はじめてのスワップでドゥワップ

ブリモヤシ

第1話 物理的な前戯

 新鮮な魚介のお造り、揚げたての海老天、鯛の香草焼き……座卓に所狭しと並べられた料理は、さっきから少しも減っていない。

 私と妻の由実は並んで座り、ビールばかり何杯も飲んでいた。

 向いには、私たちと仲のいい早峰夫妻が座っている。彼らは体をわずかに捻り、私たちと視線が合わないようにしていた。

「今日は早く着いてよかったね。道も空いていたし」

 私はグラスをコンと置き、それをきっかけにして言った。三浦半島の突端にあるこの温泉旅館には、四人で何度も遊びに来ている。いつもは渋滞に引っかかるのだが、今日は珍しく早く着いた。

 妻の由美と、早峰の奥さんは、同時に「あ、そうよね」と大声を出した。

「このあいだの渋滞は、ひどかったよな。あれ、マリンパーク行ったときだっけ?」私は妻の由美に言った。

「ビールもう一本開ける?」と由美。

「マリンパーク、そういえば由実たち、行ってきたのよね」早峰サキが、まるで初めて聞いたかのように言う。

 私は料理をつつくふりをしながら、彼女の表情をうかがった。

 サキは白い喉をのけ反らせてビールを飲み干す。酒に弱く、いつもほとんど飲まないのだが、今日は違っている。

 サキの隣では、旦那の早峰ケンが、不機嫌な顔で鍋の下の炎に見入っていた。浅黒く骨張った顔をしている彼は、根は温厚だが、今のように黙っていると年季の入った悪党に見える。仕事は普通の理髪師で、歳はまだ二十八なのだが。

「お鍋、煮えたんじゃない?」由美がケンの器に手を伸ばし、「ケンちゃん、取ってあげる」

 ケンは視線を下げて由実を見ないようにしながら、由実の差し出す器を受け取った。それをテーブルに置き、五秒ほどしてから顔を上げ、「サンキュー」と言った。その時の笑みが少し大げさ、に私は思った。やはりあれが気になっているのだ。

 また話が途切れ、十分ほど経った頃、ケンが舌打ちをした。

「どうしたの?」とサキ。

「こういうの……もう、やめようぜ」ケンは苦々しげに言った。「オレ………だめなんだ、こういうの」

 三人は顔を見合わせた。


 一週間前、私と由実は、見られてはいけないDVDを早峰夫婦に貸してしまった。夜の事が映ったビデオだ。私は自分で撮ったビデオを編集し、音楽や文字を入れて自家製DVDを作るのが趣味で、行楽地に行った時は必ずビデオを撮る。そんな趣味の延長、という感じで、数年前から自分たちの夜の営みを撮るようになっていた。

 間違いの始まりは、千葉のマリンパークで撮ったビデオだった。それを見たいという早峰サキのリクエストに応えて、コピーを作ったのだが、そのDVDを、夜のDVDを焼いたついでに焼いたのがいけなかった。ラベルを貼る前の二枚が机上に並び、それを取り違えた。

 私と由実は、恥ずかしくてそれきり早峰夫妻と話していない。そうこうするうちに一週間が過ぎ、前々から予定を入れていた温泉旅行の日が来てしまったのだ。

 あれを見れば誰でも、私たちのことを異常な趣味の夫婦だと思うだろう。私と由実はそれが怖かった。


 鍋の中で煮えた貝が、カクゥア、と音を立て開いた。

「ここに来るまでだって、何か雰囲気へんだったし……」ケンはサキに向かって、確認するように「な?」と言った。

「わかった」サキは応え、私たち二人を見た。「私たち、……見たの」

 私は由実の反応をうかがった。由実とサキは、中学時代からの親友だ。あれを見られて、私より何倍も恥ずかしいに違いない。由実は顔を伏せ、手に持ったおひたしの小鉢を凝視している。

 私の頭の中に、ビデオに映った自分たちの姿が浮かんだ。後ろ手に縛った由実の顔を床につけさせ、膝だけ立てて尻を上げさせ、そこを私が平手打ちしているシーン。サキはそれも見たのだろうか?

「ごめんなさい。でも……」とサキ。

 窓の外から、酔っているらしい男女の嬌声が聞こえる。この旅館から道路一本隔てた向こうは浜で、桟橋と灯台が見える。その夜景にひかれて、浜におりていく温泉客は多い。

「もう忘れようよ」とケン。「おれたちも忘れるから、みんなで忘れよ」

 もう一度由実の様子をうかがうと、彼女はさっきと同じ姿勢で固まり、耳を朱に染めていた。

「うん……そうしてくれると……ありがたい」私は喉から言葉を押し出し、命綱を取るようにビールに手を伸ばした。

 浜から、パチパチという花火の音がし始めた。

 由実が立ち上がり、顔を両手のひらで覆って部屋から出ていった。サキがすぐに後を追った。私とケンは、開け放しになった扉を見続けた。

 戻った由実は、目頭を赤くしたまま「ごめんなさい」と言い、席に戻った。

 私はビールを口に運び続けた。ケンは腕組みをして、鍋の炎を見ていた。サキと由実はただ座っていた。

 サキが言った。「食べないんなら、片付けてもらおうか」

「なあ……」とケン。「もし、このままにしたら、おれたち、もう、それで終わりだと思う」

 私は顔を上げた。いつも無口で、微笑しながら人の話を聞いているだけのケンが、自分から何か言いはじめるのは珍しい。

 ケンは続けた。「忘れようと言って、簡単に忘れられるもんじゃないのは分かってる。だけど、あんなもののために……ごめん、そういう意味で言ってるんじゃないんだ……だけど、おれが言いたいのは……そのせいで今みたいに気まずい雰囲気になるのは……もったいないっていうか、バカバカしいっていうか……」

 私はケンの顔から目を離せなかった。いつも気楽に、流れのままに生きているように見えるケンがこんなことを言うとは。

「そりゃ僕たちだって、これからも同じようにやりたいと思ってるよ」私は言った。

 ……だが、忘れろと言われて忘れられるものでもない。

「それなら頼むよ、どうか忘れてくれ。こっちから頼むのは変かもしれないが、どうか忘れてほしい。みんなで忘れればいい」とケン。

「そっちが言うのは簡単だ」私はピシャリと言った。生々しいビデオの話題には、もう触れたくなかった。尻切れとんぼのまま沈黙が続いた。

「あのこと、言っていいか?」ケンはサキに確かめた。 え、待って、というサキにかまわず、ケンは続けた。「こいつとも話したんだ……俺たちのも、見てくれないか」

「……?」

「俺たちが……そのう……同じことをやっているところを……こっちも見せるよ。俺たちだけ見ておいて、それで今まで通りやっていこうなんて、都合のいい話だからな」

 そう言うとケンは立ち上がり、浴衣の帯を解きはじめた。

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