トイレット生活
洲央
トイレット生活
ごろごろうるさい胃腸の雷。昨日食べたものがいけなかったのだろうか。お腹の調子がおしまいになってしまい、一日中自宅のトイレにこもっていた。
こんなご時世、不要不急の外出と三密を避けられる自宅のトイレにこもるのはきっと正しい。排泄は必要性急の秘密だから、誰にはばかることもなく行える。
必要な物資は配達人が届けてくれる。インターネットありがとう。
私はトイレで眠り、トイレで目を覚まし、トイレで歯を磨き、トイレで食事をし、トイレで仕事をし、トイレで休み、トイレで楽しみ、トイレでまた一日を終える。
換気扇はカラカラ回り続け、電球はぼんやりと光り続けている。私は排泄を続ける。
そうしているうちに、市役所の人が何回もやって来るようになった。工事業者の人も三回くらいやって来た。何枚かの紙にサインをし、何枚かは突き返した。この間も、もちろん便器にはクソや小便が垂れ流されていた。
断続的に大きな音がして、トイレも何回か傾いた。「クソが散らかる!」と私が抗議すると、申し訳なさそうな顔をした現場監督がやって来て、トイレットぺーパーを100ロール積んでくれた。トイレの中に入り切るだけもらい、後は恵まれていない人に配るよう言って返却した。
工事が済むと、トイレは一応安定した。これまで二階の高さにあったが、今は四階にあるらしかった。
「どこにあろうと関係ないが……」
私はクソを垂れ流し続けた。地球の重力が私の味方である限り、私は大丈夫だ。
やがて私に物資を届けてくれる担当者が変わった。これまでの中年男性から若い女性になったのだ。私が外界と直に接するのはこの時のみであるため、その変化は嬉しかった。日常に消臭剤の香り以外の華やぎが現れた。
彼女が仕事に慣れてきた頃、以前の担当者がどうなったのかを尋ねてみた。工事中も配達をしてくれた彼には、それなりに恩義を感じていた。
彼女は「彼は自分のトイレに引きこもってしまったの。誰にも言ってなかったけれど、もうずっと便が出ていなかったそうよ」とあきれ顔で答えた。
「それよりプレゼントがあるの。前から電気便座にしたいって言ってたでしょう?」
「ああ。でもあれは高くて無理なんだ」
「そう思ってこれ。起毛の便座カバー。あなたにあげるわ」
「ありがとう。助かるよ……でもなんで私に?」
「なんでって……どんな仕事だって初めてのお客さんにはサービスするでしょ。あなたが私の初めてなのよ」
それから私は彼女にもらったピンクの便座カバーを使い始めた。これでもう冬にトイレットペーパーを束ねて敷いて、猿みたいに真っ赤な尻を温めてやる必要はない。この出来事をきっかけに、私は彼女に好意を抱くようになってしまった。
それからまた工事が始まり、私のトイレはどんどん高いところに昇って行った。その間も、私はクソを出し続けた。
季節が一周回っても工事は全然終わらなかった。毎日外から音がするし、時折トイレがガクガクと揺れる。気分は最悪だったが、いいこともあった。顔を合わせるたびにアタックした成果のおかげで、私は配達人の彼女と恋仲となることができたのだ。
彼女は外で恋人と別れたばかりだったらしく、私に物資を届けて短い会話を交わすのが息抜きになっていたそうだ。トイレの外ではたくさんの事が起こっているから、この中の静寂が彼女には癒しだったという。
換気扇は古いし、電気系統は常に死にかけの老人みたいな唸り声をあげているトイレは、正直それほど静かだとは思えない。けれども毎日外から聞こえてくる工事の音や交通の音を鑑みるに、外の人間からすればここは十分静寂の領域に入るのだろう。
彼女によれば、世界は止まることなく進化しており、雨後の竹の子のようにビルが生えては頭上のビルに浣腸をし続けているらしい。
「ここくらいよ。変わらないのって」
彼女がそう言って私に顔を寄せたのは、ある冬の夜だった。
「そんなことはない。変わることもある」
私は貯水タンクに背中を預けて、彼女のキスを受け入れた。
「そうね……でも、好ましい変化よ。外と違って……」
「そうだね。きっとそうだ……」
そうして、私たち二人は便座の上で一つに繋がった。私はこのトイレに座ってから初めて、排泄物以外のものを発射した。
これまで週に二度だった訪問はこれをきっかけに週五回になり、ついには毎晩の恒例になった。
起毛の便座カバーがあると尻が蒸れてしまうことに気付いた夜、私は夏がやって来たのを知った。
「……ここで一緒に暮らさないか」
「それって、結婚ってこと?」
「そうだ。結婚だ。結婚しよう」
「……」
「ねえ、いい考えだと思わないか?」
「……」
彼女がちっとも返事をしないせいで、私は心配になってしまった。
彼女はいつも、事を済ませるとトイレットペーパーで後処理をしてすぐにここから出ていってしまう。私は彼女のためにトイレの中をできるだけ清潔にしているし、消臭剤だって炭から彼女の好きな檸檬に変えた。ここの居心地はそれでも悪いのだろうか。
「ダメだろうか。私はしがない便所暮らしだけれど、君を養っていくくらいの貯えと、仕事のスキルは備えている。もし君がこのトイレが嫌というのなら……」
「そうじゃないの」
彼女は私の言葉を遮って、自らの口元に手を当てた。目元には大粒の涙が溜まっていた。
「私……嬉しかったの」
「それってつまり、オッケーってこと?」
思わず聞き返した私の腸がぎゅるぎゅると鳴る。怒涛の勢いで溢れ出した排泄物が、便器の水にびちゃびちゃと落下していく。
「オッケーってこと。私もあなたと結婚したい」
彼女はハードルをまたぐみたいに股を開いて、私の膝に飛び乗ってきた。
「それじゃあ今から、私たちは夫婦だね」
「ええ、夫婦ね……」
彼女は左手を伸ばしてドアにカチャリと鍵をかけた。このトイレの鍵が閉まるのは、私がここに入ってから初めてのことだった。錠の閉まる金属音は、何だかすごくプライベートな感じがした。
「新婚旅行は下水道かな?」
「浄水場の方がロマンチックじゃない?」
「それなら両方行こう」
「いいわね」
彼女から見下ろされると、腹の中がすべて空っぽになるくらい便が出た。私は何度かノブをひねって水を流し、汚れた尻をペーパーで拭いた。
妻となった彼女はやがて妊娠し、私はトイレの前方に子供用のスペースを設けなければならなくなった。これで身体を折り曲げて便を腸から押し出すことはできなくなった。代わりに、いつでも赤ん坊の顔を見ることができる。
妻は配達人の仕事を辞めて、フリーになった。新しい配達人は味気ないクワッドドローン。もはや、私たちのような出会いの形はこの世に存在していないらしい。
けれども、それも仕方のないことだ。人の暮らすビルはどんどん高くなり、私のトイレも今や摩天楼の遥か頂にあるらしかったから。
妻はトイレの外に広がる景色が好きだと言った。光の海のようで素敵だと言った。夜になると必ず「この景色を見るたびに、あなたと結婚して良かったと思うのよ」とはにかんでくれた。私は外の景色は知らないし、興味もなかったが、楽しそうな妻を見るのは好きだった。だから決まって「私も良かったと思うよ。君が妻になってくれて」と返すのだった。
何百回かの排泄と睡眠を経て、僕たちの子どもが生まれた。丸くて、赤くて、しわしわだった。彼は檸檬も炭も苦手なようだったから、消臭剤選びには苦労した。あれもダメ、これもダメ、最終的に石鹸の香りに落ち着いた。
二人で苦労して世話をしながら、子どもの将来について色々なことを話した。彼にはここから出て広い世界を知ってほしい。たまに戻ってくるくらいでいい。妻もそれに賛成してくれた。
「私の知っている世界はここからの眺めとトイレの中。私にはそれで十分だけれど、この子にはもっと自由な世界を知ってほしいの」
私が排泄するのと同じペースで、私たちの息子も排泄をした。彼は私たちと同じペースで食べ、眠り、呼吸をし、すくすくと育っていった。
「もう嫌だ。こんなところ」
中学生になった息子は反抗期を迎え、私と妻のトイレから出ていってしまった。壁中に貼られた家族の写真が、輝く瞳で彼の背中を虚しく見送っていた。
心配する妻をそっと抱きしめながら私はつぶやいた。
「……いつかこうなると思っていたけれど、早かったなぁ」
「あら、そうなの?」
「私も昔、同じくらいの頃に実家を出たことがあったんだ。人生初の家出だった」
「どれくらい我慢できたの?」
「……三日。それが限界だった」
「お金が無くなったの? それとも寂しくなっちゃった?」
妻のからかうような口調がこそばゆかった。
「いいや。違う。ただ、もう便がね。我慢できなくなっていた」
「どこかですればよかったのに」
「ああ……だけどやっぱり、家の便器が何よりも気持ちよくて、そこ以外で便をするには、僕はまだ子どもだったんだな」
そのことに気付いたのかは分からないけれど、息子は二日で帰ってきた。妻は「お父さんよりもいい子ね」と彼を抱きしめて、その薄い背中を撫でた。
まだまだ幼い。そう思っていたのに、息子はトイレットペーパーを巻くようにすくすくと大きくなっていった。そして、起毛便座カバーが尻離せない季節の終わりに大学に合格し、排泄物が流れるようにあっけなく私のトイレを出ていった。
「大きなクソを出しきった気分だ」
感傷的になった私は汚い言葉を天井に吐いた。妻はすべて分かっていて「私がいるわ」とそっと私を抱きしめてくれた。
我が家の男は抱かれるのに弱い。私は消臭剤の匂いを久しぶりに変えようと思った。石鹸はもはや私たちのトイレの匂いそのものだったが、昔のように檸檬に返るのもいい。
妻にそう提案すると「それなら炭にしましょうよ。出会ったばかりの頃を思い出して」と微笑みと共に軽いキスを返された。皺はいくらか増えたものの、彼女は昔と変わらず魅力的だった。私たちは便座の上で重なり、二人になって少し広くなったトイレを存分に使った。
私たちの間に中年の危機はなかった。相変わらず私はクソを垂れ流し、彼女は私に乗っかった。トイレは信じられないほど高いところで、複雑な街の一部となっていた。
変化の中にあって、変わらないものがあることは救いだった。ドローンはどんどん小型化し、高性能化していった。おしゃべり機能だけでなく健康診断機能まで搭載し、毎日物資を運んで来ては「今日も快便ですね」などと滑らかな合成音声で話すのだった。
息子が帰ってきたのは春先のことだった。プレゼントとして桜の消臭剤を持ってきてくれたが、私は本物の桜など、もう何十年も目にしていなかった。
トイレの入り口を開けて正座した息子は「お父さん、おじいちゃんになるんだよ」と嬉しそうに告げた。私は初めは何のことか分からず「おいおい、私はまだ現役だよ。便だって毎日出てる」と首を傾げた。
「そうじゃなくて、孫ができるってこと。これを機会に結婚するんだ」
「孫だって? じゃあお前、相手は?」
すると、息子の後ろからメガネをかけた小柄な美人がすっと現れた。
「私が、彼の、お嫁さん、です」
片言だが、それは確かに日本語だった。
「国際結婚なんて素敵じゃないの!」
妻が満面の笑みを浮かべた。顔がひどくしわくちゃになって一気に老けたように見えた。
「一つだけ教えてくれないか?」
私は息子の妻になる人に真剣な口調で話しかけた。
「なんで、しょうか?」
慣れない日本語だけれども、彼女の緊張がひしひしと伝わってきた。
「あなたの国にはウォシュレットはありますか?」
彼女はきょとんとした顔をしてから小さく頷いた。
「それならいい。息子をよろしくお願いします」
その場がどっと沸いた。
「お父さん、何かと思ったらウォシュレットだって? 今時ないのなんてこのうちくらいのもんだよ」
「あなた、私恥ずかしいわ」
「お父さん、ひょうきん、私、うれしい、です」
「お前たち、バカにするな。私はもう六十年以上毎日排泄しているが、肛門の清潔度は大事だぞ。私の世代にとってね、ウォシュレットは憧れなんだ」
トイレの外は別世界かと思うほどに進化しているが、人の営みは変わらない。食べて、出して、寝なければ人間は生きられないのだ。
排泄における快適度はそのまま人生の快適度に繋がる。私は旧式のトイレで生きてきた男だ。だからウォシュレットは憧れだった。紙よりも優しく肛門付近を綺麗にしてくれる魔法の装置。この慣れ親しんだ空間を壊したくないあまり、私はその導入を避け続けてきたのだ。
「それじゃあお父さん、僕たちがプレゼントしますよ」
「そう、私たち、便座メーカー、出会った。プレゼント、します」
「お前たち……うぅ、私はいい家族を持ったなぁ……」
「あなた……」
私は妻と抱き合って泣いた。尻からはたくさんの便が排泄された。
息子たちが帰ると、私と妻は何度もキスをした。ウォシュレットが私のトイレにやってくる。孫ができることよりも、そのことの方が嬉しいくらいだった。
息子たちは翌日またやって来て、トイレの色々なことを調べてくれた。ウォシュレットは私一人の力でも取り付けられる最新のものを用意してくれるという。
「それじゃあ、僕たちは帰ります」
「孫、生まれたら、会い、きます」
二人が去って静かになったトイレで、私は妻とウォシュレットについて話した。妻もそれを欲しがっていたことが分かってほっとした。
思えば、私はトイレに入ってからというもの、自分の願望をあまり出さなくなっていた気がする。トイレという空間にいるだけでほとんどのことは満たされていた。出すものは出るし、足りないものは運ばれてくる。生きるのに何の不足も感じていなかった。
だから、妻は私にとって特別だった。私が欲しいと強く望んだ、ただ一人の人が妻だった。私には自分の願望よりも彼女の気持ちの方が絶対に大事だった。
「君に出会えて幸せだ」と私は言った。
妻は枯れ木のように細くなった手を私の頬に添え、「私の方こそ。愛しいあなた」と、薄い唇でキスをしてくれた。
ウォシュレットが来て、生活はさらに快適になった。ドローンにそのことを自慢すると「濡れたければ、ワタシには雨がありますから」とよくわからない皮肉を返された。
ドローンによれば世界は相変わらずめまぐるしく変化しているらしい。しかし、私のトイレは拡充する街の中にあって不動であった。息子たちがこのトイレに辿り着くのは日に日に難しくなっていっているようだった。そのこともドローンが教えてくれた。
「ワタシが通信を負担しましょうか?」
そう提案されたときは驚いて「どうして君が?」と聞き返してしまった。
ドローンは「ワタシはこのトイレがなかったらとっくに廃品だからです」と答えた。人間じゃないから本当のところは分からなかったが、きっと彼は悲し気に笑っていた。
私は「それじゃあ頼むよ」と彼に握りこぶしを向けた。
彼は「ドローンに手の概念はありません」と上下に小さく揺れると、尻を向けてあっけなく去っていった。
こうして手に入れた遠隔通信タブレットが役立ったのは、それから一年半後のことだった。
「これがあなたの孫ですよ! ほら、おじいちゃんに挨拶して~」
息子の妻はこの短い時間で日本語が随分上達していた。そして、彼女が抱えている私の孫は、画面越しでも輝いて見えるほど可愛かった。
「ち、小さいもんだな……」
おずおずと手を振り返すと、偶然であろうが、孫は笑顔を浮かべてくれた。
「鼻の形があなたに似ているわ。親子三世代で受け継がれたのね」
妻は私の横で幸せそうに笑っていた。
すべては幸福だった。私のトイレは相変わらず工事の音に囲まれてグングン高さを増しているようだが、そんなものにはとっくに慣れてしまった。目を覚まし、排泄し、食事し、半ば引退した仕事を趣味みたいに続け、ドローンと会話し、孫の様子を見て、妻と昔を懐かしみ、星の話をしながら眠る。
満たされた日々はそれから十年ほど続き、幸せの形がDNAにまで刻まれた頃に、私は妻を喪った。
突然だった。彼女は便器に血を吐いて倒れ、ドローンに運ばれた先の病院であっけなく亡くなった。
私はトイレからそれを見ていた。ドローンは妻を運ぶので精いっぱいだったし、世間知らずの私に病院まで一人で辿り着く手段はなかったから、そうしているしかなかった。便器にクソを垂れ流しながら、私はタブレットを握りしめて泣いた。
妻は鋼鉄病に高濃度で汚染されていたらしい。これは工事の粒子を吸い込みすぎた人間の肺が感染する病気で、初期段階で適切な治療を受ければ簡単に治るはずの病気だった。
私は自分を責めた。妻は時折トイレを出て、周辺を散歩しに行っていた。私もそれについて行けばよかったのだ。妻の一人の時間を尊重するあまり、彼女がどれほど危険な場所を歩いているか分からないでいた。そのくせ「今日の夜景はどうだった?」などと暢気に景色の話をしていた。
「ワタシはもう、この仕事を引退しようと思います」
妻の遺灰を届けてくれたドローンは、そう言って小さく上下に揺れた。配達ドローンのスキャニングは旧式で、妻の状態変化を見抜けなかった。彼はそれに責任を感じていたらしい。
「やめてくれ」
私は首を横に振った。
「お前がいなくなったら、私は本当に一人になってしまう」
ドローンは再び小さく上下に揺れた。
「それはどういうジェスチャー?」
そう尋ねると、ドローンは「ワタシが壊れるまでは、あなたの我儘を聞いてやろう人間、というジェスチャーです」と答えた。
妻の死を聞いた息子夫婦は追悼の言葉と檸檬の消臭剤を贈ってくれた。
私は便器に遺灰を流した。檸檬の香りが涙を誘った。私のトイレは今や、妻を偲ぶ墓でもあった。
また初めの広さに戻ってしまったトイレには違和感があった。ちょうど妻の大きさだけ、そこには空白ができてしまった。
起毛便座カバーは、もう使わないことにした。消臭剤も、炭ばかりになった。妻を思い出す縁は写真だけでいい。
私は相変わらず排泄を続けていた。妻が死んでも、私の便は止まらなかった。
ドローンは日に日に汚れていった。挙動も怪しくなっていった。もはやこの機械を修理する者もいなければ、部品も見つかりはしないのだった。
息子夫婦は順調に生活しており、時折孫とビデオレターを送ってくる。孫は三人に増えており、一番上は高校生になっていた。
私はトイレから家族を見守る。妻の写真を手に持ちながら、ふんばることなく自然に排泄する。ウォシュレットは快適だったが、その存在にも慣れてしまった。私が慣れないのは、妻の不在だけだった。
「あなたと、ワタシ。どちらが、先、でしょうね」
「君かな。しゃべりも随分たどたどしくなった」
ドローンだけが、私のトイレを訪ねてくれる確かな人格だった。
「太陽電池が、寿命かもしれません」
「電池、か。そういえば、どうしてまだこのトイレには電気も、物資も、水も届いているのだろうね。私にはまったく見当もつかないよ」
「存じません。ワタシはただ、命令を実行する、まで」
「そりゃそうか。でも、一度くらい出てみようかな。ここから。妻が好きだったんだ。景色や星を眺めるのが」
するとドローンは上下に小さく揺れて「やめた方が、身のためです」と言った。
「君の言葉はいつも直接的かつ皮肉的だね。思いやりとか、そういう回路はないの?」
「人間が、複雑で、面倒なのです」
「そりゃそうか。うん。じゃあ止めるよ。きっと止める」
「お願い、します」
ドローンはそして去っていった。人間臭いというか、あれは人間以上に人間だと私は思った。もっとも、私は妻と息子夫婦以外の人間をもはや知らないのだけれども。
「……身のため、か」
トイレの外に興味はあった。外について私が知っていることといえば、大いに発展しており、景色が綺麗で、常に工事を続けてるということくらいだ。
息を吸うのと同じくらい自然に、私はトイレから出る覚悟を決めた。というより、もういいかな、と思ったのだ。
妻は先立った。孫たちは元気だ。ドローンはポンコツ。私の便は今も快調。それならば、いよいよ重い腰を上げる時が来た。
ちょうど季節も、過ごしやすい五月の半ばだ。
私はウォシュレットで念入りに尻を濡らし、トイレットペーパーで穴を拭き、すべての汚れを水で流して、立って便座に蓋をした。これが下ろされるのは何十年ぶりだろう。もう覚えていない。
便器の穴が見えなくなるのは、私にとって大いなる苦痛だった。そこに流せば見えなくなる。そこに流せば解決する。そこに流せば、それは私の中から離れる。私にとって便器の穴はあらゆることを忘却するための穴だった。それは救済そのものだった。その穴をふさぐというのは、現実のすべてを私の身一つで受け止めるという覚悟を決めることに等しかった。
私はパンツとズボンを穿いた。これもまた、何十年ぶりかのことだった。お腹の中がすっかり空っぽなのを確認して、漏らす可能性はゼロだと認識する。いつでも出したい時に出せる環境にいた。もう、私は排泄欲を我慢することを忘れていた。
「大丈夫。しばらく何も出てこない」
そして私は、トイレのドアに手をかけた。ノブを握って、九十度回す。腕を前に押していくと、ギィという音と共に扉が開いていく。
「くっ……」
世界の光が、私を包む。眩しさに目がくらみ、何も見えなくなってしまう。それでも私は開くのを止めない。限界まで手を伸ばしたらドアノブを離す。
「あぁ……これが」
涼しい風が吹いてくる。私の髪の毛を揺らしている。閉ざされたトイレは、世界に向かって開かれている。
「いざ、」
私は目を開け、真っ白い光景を見つめながら、一歩足を踏み出した。
「えっ……」
そのまま私はバランスを崩し、真っ逆さまに落下を始めた。
目が慣れてきてようやく気付く。私のトイレは崖上にあった。ビルが作った断崖絶壁の頂点にあった。
ドローンが落下する私を見つけて「助け、ましょ、うか?」と問うてくる。このままいけば私はつぶれて死ぬのだろう。
「今な、ら、まだ、戻れ、ます。ワタシの、最後の、力で」
その申し出はありがたかった。私に向けられた彼の友情を確かに感じた。
けれども私は、空を見ていた。満天の星空が、私のつま先に広がっていた。妻の先に、広がっていた。
「……いいや、このまま最期まで星を見せてくれ」
「わか、りまし、た」
ドローンはそれっきり、何もしゃべらなくなってしまった。あるいは私より一足先に寿命が尽きたのかもしれない。
もっとも、ドローンに足はないのだが。
「……ふふっ」
とにかく私は落下する。トイレから出て、妻の好きだった星を見ながら落ちていく。
ふと首を回して世界を眺めてみれば、上下左右、どこにも星が煌めいていた。街の明かりは生活の明かり、あるいは工場やビルの明かり、乗り物の明かり、看板の明かり、管制塔、電灯、無数のドローン、生きとし生けるすべての明かり。
地上も、空も、星海だった。
黒く曖昧な水面に瞬く、美しい命たち。
時間が経っても、人が生きている限り、その営みは変わらない。食べて、排泄して、愛して、眠る。
昼と夜、光と闇、星と空、愛とその終わり。
私の人生も、だからきっと正解だったに違いない。私は輝く愛を得て、こうして暗闇の中で終われるのだから。
私は排泄物のように速やかに落下し、薄暗い夜の水に流されて、ぺちゃんこになって人生を終える。私の落下は排泄だった。私が最後に出した大便であり、小便だった。
私の人生のすべてと言っても過言ではないトイレはもう、どこかへ消えた。それでも私は感じていた。今まさに、私はトイレに流されている。あの終わりの穴へ、この全身を投じているのだ。
ウォシュレットも、トイレットペーパーももはやいらない。誰も後始末はしなくていい。便座だってそのままで、水も流さなくて構わない。
ただ出すだけ。それだけでいい。
私はずっと、この状態になれる日を待っていた。何の気兼ねもなく排泄をする。その後のことは考えない。そうなれる日を待っていた。それがようやく、こうして叶った。
だからいい。なんでもいい。私はこれで幸せだ。
私は静かに目をつむり、幸福感に身を委ねた。
べちゃっと潰れて終わりになって、ようやく便意は収まった。
緩んだ腹を撫でながら、私はそっと立ち上がり、水を流してカバーを閉じた。電気を消して、ドアを開いて、私はトイレを後にした。
「……ふぅ、すっきりした」
私の胃腸は気まぐれだ。それでもこの後でヨーグルトを食べたなら、今日より明日は調子がいいはず。
明日にはきっと、よくなっている。
トイレット生活 洲央 @TheSummer
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