めた。
「あなたはこの街を出るべきよ、それで一緒に私たちの街に行くの」
「でも……」
「いい? 私たちがたった三人でこの街に入ってきたのは理由があるの」
「この街は生存者たちからは危険な街だと言われていた。それは如何なる人間だろうと入ったら一切出てこなかったから、例えそれが重武装で身を固めた感染者退治のエキスパートであろうと。だから救援信号をキャッチしたと、偶然この街の近くに居た私たちが街から伝えられた時、急いで助けに向かった」
デリルはしゃがみ込んでレイと目の高さを合わせ、両の二の腕を掴んで真剣な表情で言った。
「わかるでしょ? 彼女が街に入ってきた者を殺し続けていたのよ。感染していないのに射殺された死体が発見されたとも聞いたわ」
彼女はさらに顔を寄せ、鬼気迫る声で続ける。レイは見開いて怯えた目を向ける。
「彼女は心が病んでる。でもあなたが彼女を大切にしているのもわかる、だからこそ一旦距離を置いてみるべきだと思うの」
「彼女が傷ついている、そんなことは僕にだってわかります。それにこんな世界で心に傷を負っていない人間なんてきっと居ません」
「そうね、確かにそう。ただ彼女は自分を制御していられるかわからない。どうしてあなたを助けたのか、彼女の考えはわからない。でもきっと大切な理由がある、だからこそもしあなたに危害を加えてしまったら自分を許せない、酷く罰するでしょう。恐らく自分の身を危険に晒す程に。少しの間だけでも離れて過ごすべきよ、きっとそうすればわかる」
「僕はニーナさんから逃げたりなんてしません」
表情を曇らせて悩みながら話を聞いていた彼だったが、最後にそう言って苛立ちを隠せないといった態度で立ち上がり、テーブルの上の食器を片付け始めた。
デリルは大きくため息をつき、天井を仰ぎ見る。
その夜、夕食を終えた後にシャワーを浴び終えたレイはタオルで髪を拭いながら寝室に入っていった。
ベッド端にはぼんやりとした表情のニーナが静かに座っていた、彼女の正面にある作業台には手入れが終わっていないライフルが分解されたままになっている。レイは少し不思議に思いながら首を傾げる。彼女は昼食を終えた後に見回りをして、その後に銃の手入れを始めた筈、いつもならとっくに終わっている。日常生活の中でとてもずぼらでだらしないニーナだったが、銃の整備や設備の管理に関しては一切隙も妥協も、油断も皆無だった。
「ニーナさんどうしたの?」
その言葉を聞いて彼女はレイの方向を見た、彼の言葉を聞くまで部屋に入ってきたことにすら気が付いていなかった様子。
だがレイは声を掛けるまで彼女の手が腰の拳銃を撫で、声を掛けられた直後はグリップを握っていたことを見逃さなかった、そしてレイの姿に気が付くと銃から手が離れたことも。
「何か不安なこと?」
「いや……」
歯切れの悪いニーナの返答、何か別のことに思考が支配されているのか、それともハッキリ返答しかねているのかレイにはわからない。
「レイは、南の街に行きたいか?」
「街にですか? そうですね、どんなところでどんな人が居るのかとても気になります。安全な人の沢山居る街なんて見たこともないですから」
「そうか……」
「でも行くべきじゃないんでしょ?」
「……お前は大丈夫なのか? ここから出るのは」
「わかりません、でもきっとニーナさんとなら……」
そう言ってレイは彼女の顔を見て、真っ直ぐと視線を重ねるが、その表情はとても悲しげだった。彼が今までに見たことが無いほどに。
「僕もニーナさんに聞きたいことがあります」
「なんだ」
「何故僕を助けたんですか」
ニーナがハッとした表情でレイを見る、だが彼の表情は凛々しくハッキリ見開かれて彼女の目の奥を射抜く。
「そ、それは」
「それにもう一つ、ニーナさんは一体何に怯えているのですか。強くて勇ましい、恐れるものなんてなさそうなあなたが怖がるものってなんですか? 僕に教えて貰えませんか、ニーナさん助けになりたいんです」
「急になんだレイ、あの女に何か言われたのか?」
上ずった声で焦りを隠せない様子のニーナ。レイはその姿をじっと見る。
「そうです、デリルさんと話しました。でもこの疑問は僕自身の中で湧き上がってきたものです」
「レイ、私は大丈夫だ。何も心配することは――」
「質問には答えてくれないんですか?」
「あ、え……」
か細い声がニーナの口から漏れる、デリルを前にしたニーナ、感染者を殺すニーナ――今まで見てきた彼女からは想像もできない、弱弱しい声と、その眉を下げた怯える表情。
「僕が恐れるものをニーナさんは知っている、その上で僕と暮らして、守ってくれている。僕は一方的に、ただ優しくされる部分だけを見ているのはどうかと思うんです」
「レイ違う、そうじゃなくて――」
「少し、少しだけ離れて過ごしましょう。僕は別の部屋で寝ますから」
「レイ!」
ニーナの目に映ったのは彼の後ろ姿がドアによって見えなくなる光景、そして静かで空っぽな彼女だけがいる部屋。
寝室を出たレイはあてもなくただぼんやりと、ゆっくりとした足取りで廊下を進む。
彼女の下を離れても前のような発作はもうない、だが彼女と離れている時間が一秒進むごとに、砂時計の如く心の鎧か何かが零れ落ちていくような感覚があった。
自分でも信じられない、大胆なことをしたなと不自然に冷静な頭で思い返す。
ニーナの庇護があってやっと生きていられるような自分がするには些か勝手すぎるのではないかと考える。でも自分の身を案じる、自分の安全に怯える、そんな時期はとうに過ぎた。レイは純粋にニーナの心を心配していた。
自分はニーナの触れる感触、優しさの温もり、そればかりを享受しながら彼女と真剣に向き合うことをしなかった。
彼女がレイを救おうと闇に飛び込んで戦い、それから連れ帰って癒し慰めた。
全く同じようなことができるとは到底思わない、だが努力をするべきだと悟った末の行動。
ただ進む先の廊下を見つめていたレイだったが、やがて端に辿り着き、ふと横に目をやるとこれまで一度しか開いたことが無い部屋のドアがある。
そこは初めて屋敷に来たばかりの頃に覗き見て、入るべきではないと直感で感じ取って去った子供部屋。
今ではもうそんなことを感じられないほどに虚ろな、揺蕩う心を抱えたレイはドアを押し開いた。
部屋の中はあの時と全く変わらない、使用感も全くなく埃が積もっている。
ゆっくりと閉まっていくドアに背を向けたレイはもういっそここを少し掃除し、しばらく寝るのに使わせてもらおうかと考え始める。
指でなぞると痕が残る白い膜のような埃で覆われたタンス、その上に恐らくは昔のキャラクターらしき人形が置かれている、十歳にも満たない程度の子供が好みそうな玩具が部屋にはあった。だがそのどれもが子供らしくない整然さで並んでいる。
するとその時背後のドアが開かれる、そこに立つのは片腕を抑えた俯くニーナ。レイにはそんな彼女がとても小さく、少女のような印象を与えることに些かの驚きを感じていた。
部屋に踏み込んでいく彼女だったが、その足取りは重く、レイに近づくごとに歩幅は小さくなっていく。
やがてぽっかりと人間一人分の空間を挟んで対峙する。レイが静かに見上げ、ニーナは黙って目を背けている。
「ここはある子供の部屋でな、でもその子供はとっくの昔、世界がこうなるより少し前に死んでいる。だがこの屋敷の持ち主である父親は、子供の存在と過去を忘れ去ることができず、部屋を整理するだけで片付けることはできなかったそうだ」
「屋敷は元々ここまで広くなかった、建築当時は地下も一部屋だけ。今みたいな極端に広い庭も別荘も無かった。だが子供を失った父親はその時から屋敷の過剰な増築を繰り返した。私はその話を偶然聞いたことがあるだけでどうしてそんなことをしたのか実際の理由はわからない」
「ただその父親は子供を失ったとき、自分の人生のレールを破壊されたような気持になったのかなと思う。未来への道行きを失ったことを埋める、紛らわすために屋敷の増築や散財を繰り返した気がするんだ」
「子供っていうのは親にとって、自分の寿命を越えて死んだ後にも残る。俗な言い方をすればある種の未来への希望な気がするんだ。でも子供にそんな役割を背負わせるなって言われるかもしれない、だが自分の遺伝子と教育という程でもなく一緒に生活することで伝播するある種のミーム、それらが後にも残り、これからも続くと思えば凄いし純粋にただ嬉しいだろう。もちろんそれに加えて親は子供の幸せを願うだろうが、そんな希望が親の幸せにも繋がる」
「……」
「私は子供を産めない、戦場で負った傷でな。だから未来が無いに等しい、そう私は考えている」
「そんなこと――」
「――ない。他に幾らでも未来に繋がるものはあるだろう、かつて私の一番傍にいた男もそう言ってくれていたよ」
ニーナはそう言うと腰のホルスターに刺さったMEUピストルに視線を降ろし、いつもの警戒感を滲ませる慎重な手つきではなく、眠る赤子や子犬を撫でるような穏やかな手つきでグリップに触れる。
男はかつてアメリカ海兵遠征部隊(MEU)に所属していた。彼の家は軍人の家系であり、祖父からは既に正式採用の座から降りていたこの四十五口径MEUピストルを受け継いでいた。
そして未来を一度誓い合っていた男はニーナにこの数代に渡る、血と汗と国への忠誠心を染み込ませながら敵を撃ち殺してきた銃を、ある種の確固たる意志の表明として譲ったのだ。
「あの男は勇敢で、陽気だったよ。どんな状況でも前向きで、希望をその手から逃がさないタイプだった。過去を見つめて未来に絶望する私とは正反対、だから彼も遂には私から離れることを求めてきたよ、流石に限界だってね」
「私が恐れているものはねレイ、未来それ自体だよ。目を瞑ればこれからの計画が、予想が頭に浮かぶ、そしてもっと先も。それが辛い。でも私にはどんな過酷な状況でも生き残る力があった、それはひたすらに未来に怯える現状を続けるだけの行為に他ならない。しかも私は必要とあれば手段を選ばない、選ぶことも躊躇することも無かった」
「そんな私に一体どんな未来がある? こんな私の過去がただ過ぎ去って思い出と呼べるものになってくれると? そんな訳がない、犠牲を顧みないで自分のためにあらゆることに手を染めてきたんだから」
嗚咽と主にニーナの口腔から吐露される言葉には重く絡みつく痛みがあった、それは有刺鉄線の如く彼女の心に絡みつく過去が刻んだ傷から溢れるもの。
「彼らは今もそこにいる、私の姿を見て笑みを浮かべながら絶望のまま死ぬのを待っている」
ニーナは顔を上げられない、何故なら彼女の周りに何十人もの死に果てた者たちが血と臓腑、脳みそをこぼしながら見下ろしているのを肌で、恐怖に震えてこわばる心が感じていたから。
彼女はもはやレイを見てはおらず、今まで心の中で反響の如く繰り返されていた己に向けた言葉が口から溢れ出すがままだった。
「でも、でもね。私はそれでも、誰かと一緒に、誰かが傍に、寄り添ってくれることを諦め切れなかった……。こんな未来を失い、未来と過去を汚す私と」
ニーナはレイの目の前で跪くと彼の腰に腕を回し、その腹に顔を埋めるように頬を擦り合わせた。ひっそりと目元から線を引くニーナの涙が、頬を伝い彼の服に染み込む。
「お願い……私を一人にしないで……」
レイの手がニーナの金髪を撫でる、風に揺られるカーテン如く彼が触れた髪がさらさらと動いた。ニーナは怯え果てた子犬のようにすがり続けていたが、彼の手が止まるとおどおどとした表情で見上げた。
そこには許しと受容を体現し、慈愛の母を思わせる優し気なレイの顔。彼は片目から一本の涙の線を引きながら、目の前のニーナの涙を指でゆっくりと拭った。
ニーナはその刹那、自分の中のありとあらゆるものが変わり、蠢き、視界に入って思考を占める全てが色鮮やかになるのを感じた。告白と許し、その全てがニーナに降り注ぐ。
そして彼女の背後で微かに開かれたドアの隙間、その奥には微かに光りを受けて不気味に光る眼球が、眼孔に収まりながら真っ直ぐと部屋の中に視線を向けていた。
――
目の前におぞましい光景さがあった、己の認識と常識を超えた不純と汚れの具現化じみた光景、庇護する者が庇護される者の肉を貪りその体液を啜る耐えがたき惨状。
デリルはそこで目を背ける。だが鼓膜にはまだ肉がぶつかり、体液の弾ける音が残り、未だにドアの向こうからは未だその音が漏れていた。
ゆっくりと足を動かして音をたてないように自分の部屋に向かう。
デリルはドアが開かれて人が廊下を歩く気配と物音で目を覚まし、その様子を見ようとしたところ信じられない物を目にすることになってしまった。
ニーナ・ハーロウとレイモンド・ハーズビルムの関係は不可思議かつ奇妙な感覚があったが、まさかここまで歪み果てたおぞましいものだとは思わなかった。
あれほど彼の身を案じ、彼を守らんとしてたニーナが情けなく、倫理観も道徳観も何もかもを投げ捨て、喜びに身をよじらせて堕落した快感に嬌声を漏らしていたとは。
そこでデリルは確信した、この屋敷でレイが生活することは精神と心を汚染し、破壊に導いてしまうことを。一刻も早くここから連れ出して、肉と堕落の穴から救い出さなくては。
デリルは固い決意を胸に秘め、寝室のドアを静かに閉めた。
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