【落語台本】八百八洲(はっぴゃくやしゅう)
紀瀬川 沙
第1話
▼瑞鹿山円覚寺 庫裏 早朝
【ここは鎌倉、瑞鹿山円覚寺の境内。季節は秋が終わり冬が始まる頃、朝の寒さが冴えわたっております。境内に点在するモミジが所々で侘びしくも深く濃い紅色を描いているのが何とも綺麗な風情であります。そこへ、この禅寺で修行に努める二人のお坊さんがやって参ります。朝課を終えて、座禅・公案も一足先に切り上げた様子。なぜかと申しますと、この二人、今日は他のお坊さんたちの粥座・斎座、つまりは朝食と昼食ですな、その準備の番でございました。行住坐臥すべて修行の禅寺で、ここだけは老師さんの目も届かず、二人はぺちゃくちゃしゃべっております。その中身は】
雲八 <あ~、寒いし眠い。ねえ、熊さん>
水熊 <あ~、本当に。さっきは我慢してたが、あくびが。いや、もう冬ですねえ。こんな寒い朝は、いくら寝ても寝たりない>
雲八 <座禅で警策を頂戴しても、全然目が覚めないね>
水熊 <それは言っちゃいけないよ。今日は私たちが番だから先に来たものの、まだまだみんなは頑張ってるんですし>
雲八 <そですな。さてと、方丈でお経が読み終わる前に、せめて粥の支度は終わらせましょう>
水熊 <承知。薪は昨日のがまだありました。とりあえず、火と水か>
雲八 <どっちがどうしますか?>
水熊 <どっちでもいいですよ>
雲八 <じゃあ、こんな寒いなか悪いですが、熊さん、井戸の水をお願いできるかい?>
水熊 <はいはい。では、火おこしと、庫裏の釜やら何やらのご準備をよろしく>
雲八 <はい。時間もあるから、昼の味噌汁、野菜もできるとこまで>
水熊 <さすが、食の修行者、八さん>
雲八 <ほめても何も出ないですよ。身・息・心を支える調食といったところです>
水熊 <はは、うまいうまい。水入れるのに、どの桶を使っていいのでしたっけ?>
雲八 <あれ、どれでしたか?右のは黒ずんでいるから、左っかわの檜のでいいでしょう>
水熊 <じゃ、行ってきます>
【老師さんの前では絶対にできない無駄口をたたきながらも、二人は慣れた手つきで支度に取り掛かります。冬の朝の風がモミジをそよがせる音と、坊さんより遅起きのカラス・ハトの鳴き声とが鎌倉の山に響いています。それに加えて、今の時間、向こうの方丈からかすかに聞こえる読経の声。抜け駆けした二人の作る粥を待ち遠しいのかもしれません。しばらくして】
水熊 <はぁ、重かった。ふう、一苦労、一苦労>
雲八 <おかえり。ま、清冽そうな水だ。さぞ冷たかろう>
水熊 <歩いてると時々引っかかって、身震いなんてもんじゃない。ここは火もついていて、暖かくて生き返った>
雲八 <お疲れさま。少し暖まっていてください>
水熊 <お、小松菜ももう切ってあって。漬けても浸しても、何だっておいしそうですな。そして粥は?>
雲八 <粥ならもうすぐに入り用だから。もうできてます>
水熊 <いいね。ありがとう。私も何かしないといけませんね>
雲八 <じゃあ、焼き塩を。それが終わったら、お椀やら器やら並べるのを>
水熊 <はいはい>
雲八 <それにしても、熊さん、あ、いやいや、そのまま、作務のままお聞きください。熊さんはどこの生まれでしたかな?>
水熊 <ん、武蔵の国は秩父ですよ。山奥だけど大きな社がある土地です>
雲八 <そうか、そうか。そういえば、前にご実家は社の神職とかおっしゃってた>
水熊 <そうそう。神官のせがれが回りまわって沙弥に。家は、秩父神社、三峰神社、とまで大きな社じゃないけれど。その分派の、田舎の村社ってところ>
雲八 <そうですか。武州秩父、いいところですな>
水熊 <そういう八さんは?>
雲八 <私はここ相州小田原です>
水熊 <いやいや、ここは鎌倉さ>
雲八 <・・・ああ、そういうことですか、ここは相州鎌倉。同じ相州小田原と>
水熊 <相州鎌倉?鎌倉ね>
雲八 <・・・相模の国は相州。武蔵の国は武州でしょう?>
水熊 <あ、ああ、はいはい。そうですね。今ちょっと聞こえなかったから>
【熊さんはごまかしますが、八さんからすれば今の掛け合いの少しの気持ち悪さ。ちょっと試してやろうという意地悪心が出てきまして】
雲八 <甲斐の国は甲州、ですな。では伊豆の国は?>
水熊 <決まってます、伊州。願成就院に何度足を運んだことか>
【八さん、伊豆は豆州と指摘しようとしたところで】
水熊 <それより、八さん、大丈夫ですか?かまどの火がぼうぼう、煙がもくもく>
雲八 <わっ、いけない、いけない。早く言ってくださいな>
【さて、こんな二人の一日がどう過ぎてゆきましょうか。先に申しました通り、禅の教えにおいては行住坐臥すべて修行。こんな二人の掛け合いも修行としてお釈迦様には届くでしょうか。それよりもまず、老師さんから怒られなければよいのですが。どうなることか、次回のお話にて】
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