第12話

  「なんだ…これは…」

  公叔嬰は己の眼に映る光景が現実とは思えなかった。

 

  己が手塩にかけて育てた重装歩兵部隊 玄武。

  その屈強さは中華一だと自負していた。

  彼らは五カ月にも及ぶ連合軍の苛烈な攻撃にも耐え抜いた。

  正に一騎当千の強者たちだ。

  彼らの前では秦軍も海に揺蕩たゆたあぶくの如く弾ける違いない。

  そう思っていた。


 

  だからこそ目の前に広がる光景が信じられなかった。



  韓軍の精鋭たちの大海を単騎で渡る男がいた。

  その男は暗闇の中で燦々たる輝きを放つ漆黒の鎧を身に纏い、両腕には重さ二百斤は降らぬ鉄のげきを携えている。

  二振りの戟にはそれぞれ鳳の意匠が凝らされ六つの眼が餌を前に怪しく光っていた。

 

  天に轟く咆哮と共に鳳が一度羽ばたけば屍山が積み上がり、二度羽ばたけば血河が湧き出る。

  その気は天を覆い、鬼のような形相は見たものをことごとく畏怖させた。

  男の周りには常に血の霧がつきまとっていた。

  男が乗る馬の蹄が悲鳴を奏でる。

    男が進む先にはうつろが顔を出した。

  男が進んだ後には屍のわだちができた。

 

  士気高く闘志が漲っていた部隊は己の戦う意味すら忘れ恐怖に震えた。

  たった一騎に部隊が敗走し始めている。

  武器を構え立ち向かった勇敢なるものもいた。

  だが数秒後にはそのものらの胴体は遥か彼方を舞っていた。


 

  「なんなのだ…あれは。」

  鍛え上げた集の力が圧倒的個の暴力に蹂躙されていく。

  しかも、明らかに男は恐るべき速さでこちらに向かってきている。

  間違いなくこの公叔嬰総大将の首を狙って。

 


  公叔嬰は体の震えを必死に抑えながら号令を下す。

  「奴を止めろ!なんとしてもこちらに近づけるな。味方を巻き込んでも構わぬ。射て。」

  公叔嬰の非情なる命令に反発するものなどおらず、皆が一斉に矢を放つ。

  放射線を描いた矢の雨がたった一人の男を目掛けて降り注ぐ。

  が、男の馬はそれをいとも容易く潜り抜けた。

  矢が遥か後方で空虚な音を立てる。

  速度は緩まることすら知らない。

  いや、むしろ速くなっている。

 

  (ならば。)

  公叔嬰は己の背にかけた弓を番え矢を引きしぼる。

  公叔嬰の弓は特注で、韓国内で彼の他にこれを引けるものなどいない。

  放たれた矢の威力は雄牛の腹を貫くほどだ。

 

  (これは韓王様直々に賜った業物。頭をぶち抜けばいくら奴とて生きてはおれまい。)

  狙うは矢の雨を潜り抜け、奴が前のめりになる瞬間。

  公叔嬰は矢にありったけの想いを込め放つ。

  ただ真っ直ぐと線をなぞるように飛ぶ矢は男の方へと吸い寄せられていき寸分違わず額を射抜いた。

  男は反り返り、空を見上げる顔からは湯気が立っている。

 

  (勝った。)

  公叔嬰の胸の中が勝利の甘さで溢れる。

  周囲からは、はち切れんばかりの歓声が上がる。

 

  我らが大将が敵軍の悪魔を討ち果たした。

 

  その事実が兵たちにさらなる自信と誇りを呼び起こす。

  特に一度奴と対峙し、心を折られ撤退しようとした兵たちは失態を回復しようと実力以上の力を発揮するだろう。


  もはや我らに敵はいない。

 

  公叔嬰は目の前にいる敵を皆殺しにせよ、と高らかに叫ぼうとした。

  が、そこで一つ違和感を覚えた。


 

  男が止まっていない。

  馬の腹をその両足でしっかりと挟んでいる。

  上を見上げたままたおれようとしない。

 

  なにかがおかしい。

  なにかが変だ。


  公叔嬰の違和感を感じとったかのように反り返った男の体が緩慢な動作で徐々に起き上がっていく。

 

  「なっ…」

  思わず目を見開く。

 

  (まさか?!まさか?!まさか?!まさか?!まさか?!まさか?!まさか?!まさか?!まさか?!まさか?!まさか?!まさか?!まさか?!まさか?!まさか?!まさか?!まさか?!まさか?!)

  最悪の想定が公叔嬰の頭をよぎる。

  いつのまにかびっしょりと汗をかいていた。

  体の奥深くから震えが際限なく生まれてくる。

 

  ( お願いだ。杞憂であってくれ。)

  公叔嬰は祈るように男の動向を注視する。

 

  が、公叔嬰の願いをあざ笑うが如く男の体は完全に起き上がり、未だ空を見上げたままであった顔がグインと正面を向く。

  男の口からはバラバラに噛み砕かれた矢が吐き出され、その視線は公叔嬰をしっかりと捉えていた。


 

  公叔嬰は蛇に睨まれた蛙の如くその場から一歩も動けなくなった。

  まるで心臓を鷲掴みにされたようだ。


 

  男は再び韓軍の群れに乗り込み、目につくもの全てをなで斬りにしていった。

  誰も防ぐことができない。

  鉄の盾が、鉄の鎧が何の意味もなさない。

 

 

  周囲の兵たちが皆悲鳴をあげる。

  狂喜の場が一瞬にして狂気の場へと変貌した。

  「あっあいつは人間じゃねぇ。悪魔なんだ。」

  誰かが遺言としてその場に残していった。

  振るわれる凶刃が歴戦の勇者たちの命を攫っていく。

 

  公叔嬰のすぐ近くにまで悪魔は迫っていた。

  「公叔嬰様、我々が時間を稼ぎます。今のうちに退避を。」

  側近たちが果敢にも悪魔に攻めかかる。

  だが、時間稼ぎにもならない。

  精鋭部隊の中からさらに腕利きを選抜した公叔嬰に絶対的な忠誠を誓う親衛隊が自らの血肉で戦場に雨を降らせる。

 

  悪魔はついに公叔嬰の目の前に降り立った。

  遠くから見るだけでも圧倒されそうだった圧力が肺を凍らすほど重く、冷たくのしかかる。

 

  悪魔は異様に長い舌で己の顔一面を覆っていた返り血を拭い去る。

  そこで、ようやく初めて悪魔の顔が公叔嬰の前に晒された。

 

  「思い出した…」

  公叔嬰は一度戦場でこの悪魔を見たことがある。


  いや、こいつは悪魔などという生易しいものではない。


  秦王直属の六人の大将軍、通称 極天武則きょくてんぶそく

 極天武則は秦における武の頂点であり、あらゆる面で優遇され、なんと自由に戦争を始められるという特権まで与えられているという。

極天武則に上がる条件はたった一つだけ。

それは挙げた首級の数。

ただ、それだけだという。

さらに極天武則内でも序列が存在しており首級が高い順にさらなる優遇がされるのだ。

その第一席に先代の秦王の時代から君臨する男。

  一騎討ちはおろかその生涯で参戦した戦において負けを知らず、傷を負うことすら稀だという全中華最強級の男。

 

  そのあまりの闘いぶりについた二つ名は夢修羅むじゅら

  またの名を 大将軍 烏獲うかく


  「烏獲ーーーー!」

  公叔嬰は戟をとり夢修羅に斬りかかる。

  その姿は紛れもなく、国の軍を預かる総大将としての只ならぬ覚悟が秘められた漢の姿であった。

 

  だが、烏獲は蝿でも払うかの如く軽く戟を一閃させる。

  それだけで公叔嬰の体は馬ごと真っ二つとなった。

  公叔嬰は何をされたのかを知覚する暇もなくその意識は暗闇へと呑み込まれていった。


 

 

  すでに、こと切れた公叔嬰を横目で流した後、もうすでに興味が失せたのかそれともハナから興味などなかったのかさっさと視線を宜陽の城壁へと向ける。

  そして、新たなる獲物を探して夢修羅は戦場の闇の中へと消えていった。



  それからほどなくして宜陽は陥落した。

  斬首七万にも及ぶ韓軍の大敗であった。


 

 

 

 


 

  秦の武王はその報を華美なる宮殿の玉座にて聴いた。

  武王は大いに声を出して笑い、使者に甘茂たちへの労いの言葉と共に次なる勅命を授けた。



  「きょうらくを周遊できれば死んでも良い。」

 

  その一言が後に秦国にかつてない悪夢をもたらすことになることも知らずに。

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